暑さにも負けず
前編
俺の不幸はいつも、アイツのたった一言でいとも簡単に切って落とされる。
「マンデーコップ食べたい」
最近気温は高くなるばかりで、ケルアの家から出る気も失せる。だから自然と、縁側に座って何の面白みもない庭を見詰めながら呆然と過ごす時間が増えてしまっていた。当たり前だが毎日同じ風景で、ここに座っているだけで全体を見渡せるほど狭すぎる庭だが、別に俺は観賞目的でいる訳ではない。
右斜め前には幹の太いがっしりとした大きな木が1本あって、青々と茂っている葉が丁度この縁側に影をつくってくれている。しかも、生温いとはいえ風の通り道だから、こもりきった家よりは涼しく感じるから、という2つの事が理由だった。そこまで自然に提供してもらっているんだから、これ以上文句を言うのはただの我侭だろう。
そしていつものように俺が縁側に座り込んだ時には、もうその大木には先客がいた。茶色くて透明な薄くて長い羽を持つ物体が1匹、さっきから空気までも切り裂けるようなほど大音量で耳障りな音で鳴いている。ほとんど休まず鳴くそのすさまじい声のせいか、それとも単にあまりのうるささに苛立っているだけか、よりいっそう暑さを倍増させているような気がするのは俺だけだろうか。
ふと、ケルアと出会ってから初めての夏、今日のように大木に引っ付いて金切り声を立てているヤツの名前をどうしても思い出せなかったので――念の為言っておくが、知らないんじゃない。忘れていただけだ――ケルアに尋ねた事を思い出した。畳の上でうつ伏せに倒れていたケルアは重たそうに顔を上げてゆっくりとこちらを振り向くと、呂律の回らない口調で「え、あれぇ? “ミンミミン”とか言うらしいよぉ……。覚えやすいっしょー?」確かそう言った。どんな時でも嘘を考える事に支障はないようだった。暑さのせいか発想は単純すぎて分かりやすいが。
――こう蒸し暑いと考えが変な方向へと脱線していく。手の甲で流れ落ちてきた汗をぬぐいながら、いっぱいあるからあげると、まるで俺の事を処理場のように扱うケルアがくれたうちわを持っている右手を動かす。高い所で1つにくくっていても服の中に流れ落ちて汗ばんだ背中に張り付いてくる藍色の髪を切りたいと思う事など、今まで1度もなかった。ケルアに出会う前までは、どんなに暑くても飛び回る元気はあったはず。……まぁ、それもはっきりとした記憶ではないから何とも言えないんだが。
右手は使っているので体を支えている左手を使う為に、上半身を起こして髪を引っ張るのと茶色い物体が鳴き止む、そしてそれはほぼ同時だった。俺の意識がここにあるのと静寂に包まれている絶好のタイミング、アイツが逃さずにすかさず発した言葉。
「マンデーコップ食べたい」
言葉の意味が理解できなかったので反射的に身体をひねって振り返るが、目に入ってきたのは、下向きに固定された扇風機の風があたる位置にうつ伏せになり、顔は向こうを向けているというさっきまでと全く同じ状態のケルア。その前に少し――いやかなり口論をして残りわずかな体力を使いすぎた結果がこれだろう。その原因も、アイツがいきなり、うちわをあげたんだからお礼としてあおげなどと命令してくるので――この時はまだ扇風機も出ていなかったし、ケルアは机の上に顔を乗せて本を読む気力はあった――、扇風機を出してこいと断ったという、当たり前の事から始まっていた。
扇風機体に悪いじゃんと口答えしてくるので首を回せば大丈夫だと言えば、持ってくるのが面倒臭い。あおぎ続けるよりも持ってきて扇風機に任せる方が幾分楽なので持ってこようかと尋ねれば、いいからあおげと最初に戻り、それを何度か繰り返して結局俺が苦労して2階から持ってきた扇風機を使っているようだ。が、弱風とはいえ自分でああ言っておきながら固定させているのは俺へのあてつけかそれとも首を回すと通り過ぎた時に余計暑さを感じるからか――、多分両方だろう。
こっちを見ていなかったので聞かなかった事にしようとゆっくりと気付かれないように顔を戻すが、
「オレンジヨーグルト風味シャーベットでも可」
どうやらそう上手くいってくれないらしい。何故コイツは気付いて欲しくない時に限って勘が鋭くなるのか……分からん。
これ以上無視していても同じ言葉が繰り返されてうるさい事この上ないのは安易に予想できたので、仕方なくケルアの方を振り返る。
「何が言いたい? はっきりしろ」
案の定、さっきまであんなにはっきりと喋っていたくせに、唸り声が返ってくるだけ。
尋ねてはいるが、2回目でケルアが言いたい事はもう分かっている。それと同時に、最初に言ったのがアイスの名前だという事も今更ながら理解した。だがもしアイスの“ア”の文字だけでも口にすれば、アイツは有無を言わさずこの猛暑の中を買出しに行かせるのは、今までの経験上この態度を見なくても分かる。
家の中ならともかく、一体どんな形かすら分からないものをわざわざ探しに行くほど俺はお人好しじゃない。第一、そんな気力があるんだったらとっくに出かけている。
しばらくケルアを見詰めていたが、相変わらず動かず時々変な唸り声を出しているだけだったので、黙ったまま視線を庭に戻し、結局何もなかった事にした。俺と同じでこの暑さと湿気に苛立ち、しかもさっきアイツの命令を断ったから虫の居所は最悪なはずだ。被害を受けるよりうるさい方がマシだろう。――よく考えたらさっきまでうるさかったじゃないか……。暑くて考える気力もなくなってきた。
再び茶色い物体が金切り声をあげ始めた。耳障りだが、これだけうるさければケルアの言葉が聞こえなかったという事にしても大丈夫だろう。取り敢えず免れた事に安堵し、そのまま鳴き続けてくれと願っている時だった。
風を切る音が耳元でなったと意識する前に、うちわであおぐ風とはまた違う強い衝撃が頬をかすり、鈍い音と共に茶色い物体が短く叫んだような低い音が辺りに響き渡った。乾いた音を立てて地面に落ちたものに視線を向ければ、そこには俺がさっき苦労して運んだ扇風機の土台についていた小さなリモコンが転がっている。今まで起こった事が全てつながるのに時間はかからず、もしあれが俺とうちわの間を上手く通り抜けなかったら……。そう考えただけで悪寒が走った。ケルアのものに八つ当たりするのは――それは“物”でもあり、“者”でもある――今に始まった事じゃないが、俺にかかる迷惑は後片付けくらいで今日ほど危機感を覚えた事はない。
風のあたった頬を、うちわを持ったまま手で軽くさすりながらゆっくりと肩越しに振り返ってみるが、アイツはさっきと同じ格好で扇風機の下にうつ伏せになっているだけで、ただ違っていたのは、扇風機の土台に小さな穴があいているだけだった。
視線を大木へと戻すが、目を凝らすまでもなくリモコンが当たったであろう場所は少しへこんでめくれている。視線を下へ移動させてリモコンも確かめてみると、普通に使っていてそんな場所に傷はできないだろうと思うところにくっきりと跡が残っていた。第一、俺が見ている限りケルアは扇風機の真下にいるのだからわざわざリモコンを使う必要がないので傷がつくはずがない。アイツ……やりやがったな……。矛先が俺に向くのも時間の問題だろう。多分――いや絶対。
静寂を邪魔するものもいなくなったので、アイツはまるで呪文でも唱えているかのように低く呟き始めた。何となく予想はできるが、ケルアの方を向かず耳を澄ましてみると、「アイスアイスアイスアイス」……やっぱり聴かなければ良かったと後悔する。
「メルヴィいぃ……アイスはあ?」
何度か息継ぎをして呪文を唱え続けていたケルアは、とうとう我慢できなくなったようで名を呼んでくるが、声に力が入っていないしこれ以上喋る気力がないのも伝わってきた。まぁ、大木がへこむほど力強くリモコンを投げれば、ケルアのように人を顎で使うものはそれだけで疲れるだろう。
目を合わせればアイツの眼力に気圧されるので、驚きのあまり思わず止めてしまった手を動かして冷や汗をかいた顔に風を送り、へこんだ部分を見詰めながら言葉を返す。
「氷でも食っとけ」
「や」
即答かよ……。氷もアイスも冷たくて暑さをしのげるものに違いはないじゃないか。それに、こんなに熱い中強烈な日光を浴びながら歩かなくてもすむし、金もかからない。味覚を我慢すればこんなにも得をするのにそれでもこだわるコイツの思考は未だに理解できない。……したくもないが。
「アイスも氷もそんなに変わりない」
「アイス! っがぁ、食べたいから君に頼んでるんじゃんかぁっ!」
そんな元気がどこに残っていたのか。大声で俺の台詞を遮り、短く、だけど壊れるんじゃないかと思うほど大きな音が響いたので何事かと思わず振り返ってしまったのだが――失敗した。左頬にははっきりと畳の目の跡がついた、疲労を浮かべた顔をこちらに向けて、だが睨み付けるような鋭い視線に捕まってしまった。もうすでに体力のないはずのアイツの頭の上にある握られた右手が震えているのは、俺の目の錯覚だと信じたい。
今はまだ良い。だが、夜に近付いていくにつれて気温も今よりも大分マシになってくる。そして何よりケルアは夜行性だ。それはもう朝と比べると別人かと思うほどで、夜に体力を使いすぎて朝にゼロになってしまうのではないかと思うほどでもある。つまり、今最も疲労を感じて重力にすら逆らえない時間のはずであるケルアがあんな大きな音を鳴り響かせるほど力を入れているという事は、それだけ怒りも比例しているはず。
あー……俺のテイクは身の保障しかないのか……? 結局今回も俺が折れる事となった事に心の中で溜息をつきつつ体をケルアの方に向ける。諦めたが、その前に1つ言っておく事がある。
「買うにも、どこに売ってるのか、どんな形なのか……全く分からないが?」
その言葉を聞いた瞬間、ケルアの目つきは一瞬にして柔らかくなった。単純だ……。扱いやすいが、応用が効かないのが唯一の弱点だろう。
コイツにとってアイスという存在は余程希望な光らしい。手の上で握り拳をつくっていた右手もだらりと横に倒れていた左手も、勢い良く床に手を置いたかと思うとその反動で上半身を起こし、投げ出されていた足を組みあぐらをかく。そして目線を下に向けて顎に手を当て、唸り出した。多分俺の質問の答えを考えているんだろう。……そんな勢い良く起き上がれる気力があるなら自分で買いに行けよ。
「えーっとね、コンビニに売ってて、マンデーコップは……こ、んな感じ? の入れ物でぇ――」そう言いながら、右手の人差し指の先と親指の先をくっつけて輪を作り、上に行くにつれてその輪は大きくなって下に行く時は逆に小さくなるのを繰り返した。……多分名前の通りコップみたいな容器を表しているのだろう。それだけの説明で何故疑問符がつく。「んで、オレンジヨーグルト風味シャーベットはー……こう、かな? ……うん」次は右手と左手をくっつけ半円をつくる。
――自問自答をし納得して笑みを浮かべアイツは頷いているが、はっきり言って俺にはさっぱり、
「分からん」
「えぇーっ。分かれよー」
笑顔も一瞬で崩れ眉をひそめられるが、俺はむしろこんな説明だけで買いにいける奴を見てみたい。そんな説明で全てが理解できたらこの世の中、どれだけ言葉が減るだろうかなんて思った。もちろん、口に出せばせっかく回避できたものが返ってくるので、顔にも出さないようにしたが。
「それは容器の説明だろう? 俺がそれを見た事あるならともかく、普通は自分がいつも買っている場所や、どんな味かとかどんな色かとか――、それくらいしないと分からないじゃないか」
視線を庭に戻し、うちわを持っている手を動かしながら溜息混じりで愚痴を漏らすが、いつまで経っても沈黙が漂うだけで返事が返ってこない。機嫌を損ねたか? そう考えると同時に一瞬最悪の状態を思い浮かべてしまったので、自分でも分かるほど表情を固めてあおぐ手を止めてしまった。
慌てて弾けるようにケルアの方を振り向くが、じっとこちらを見詰めていたらしい当の本人はまるでその反応を面白がっているかのように目があうと満面の笑みを浮かべた。
「うん。それもそうだね」
あぐらを組んでいた足を崩して片膝を立て、どっこいしょなんて親父くさい台詞を小さく吐きつつ俯いて地面に手をつき起き上がる。そんなケルアの様子をただ見詰める事しかできなかった俺と顔を上げたアイツの双眸が必然的にぶつかり、その時再び笑みを浮かべてくる。
嫌な予感がした。アイツが俺に向かって笑う時は、アイツが自分の思い通りになると確信して喜んでいる時だ。しかもそれは、俺の不幸までも含まれている。
「んじゃ、僕も一緒に行くよ。ちょーっと待ってて。着替えてくるから」
しかし意外にもアイツは、汗でべっとべとだからなー、なんて呟き頭をかきながらくるりと背中を向けるので、絶対何か来ると確信していたから構えていた俺は拍子抜け、とっさに返事が出てこなかった。アイツが何も仕掛けてこない……? いつも止めて欲しいと願ってはいたが、いざその時が来ると反応できないものだと身をもって知る。何だかんだ言ってアイツにも一応良心というのを持っているのか……。
ケルアが去っていった扉を見詰めたまままだ呆然としていたら、「あ」そんな声が聞こえたかと思うと同時に扉の横から白い手が現れ、次に顔だけ覗かせてきた。汗で少し濡れた浅黄色の髪が重たそうにだらりと流れる。
「タオル持ってこようかぁ? 町に着いたら汗だくだもんねーメルヴィーは」
……前言撤回だ。アイツの中にあるのは他人の不幸を悦楽する気持ちだけだ、絶対に。
今回は、できるだけほのぼのにという事を目標に、好きな事を詰め込んでみました。そしたらダラダラとした小説になってしまった…;
久し振りの一人称だったので、こってりと擬音語を使ってみたり。決して考えるのが面倒だったからではない…とは言い切れませんが(え)。
ってかしばらく彼ら出してなかったからメルヴィーの口調分かんなくなった!;ケルアなんて無駄に語尾のばしててかなり腹が立つ(じゃあ書くなよ…;)。
ちなみに、メルヴィーが行けない理由としてではなく諦めた後にどこに売っててどんな形なのか聞いたのは、それさえ知ったら行っても良いという意味にとられてしまうからです。まぁ結局ちゃんと説明できませんでしたが。
06年8月17日