蛇口をひねり、水を流す。この流れる水の中に手を入れれば目に見える汚れは簡単に落ちていくのに、目に見えない一番いなくなって欲しいものはなかなか落ちてくれない。

 もし水で何もかも流せるのだったら、どんなに楽だろうか……。

 

 

「何、これ……」

 朝起きてダイニングに行き、その部屋に置いてあるテーブルの上に並べてある物を見て震えながらそう呟いた言葉が、(けい)の今日の一番初めに発した言葉であった。

「おう、おはよーさん。気分はどうだ?」キッチンにいた(るい)は肩越しに振り返り慧の姿を確認すると、蛇口をひねり水を止めながら満面の笑みを浮かべる。その言葉に思わずそういう問題じゃないと叫びそうになった慧は、額に自分の冷たい右手をあて重たい頭を何とか耐え切ろうと頑張っていた。

 テーブルに置いてあるのは複数の食器。それだけで慧はたった今目覚めたしこの部屋にはその他に累しかいないので、彼が朝ご飯を用意してくれたのは充分分かる。しかし、その食器の上に置いてあるのは、元々何だったか分からないほど真っ黒になっている物体と――それ以上はあまり見詰める事ができず額に当てていた手を下ろして目を隠したので分からない。いつも食事を作るのは慧の役目だったので――というよりも、この部屋の住人はお前だから俺は何もしねーぜとか言われた――今まで累が食事を作った姿は見た事がなかったが、まさかここまで下手とは思いもしなかった。一体どうやったらそうなってしまったのか知りたい。ある意味天才だ。

「ほらほら、さっさと食って寝る。これが早く元気になる方法だ」

 手をどけるとそこには累がいて、椅子に座らせようとしていた。そう、慧は珍しく風邪をひいてしまったのであった。水に濡れたままちゃんと拭かず寒い中仕事をしていたせいで一応金はもらったが代わりにこの通りである。いつもはお前がやれよと何もしない累だが、さすがに病人をたたき起こして仕事させるほど性格は捻じ曲がっていないようだ。だが、こんな料理を作るぐらいなら累には悪いがはっきり言って何もしないでこの部屋から出て行って欲しい。

「いや、僕は寝るから累食べて……」

 そう言って逃げようと背中を向けたががっしりと左肩をつかまれ、「さっき言っただろ。食ってから寝ろ」累にとっては頑張って作ったのでやはり食べて欲しいのだろう――そう思いたい――。有無を言わさない勢いでそう言われた。

「食欲ないからいいよ……」

「じゃあお粥ぐらい食えよ」

 何とか理由を作って逃げようとしても、累の方が一枚上手だ。ほらと累が指差した方には真っ白の液体に所々何かが入っている茶碗。思わずあれ薄い牛乳じゃなかったんだと思ってしまうほどだった。

 お粥らしき物と累の真剣な表情を交互に見た後、唐突に激しい頭痛が慧を襲ってきたので思わず倒れそうになったところを慧に受け止められた。「取り敢えず立ってないで寝ろ」俺が食わしてやるから。やっと逃げられると思ったのに最後のその一言で本当に倒れ込んでしまいそうになる。

 ずるずると重い体を累に支えてもらいながら布団が敷いてある部屋まで行き、いつもの累からは考えられないほど丁寧に寝かしてくれた。そして一度部屋を去った累が持って来てくれたのは、タオルで包んだ水枕と水が入ったコップ、そしてあのお粥らしき物。僕……このまま死ぬのかな。眼帯で包まれた左目があったところにそっと手をもっていき、それから累の顔を見る。

「体起こすぞ」そう言って累は慧の背中に手を回し、その細い腕からは考えられないほど軽がると体を起こす。そして累の体にもたれかかる様にしてから累はレンゲですくったお粥らしき物を慧の口までもっていき「ほら、口開けろ」

 人間、諦めが肝心なんだな……。慧は言われた通り口を開け、お粥らしき物を飲み込む。しかし思っていた味は嗅覚を刺激せず、塩を入れすぎたか少ししょっぱい、けれど美味しい味が口中に広がった。「……結構美味しい」思わずそう呟いてしまい、「そうか? 良かった」累は滅多に見せない心の底から喜んでいる笑みを浮かべる。

「失礼しますよ」

 そんな中唐突に扉が開き、二人は驚きの表情を浮かべ弾ける様にその声がした方を向くと、銀色の肩にかからない程度の髪に碧眼を持つ白衣を着た男性がそこに立っていた。「(すばる)先生……」二人で呟く様にその男性の名を口にする。

「何ですか、その情けない顔は。私が来たら迷惑と?」

 不機嫌そうな表情を浮かべて何の断りもなく右手にカバンを持った男性――昴は、溜息をつく。いや、ノックぐらいして下さいよ……。慧は思わずそう言ってやろうかと思ったが、そんな願いのこもった言葉の代わりに喉に違和感を覚え、思いっきり咳き込んでしまった。どうして僕の周りにはこう失礼な人が多いんだろう……。

「ほら、どいて下さい」カバンを持っていない反対の手をまるで動物を追い払う様に動かす昴に苛立った累は、それでも慧を寝かして黙って数歩後ろに下がった。昴はこう見えても医者で、慧に左目がない事で生活に――というよりも仕事に差支えがない様にした一応素晴らしい医者なのである。一通り診察した昴は聴診器を外しながら「バカですね」唐突にそんな事を言い出した。

「仕事成功しても体壊したら意味ないじゃないですか。自分の健康管理すらできない者に未来はないですね……」

 仰々しく溜息をつきながら聴診器をカバンの中にしまっている昴に、ただ「はい……」咳き込みし過ぎて嗄れた声でそう答えるしかできなかった。「それから累。相棒なら相棒らしく相棒の面倒を見て下さい。私はアナタ達だけ見ている訳ではないんですよ、忙しい身なんですから。今度そんなバカな事で私を呼んだらもろとも地獄に叩き込みますからね」それから累の方を見て、満面の笑みを浮かべながら流れる様に少しも返事の暇を与えないままさらりと恐ろしい事を口にする。

“もろとも地獄に叩き込む”という言葉が好きなのか、昴は必ず二人を診察する時その言葉を口にしているが、一種の脅しなのか今まで幸いな事に一度も診察を断られた事はない。多分それは――。

「あ、慧。ついでですから眼帯、外して下さい」

 笑みが消え、真面目な表情でそう言われた。それは、昴も慧の左目を気にしているからだろう。まぁ、多分彼の場合変な事になったら自分のプライドが許さないからだろうけど……。

 言われた通り眼帯を外す。無くなった左目の代わりに違和感がない様、代わりの目を入れているのだが目の神経を繋いでもすぐに見えなくなるので昴はあえて作り物の目を入れたのである。それがかえって神経などを傷つける事になっていないか、時々唐突にノックもせず部屋にやってきては診察してくれているのであった。慧から行かないのは先程昴が言った通り彼は忙しい身なので、会いに行っても会えない事が多いからである。

「――大丈夫……の様ですね。まぁ何かあったら地獄行きだけじゃすみませんが」顔は笑っているが目が笑っていない。「体を壊しても目は壊さない様にして下さいね。死んでも守りなさい」つまり昴にとっては慧の体より目の方が大事だという事だろう。まぁ多分、目を壊して生きて戻ってきても彼直々に地獄より恐ろしい所へ送ってもらう事になると思うけど……。眼帯つけて小さく咳き込みながらそんな本当にありそうで笑えない冗談を思い浮かべていた。

「では慧、食後に必ずこの薬を一錠飲みなさい。食事をしなかった時は飲まなくていいですからね。後は自分の体に任せなさい」

 お大事に。まるで台詞を読んだかのようにそう口にして、嵐――もとい昴は去っていった。あまりにも唐突に出来事は起こって唐突に去っていくものだから、累でさえその場に座り込んだまま昴が閉めていった扉を見つめる事しかできていない。

「――アイツはアイツなりに心配しているんだよ」多分と呟いた累の声を、慧は聞き逃さなかった。

「僕……寝るね」

 俯いたまま布団を握り締めていた手を見詰めていたが、累がいるとどうも落ち着けなかったので嗄れた声でそう呟く。「あ、そうだな。水、そこにあるからそれ使えよ」累も居心地が悪かったのかお粥が入った茶碗を持ち、何かあったら呼べよと言い残して累も部屋から去っていった。

 あんなに騒がしかった部屋が急に静寂に包まれ、慧は急いで水と薬を飲み込んで水枕を自分の頭を置く位置にもっていき、布団の中にもぐりこんだ。頭が痛い、気分が悪い。それよりも先程まで触られていた左目がうずく。結局自分が無力だったが為に、皆に迷惑をかける事になってしまった。

「…………早く治さないと」

 そう自分に言い聞かせる為に声を絞り出して、目を閉じた。闇に包まれた世界に、自分の身を預ける。

End

 

 

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グフーの口調を書きたかったが為にできた作品。またかよ!(笑)

グフーのおかげ(?)でこういう口調の人は性格が悪いと言うイメージができました。という事でここに登場してきた先生も毒舌…にしたつもりなんですが、変に優しい口調が入っていて意味分かりません;
色々有り得ない事が書いてますね…;;たまにそんな事も書きたくなる…んですよ;(言い訳)
慧が左目をなくした訳は『空の信号』に書いてあります。グロ注意…;

「もろとも地獄に落ちろ」先生がよく口にする言葉(え)。好きなんですよ、その先生の言い方がv(…)

04年11月23日