空の信号
慧が累にいつ会ったのか何て覚えていないし、とっくの昔に忘れてしまった。しかし、一番初めに累が口にした言葉だけは、まるで先程あったかの様に脳に焼きついていて、声の低さや表情まで鮮明に思い出せるほど記憶に残っていた。
「アンタのその眼帯。趣味? 怪我?」
慧と累以外に一緒にいた人が一通り相手に紹介して、よろしくと手を差し伸べてきた累に何も言わず慧が累の横を通って立ち去ろうとした時に、耳元でそう尋ねられたのだ。弾ける様に振り向くと累の浮かべる表情はまるで自分の思う通りに動いて満足したという表情であって、思わず握り拳をつくって左頬を殴った覚えがある。出会いは最悪。
それからわらわらと止めに入る人や野次馬が集まってきても二人倒れるまで殴り合っていた。確かに手を出したのはこっちからだったが、言い始めたのはあっちからだ。二人の他の人からの印象も最悪で、何もかも最悪から始まったのだ。そう、この仕事を始めた理由も最悪な出来事のせいで。
「――。バカッ」
そこまで流れるように考えて一旦思考を停止した後、そう呟いて膝に置いていた右手を額に叩く様に当てる。ここに来たと同時に忘れ様と思ったはずなのに、この左目を失った記憶は累と出会った記憶よりも強くまとわりつき、縛って離してくれない。
気持ちを落ち着かせる為に適当に思い浮かんだ言葉を口にしてみたが、選択を間違ったらしく余計に苛立つだけであった。それもこれも昨日の仕事のせいだ。額に当てていた手を頭へもっていき記憶を消し去るかの様に掻く。自分の母を殺して欲しいと言ってきた少女。その理由があまりにも単純で、「そんなに殺したければ自分の手で殺しな! できねーなら “殺す”って単語簡単に使うんじゃねぇ、単細胞っ!!」珍しく殺す行為が好きな累が叫んでいたので、予想以上に印象に残ってしまったのだ。
「殺す事ができないのなら、簡単に口にするな能無し……か」
累と言っていた言葉の一部が違っていたが全く気にせず、この苛立ちを抑える為には一旦全部記憶を思い出した方がいいのだろうか思い直し、しぶしぶ確かと記憶を辿ってみる事にした。
確か、この左目を失ったのは死んだ――いや、殺した実の父親のせいだ。アイツを父親と呼ぶだけでも同じ人間だと思うだけでも吐き気がするほど昔から嫌っており、その嫌いが限界に達したのは母親が死んだ時だった。父親の暴力のせいで傷とストレスが増えていった母は自ら死を望み、自分宛に手紙を残してそのまま消えてしまった。後から崖の下で血を流している母が発見され、ずっとこの手紙の内容は嘘だ、ただ行方不明になっただけで生きているんだという希望も消え、死んだのだと知ったのである。
この事件は事故死で片付けられた。母の手紙に母が自殺したという事で自分を恥ずかしい目に合わせない為に、自殺した事を内緒にして欲しいと書いてあったのである。しばらく母の優しさと自分の無力さに涙を流した後、引き出しの中に入っていた折りたたみナイフを持って父を殺す為に下に行き、そして当たり前だが抵抗してきた父ともみ合っているうちに。
最初は鋭い痛みと感じられないほどの痛みが襲ってきて、耐えられず声にもならない声で叫んでいた。ブツッだったかグチッだったかそんな音が響き、父の指は粘っこい物で包まれていた硬い物を突き刺したのである。ドクドクと後から後から先程とは違うまだ液体に近い粘っこい物が頬をつたい、床に落ちていく。しかも自分があまりの痛さに暴れていたのでそれはそこら辺にも飛び散っていた。
そしてふと何か重いものが倒れる音が痛みと共に響き、それを聞いて音がした方を見ると一瞬痛みも忘れてしまうほど驚いてしまった。右目だけに映されたのは穴だらけになった自分の父親だったらしい赤い物体が床に転がっており、左目には持っていたはずの折りたたみナイフが刃を見せないほど深々と突き刺さっていたのである。そう、自分は無意識のうちにコイツを折りたたみナイフで滅多刺しにして、更にコイツがしたと同じ様に――いや、それ以上に左目に痛みを与えていた事に気が付いたのである。
それからここからは本のページが切り取られたかの様にごっそりと記憶がなくなっており、父親を殺した後に思い出した記憶は父親の指で壊れた自分の瞳、父親の指が触れたこの瞳を一生死ぬまで持っているのは耐えられなくて左目を取ってもらった記憶。
「――。あー……止めておけば良かった」
そこまで考えて再び一旦思考を停止すると、先程よりも強く頭を掻きもう二度と考えない事にした。椅子から立ち上がり引き出しから紙とペンを出して机に叩きつけると、自分の名 “慧”を殴り書く。この仕事をやる為の条件の一つ、それは自分の名を作る事で、それには他の人から聞いた話だが新しい自分でやり直していくという意味らしい。飽く迄も噂だが。
この漢字には“細かく心が働き、さかしい。気がきく”をいう意味があり、前の自分には全部足りなかった部分である。
「で、どう? 達成できたの?」
紙を見詰めながら、自分に問う。目標は高いから、なかなか達成できないから目標だなんて言っていた人がいた。だけどこれは達成する為の目標で、高いままの為の目標ではない。結局あれから人を殺す事が怖くなった、またあの自分が現れるのが怖くなって何も出来ないまま、ただ累と一緒に命令された仕事をこなしている。何も変わっていないじゃないか。
「おーい、いるか? いなくても入るぜ」
唐突に扉が開いたので思わず体が強張ってしまい、弾ける様に扉の方を向くとそこに立っていたのは右手をあげて平然とした表情を浮かべている累。驚いてしまった自分が恥ずかしくて、名を書いた紙を握り締め机の横に置いてあった空のゴミ箱へ投げ捨てる。「無防備だなー……。鍵ぐらいかけろよ」何やら嬉しそうな表情を浮かべてそう言ってくるので、「せめてノックしろ、ノック!」他にも色々と言ってやりたかったが取り敢えずそれだけ口にして引き出しの中にペンを入れた。
「まぁ無防備だろうが重装備だろうが構わねぇんだけど、ほら、仕事片付けに行くぜ」
相変わらずそうやって何事も無かったかのように行動できる累を見て溜息をつきつつ内心では羨ましかった。自分には持っていないものを持っている累。……無性に苛立つ。
「……戸締りするから待って」
取り敢えずここで喧嘩しても仕事が終わる訳ではないので気持ちを落ち着かせ、風を通す為に開きっぱなしだった窓に近付く。いつか絶対ストレスで死ぬ。そう思いながら見上げた空は、一面真っ青の綺麗な空であった。
空の信号、只今青。迷わず進んで生きましょう。
End
本人ビックリ新事実。慧の眼帯は怪我で趣味ではない様です(おい)。
痛いですね…;私も昔は普通に眼球触っていましたが、さすがに突き刺す感触までは分かりません(…)。ちょっと嘘っぽい小説になってしまいましたが、取り敢えずすごく痛いという事だけ伝われば満足です。
題名と話の雰囲気が全然あっていない事に反省;いや、最初は全然違う題名だったんです。だけどふとテレビ見たらこういう曲名(だったはず)があって、それで最後の文章を思いついてこれいいなと思い…付け足しました;;
……やっぱり趣味でやれば良かったかなー;かわいそうだよ、これ;;
04年11月3日