Blue Morning

後編

 (すばる)が休みの日にわざわざ診察しようとしてあげるほど気にかけている――のだろう――相手は、昴達の部屋の2階下に住んでいる様で、それなら階段でいいでしょうという昴の案に反対しなかったので明滅する電灯が照らす薄暗い階段を下りる事となった。普段は一番下まで下りないといけないのでエレベーターを使っていたので、初めてこの階段を見た時は窓がないせいか薄暗く、まるで非常用階段の様に思えた。

「こんな階段あったんだ……」

 一歩踏むたびに小さく悲鳴をあげる階段を薄暗くて足元があまりよく見えないのでこけない様ゆっくりと降りながら、慣れた足取りでそれでも青年――(りゅう)の歩調にあわせて下りていく背中を見失わない様見詰めながら一人ごちる。

 昴はいつもこの階段を使っているのだろうか。壁に手をそえると錆びた鉄のざらっとした感触が伝わってきて思わず反射的に手を離し思考も停止さしてしまったが、気を落ち着かせる為に壁に触れた指先をまるで感触を取り払う様に手でこすり合わせながら再び考え始める。一番下まで行く時も階段なのだろうか、夜になってしまった時も使うのだろうか――。よく考えれば当たり前だが自分は昴の事を全然知らない。もちろん自分は何も言っていないので昴も知らないだろうし、多分興味ないの一言で終わるだろう。それでも知りたいし知ってほしかった。別にそれくらい望んだっていいじゃないか。

「……隆、行きすぎですよ」

 唐突に耳に入ってきた言葉にはっと我に返り、気付けば昴はこの薄暗い階段から出ようとしているのに自分はそのまま下へ行こうとしていた。慌てて階段を駆け上がり昴の横に並ぶ。

「考えるのを止めろとは言いませんが、あんまり集中しすぎるのもいけませんね」

 こちらを見ずに歩きながら呆れ混じりでそう言われ、「以後気をつけます」恥ずかしさに俯きながら返事を返す。まただ。隆には悪い癖があり、どうも他人に親切にしてもらうとその人を手放したくない、自分だけを見ていてほしいという感情が生まれるらしい。昴が他人と話している、診察をしていると考えただけで苛立ってくる。これは昴の仕事なんだと分かっているはずなのに、それでも頭は求め続ける。何でこんなに自分はワガママで役立たずなのだろう……。

 静寂に包まれた廊下を少し歩くと、ある扉の前で昴は立ち止りインターホンを押した。小さな機械音が響いた後、もしかしたらいないのだろうかと思ってしまうくらいしばらくしてから「……はい?」少し低めの声が聞こえてきた。

(けい)、まさか今起きた訳ではないでしょうね?」

 昴が自分の名も名乗らず不機嫌そうに顔をしかめて尋ねると、相手の息を呑む音までもが機械が正確に伝えてくる。「す、ばる先生っ――!? ちょっと待っていて下さい!」驚きのあまり思わずどもりながら名を呼んでそれだけ伝えるとブツッと勢い良く遮断した音が廊下に響き渡った。それからしばらくの間余程慌てているのか色々床にぶつかる音が響いていたが、いきなり静寂に包まれるとまるで今までの騒音は聞き違いだったかの様にゆっくりと扉が開く。

 扉の奥から現れたのは茶色に近いオレンジの肩にかからない程度の髪に左目を眼帯で覆っている、薄着の上からカーディガンを羽織った少年。眠そうに茶色い右目をこすりその隻眼で昴の姿を確認した後挨拶をする為か口を開けたが、すぐに後ろにいる隆にも気付きゆっくりとこっちを見た。その瞳から警戒している事が安易に読み取れる。

 昴より小さく、自分よりも小さい慧と呼ばれた少年の顔つきはあどけなく、ここにいるのは誰が見ても場違いだった。しかし彼の隻眼がその事を全て否定するかの様に冷たく鋭く、睨み付けるだけで人を殺せそうなその目と合った瞬間背筋に悪寒が勢い良く走る。怖いという感情と共にこんな自分よりも年下に見える少年が昴に気にかけられていると思うと苛立ってきた。

「診察をする前に軽く自己紹介をさせてもらいますね」

 そんな昴の普段通りの不機嫌な声で恐怖も苛立ちも急激に冷めていき、こんな自分の醜い部分を見せつけられてしまい思わずしゃがみ込みたくなる程落ち込むが、今はそんな場合ではないと小さく首を振り取り敢えず相手の話を聞こうと再び慧を見る。が、ずっと睨んでいた冷たい隻眼とぶつかった瞬間に再び恐怖が襲ってきて思わず逸らしそうになる。何でコイツはこんなに冷たい目で人を見られるんだろう。

 いつもの表情で慧に促す昴の方を少しだけ向いた彼は、しぶしぶといった感じで口を開いた。

「……慧。慧眼、慧敏(けいびん)の“ケイ”っていう字だけど――」ふとそこで言葉を切った少年は、まぁそんな事言っても分からないだろうけどとでも言いたげな笑みを浮かべてきたので、先程よりも苛立ってくる。確かに言われても分からないが、初対面の相手にそんな表情をしなくてもいいではないか。苛立ちを昴がそこにいると思う気持ちが何とか抑えつける。分からないだろうと思った少年はご丁寧に宙で“慧”という字を書き、「この階に住んでいるから分かると思うから仕事はあえて言わない。先生には目の事で色々とお世話になってる」仰々しい溜息を最後に、慧の自己紹介は終わった。

 彼の自己紹介は本当に簡単で終わったという実感がなく、呆然としていると早くしろと苛立ちを含んだ昴の声で名を呼ばれ、慌てて自分も自己紹介をする。

「えっと……隆、です。興隆(こうりゅう)隆替(りゅうたい)などの“リュウ”。仕事は主に情報処理で、先生とは――」慧から視線を逸らして横目で昴の表情を窺う。昴との関係、隆にはあれしか思い浮かばなく一応許可を求める様に昴と視線を合わせたのだが、彼からは早くしろという合図しか送られてこなかった。「えーっと、先生を起こして朝食を作るのが自分の役目……みたいなものです。後時々食事を作りに行くぐらいで……」

 何故自分だけ敬語を使っているのだろうかと、なるべく顔には出さずに普段の癖をうとましく思っていると、

「リュウ? へーそんな読み方もできるんだ。良い名前だね」

 先程までとは違う、どこか嬉々に満ちた声が耳に入ってきたので俯きかけた顔を上げる。すると先程まで扉の向こうにいたはずの慧は自分のすぐ目の前でまるで別人の様に子供が純粋に喜ぶ様な表情を浮かべていたので、思わず後退ってしまった。冷たい印象なんて微塵も残っていない。同じ顔で全く正反対の性格を持つ少年が交代に自分の前に現れている様な錯覚を覚える。

 自分でも気に入っている名前だったので考える前に口が「あ、ありがとう」どもりながらも礼を言う。すると慧は照れくさそうに右手で頬をかいて、それからずいっと左手を差し出してきた。

「よろしくね、隆」

 真っ直ぐ見詰めてくる隻眼。戸惑いながらも恐る恐るその手を握ると慧は嬉しそうに笑顔を見せながら強く握り返し、更に右手で覆い大きく上下に振ってきた。その振動に体まで引っ張られない様足に力を入れつつ、つくった笑みに乾いた笑いで笑顔に答える。

 昴との関係を知ったからかどうかは分からないが、取り敢えず慧は警戒を解いてくれた様である。しかし隆は彼の様に心を開く事などできなかった。隆も昴と同じく、いやそれ以上に人付き合いが苦手だという理由もあるが、彼もまた自分の知らない昴を知っているのだと思うと何と名付ければいいのか分からない、ドロドロとした感情が沸き上がってきた。心の底に住んでいるもう一人の自分が拒絶をする。彼も昴と仲が良いと思うだけで。

「すごいなぁ隆は。じゃあやっぱりキーボードとか早く打てるんだよね。先生の事起こしに行ってるんだ。意外だなー先生なんでもできそうな顔してるし……あ、でも言われてみればそんな感じがする。ねぇねぇ今度さ」

「慧」

 そんな隆の気持ちも知らず声をひそめて喋る間も与えずどんどん感情をあらわにして口を動かし続けていた慧だが、同じ場所で壁に背を預け腕組みをしていた昴がただ名を呼んだだけで肩を震わし、口を閉ざして恐る恐る振り向いた。同じく隆も視線を昴の方を向けるが、相変わらず不機嫌そうな表情を浮かべて床を見詰めている姿が目に入るだけ。何故彼はこんなに怯えているのだろう。誰が見ても分かるほど慧は昴が次にする言葉を強張った表情で待っている。

「私は軽く自己紹介をさせてもらうと言っただけですよ。仲良くなってもらうのは結構ですが、こちらは今日たまたま暇だったので来た訳ですから、次またいつ診察できるか分からないんです。ですから、先に診察の方をさせてもらえないでしょうか?」

 顔を上げ、笑みを浮かべながらそう尋ねる昴に慧は間髪を入れず分かりましたと少し震えた声で返事を返す。そういえば、ふと思い出す。そういえば最初にインターホンに出た時は眠たくて面倒臭そうな低い声だったのに昴が喋った途端丁寧口調になった。初対面の自分に対してもあんな口調だったにもかかわらずだ。という事は、この少年は昴に対して相当な恐怖心を抱いている様である。確かにいつも不機嫌そうな顔をして冷たく言い放つが、そんなに怖がるような存在でもないはず。一体何が慧を怯えさせているのか、隆には理解できなかった。しかし何故か安堵の息を漏らしている自分がいる。それはきっと慧が昴の事を恐怖、少なくとも苦手な人物として見ていると分かったからであろう。好かれて欲しいと思いながらそんな事で安心している自分に腹が立つ。

 唐突に「ごめんね」と小さく謝る慧の声を聞いて、何に対してごめんなのか分からなかったが取り敢えずそんな事ないと首を振る。そんな隆を見て強張る表情を無理矢理笑顔に変えて見せた慧は、これ以上昴の気に障らない様にとそそくさと扉の奥に消えていった。そんな慧の後姿を見詰めていた昴は彼の姿が見えなくなったと同時に仰々しく溜息をつき、壁から背を離す。そして続いて中に入ろうとした時、何かを思い出したかの様に足を止めて肩越しに振り返る。

「そんなに遅くならないと思うので待っていても良いですが、別に帰っていても良いですよ」

 それだけ言い残し、後ろ手で扉を閉めた。ゆっくりとであったが、それでも静寂な廊下には充分響き渡る。

 いきなり静寂の中に放り出された隆の思考は追い付けなく、しばらくの間呆然と二人が去っていった扉を見詰めていたが、まるで時間が動き出したかの様に胸の中に溜まった重く冷たい空気を吐き出すと、扉の横の壁に先程まで昴がやっていたのと同じ様な格好で背を預ける。

 疲れたぁ……。

 たったの数分慧と話していただけで――といってもほとんど彼が喋っていたが――こんなにも疲れてしまった。次相手がどの様に出てくるかと常に様子を窺っていれば疲れるのも当たり前なのに、忘れていた。ふと考えれば最近パソコンと昴しか相手にしていない様な気がする。時々仕事仲間が仕事の事について話したり質問したりするのを答えるぐらいで、こんなに緊張したのは久し振りだった。昴が気にかけている相手となったら余計に。

「……バカみたい。一人で勝手に苛立って焦って……」

 静寂に耐え切れず声にして言ってみるが、むなしさが広がるだけだった。後で自己嫌悪に陥るくらいなら初めから考えなければ良いのに、分かっていても苛立ちはまるで条件反射の様に止める間もなく込み上がってくる。

 …………ダメだ、今はそんな事を考えている場合じゃない。しばらく綺麗に掃除されている床を見詰めながら慧と出会ってからの自分の考えていた事を思い出していたが、それらを全てかき消す様に思いっ切り首を横に振る。別に今自己嫌悪に陥らなくても良いじゃないか。取り敢えず他の事を考えよう。

 先程昴は待っていても良いし帰っても良いとそれだけ言い残して部屋の中に入っていった。帰れと言われない限り例え遅くても隆は待っているつもりだったので、もうこれについての答えは出ている。しかし問題はその後だ。どうやって暇を潰そう。もちろん何も持ってきていないし廊下に何かあるはずがない。結局何かを考えて時間がすぎるのを待つしかなかった。

 そう結論が出たと同時に、チーン、静寂の中やけに伸ばすエレベーターがこの階に止まった事を知らせる機械音が廊下中に響き渡り、もちろん心構えなんてしていなかった隆は素直に肩が震え、表情が強張った。携帯も腕時計も持ってきていないので正確な時間は分からないが大体10時から11時の間だろう。何の不思議もなかったが、この静寂に包まれた廊下の中に一人たたずんでいた隆にはそれが異常に思えた。

 扉が開き、誰かの足音がやけに響き渡る。ゆっくりと視線を音が聞こえてくる方に向けると、今隆が立っている場所はエレベーターから遠いらしい、頭から足先まで全身黒ずくめな人物がゆっくりとこちらに向かって歩いてきている姿が小さく目に映る。近付いてくるにつれその人物はやけに長い漆黒な髪を持っている事――大体腰ぐらいまでだろうか――、俯いて歩いている事、髪と同じ色の漆黒なコートを羽織っていてそのコートについている両側のポケットに手を突っ込んでいる事など、詳しい事が分かってくる。同じ歩調で自分の足を見詰めながら何処かに向かっている少年は、ふと隆の視線に気付いたのか歩きながらゆっくりと顔を上げ、そして顔を上げた先にいた隆の姿を確認すると慧と同じ様に睨み付けてきた。同じ様に悪寒は背筋を走ったものの、距離があるおかげかその視線を受け止める余裕はあった。

 自分なりに構えて次の行動を待っていたが、予想に反して少年はまるで興味が失せたかの様に視線を落とし再び足を見詰めながら歩き出したので、どこか拍子抜けた感じで同じく視線を落として床を見る。もしかしたら見知らぬ人に見られていた事で気を悪くしただけかもしれない。それを最後に少年の事を考えるのを止めようとしたが、聴覚が自然と足音を聞き取り、暇な隆はその足音の大きさで少年がどこに行くのか、どこまで自分に近付いてきているのか無意識に考えていた。

 長い時間がすぎたのかそれともほんの数秒だったのか分からないが、リズミカルな足音がだんだん大きくなっていき、そして何の前触れもなくぴたりと静寂の中に溶け込んでいったのでふと顔を上げてみると探すまでもなく、目の前で相変わらず両側のポケットに手を突っ込んで横目で睨んでいる自分より背の高い少年の茶色い瞳とぶつかる。いくらなんでもこんなに近付いてきたら分かるはずだし、その前に気配を感じるはず。

「アンタさぁ……誰?」

 考えがまとまらないうちに不機嫌そうな声でそう尋ねられ答えようと口を開くが、一体どう言えば良いのか、言葉が思いついても不安が上から覆いかぶさり声を発せないまま口を閉じ、思わず俯いてしまう。そのまま重苦しい沈黙が続くかと思ったが意外にも少年は「ま、別に良いけど」再び歩き出し先程慧と昴が入っていった扉のノブを漆黒の手袋をはめた右手だけポケットから出して握ったので、

「あっ………………の」

 手を伸ばして注意をこちらに引き付けたのは良いが言葉が続かず、取り敢えず思わず口から出た単語に言葉を繋げてみた。ノブを握ったままこちらを睨む少年は早く言えと目で促している。見るまでもなく言わなければいけないと分かっているのに、ただ一言今診察中だと言えば良いだけの話なのに、何処か間違っていそうで声が出ない。

「何、何か用?」

 痺れを切らした少年がノブから手を離し、頭より高い位置に手を扉に置いてそのまま上半身の体重を預け、同じく漆黒の手袋をはめた左手は腰にあてた。近い距離で双眸が絡み合い、片方はしっかりと、片方は怯えながらもその視線を受け止めている。その時間が長ければ長いほど隆は焦り、喋ろうとすると本当にそれで良いのかと自分の奥にいる何かが不安と共に押さえ付ける。だが言わなければ。ただ診察中だと、それだけ口にすれば良い。頭の中で何回も言う台詞を思い浮かべて、自分を落ち着かせる。上から押し付けてくる不安を押し上げて。

 しっかりと瞳を受け止めて右手で拳をつくり、言えっ、自分に命令をする。

「い、今……昴先生が来ていて診察中なので――」

 だんだん尻すぼまりこの後に続ける言葉が思い浮かばなかったので中途半端に終わってしまったが、隆は心の中で安堵の息を吐いていた。上から押し付けていた不安は残念そうに何処かへ行き、頑張って押し上げていた気合はいきなり何もなくなって勢い良く溢れ出してくる。

 少年はふーんと、納得したという風ではなく自分には関係ないという感じの返事を返して頷き、上半身を起こし来た道を少し戻ると隆の右隣に同じ様に背を壁に預けた。そしてもう一度確かめる様にこちらを向き、その瞳は先程の様に睨み付ける様な目付きではなく、それでも警戒は解いていない視線を送ってくる。

「そうなんだー……で、アンタは昴先生の何?」

 心臓が一つ大きく脈打つ。何……って、何だろう……? 自分自身にまで尋ねられて、動揺を隠せなかった。自分を捕まえて放さない茶色い双眸から目を逸らす事ができない。世話役? そんなはずはない。ただ朝起こしに来て食事を作るくらいだ。それだけの関係です、何て言ったら相手がじゃあ何でここにいるのと再び尋ねてくるのは安易に予想できる。そうだ、自分は何故こんな所にいるのだろう。昴の迷惑だという事なんて今まで一つも考えた事がなかった。ただ、当たり前だと思っていた。昴の隣にいられるのが自分の特権だと思っていた――。

 一度考え出すと否定的な答えしか思い浮かばず自分で自分に飲み込まれそうになっていた時、唐突に失笑が聞こえて思考が遮断され、我に返る。目の前では自分から視線を逸らし壁に背を預けたまま顔を少し俯かせ、口元に手を当てて込み上がってくる笑いを一生懸命抑えている少年の姿が目に入ってきた。少し丸めた背中まで震えている。

 一通り笑ったのか少年は最後に笑っていた事で満足に出せず溜まった空気を細く長く吐き出すと、もう一度こちらを向いてきた。今度は観察する為ではなく、喋る為に。浮かんだ涙を人差指ですくう。

「あー悪い悪い。ほら、俺らってこんな仕事じゃん?」そう言いながら漆黒に染まったコートを持ち上げてみせる。「だから疑うのは……まぁ条件反射みたいなもんなんよ。ここでもしアンタが昴先生との関係をべらべら喋ってたら俺は間違いなくアンタを疑っていた。けどさぁ……」

 そこまで一気に喋り、また先程の隆の姿を思い出したのかくすくすと抑えた笑いを漏らした。当の本人はここは喜ぶべきが笑われて怒るべきか、複雑な気持ちで少年を見詰める事しかできない。この少年も慧と同じ年齢に見えるが、何で自分はこんなに年下に軽々しく喋られるのだろう、不満までやってきて思わず小さく溜息をつく。そんなに気軽に話せられるのかそれとも年上に見えないのか、多分後者だろうと自分でもそう思ってしまうのが悲しい。

「それじゃあ自己紹介」とんっと壁から背を離して隆と向き合い、少年らしい無邪気な笑みを見せる。「俺は(るい)。ここの部屋の主の相方だ」

 先程自分が入ろうとした扉を指差し、壁に“累”という字を指先で書いた。慧より簡単な自己紹介。隆がなるほどと頷くと、手袋を外して右手を差し出してきたので恐る恐るその手を握り、次は自分の番だと口を開く。

「隆です。よろしく」

 空いている手で宙に“隆”という字を書く。累よりももっと簡単な自己紹介、それでも彼はそれで満足の様子で、へー、今度は感心の声を上げて手を離しすぐに手袋をはめた。累の温もりが残った手は握手があまりにも短かったので戸惑いつつ下へ降ろす。長すぎるのも困るが、あまりに短すぎるのもまるで嫌われているみたいで戸惑ってしまう。しかし彼は先程疑ってしまうのは条件反射みたいなものと言っていたし、慧と違ってこちらは見ず知らず同士が二人きりで話しているのである。やすやすと心を開ける訳がない。

 初対面同士の紹介はあっという間に終わってしまい、何を話せば良いのか分からなくそれでも静寂は遠慮なく二人の間を重苦しく漂う。再び背を壁に預けた累の小さな溜息が耳に入ってきた。止めたのは自分なんだから、何か話さなくては。

「なーんか……暇だよなぁ」

 独り言なのか同意を求めているのか分からないが、ぽつりと呟いた言葉に遅れながらも一応「あ、はい。そうですね」そう答えると、変な沈黙が続いたのでどうしたのかと累の方を向けば、昴とは違うどこか不機嫌そうな瞳とぶつかった。何か間違った事を言っただろうか。そう考えたと同時に眉間にシワまで寄り、累を見詰めたまま視線を逸らす事もできずただ戸惑いと不安だけがやってくる。

 眉間にシワを寄せた不機嫌そうな双眸と随分長い間見詰めあった様な感覚がするほど、居心地が悪い。どうすればいいのか分からず、取り敢えずおずおずと口を開くが「あの……」それだけしか声に出ず、後の台詞はまるで空気に溶け込んだかの様に響いてはくれなかった。

 何を考えてそんな顔をして睨んでくるのだろう。そんな表情からは悪い方向にしか考えが浮かばず、何に対してそう思うのか分からない恐怖に押しつぶされそうになった時。

「腹減ってねぇか?」

 眉間からシワがなくなりどこか諦めた様な表情になったかと思ったら唐突にそんな事を言われ、思考が追い付かず取り敢えず落ち着いて言われた言葉の意味を考えてから、「え」それでも思わず聞き返してしまった。すると累から返ってきたものは、口元を吊り上げて自分が仕掛けたいたずらに見事引っかかってくれて嬉しそうな表情。それから「お前なぁ〜!」いきなり首に左腕を巻きつけてきて、それを理解する暇も与えてくれずこれでもかというくらい乱暴に頭を撫でられた。

 突然ばかりの出来事で更に混乱してきた隆は何も考える事ができず、気が付けばこの状況から抜ける為に必死に抵抗してやっと累から離れる事ができていた。「い、ったい……何です、か?」途切れ途切れにそう口にしながらかき乱された髪を直す。

「あーごめんごめん。いや何かさ、アンタ見てるとオドオドしてて丁寧口調で……何かすっげー腹立ってきてさ。何コイツとか思ってた」

 どんどん耳に入ってくる累の言葉を理解する度にまるで石になってしまったかの様に体が動かなくなっていった。真面目な表情に変わった彼の顔から目が逸らせない、心臓が脈打つ音がすぐ耳元で聞こえているくらいうるさい。分かっている、自分のやっている事が他人を苛立たせている事なんて分かりきっている。自分でも嫌になっているんだから。しかしこう面と向かって言われると、鋭い見えない何かが遠慮なく自分に突き刺さってきて、言葉が彼の口から出てくる度に痛みを増す。当たり前の事なのに、言われて傷付く自分が悔しかった。

 そこで一度言葉を切った累が溜まった空気を吐いた時、肩がこれ以上ないくらい震える。次は何を言われるのだろう。想像できなくて怖かった。だが、

「でもさ、それって俺のせいだろ?」

 隆の不安や恐怖を和らげるかの様に小さく笑った累の口からは、全く予想していなかった台詞が放たれた。あまりにも意外な言葉だったので、声すら出ない。

「初対面の奴に睨み付けられて平然としている奴、普通いねーよな。それにアンタ、人見知り激しそうだし。そりゃ怖いだろうなぁ」

 思いっ切り背中を二度叩かれて、思わず前に一歩足を出してしまう。何なんだろうこの人は。累にもまるで同じ顔の全く正反対の性格の人物が二人いる様な違和感を覚える。この仕事をしている人達は皆こんな性格なのだろうか。

 戸惑いを隠せない表情で呆然としていると、累は再び両ポケットに手を突っ込んで何かを探すかのように手を動かしているが、なかったのか「ん?」コートをめくりズボンのポケットの中にも手を突っ込んで、それから上から2つ目しかとめていなかったコートのボタンを外して内ポケットに右手を突っ込んで、「……お、あったあった」手を差し出してきたので何を探していたのだろうと見てみれば、彼の右手には透明な包み紙で包まれた黄色い丸い物が乗っかっていた。

「やるよ」

 満面の笑みを浮かべられる。黄色い丸い物――それは紛れもなく飴で、やはり年下だと思われているのだとはっきり分かった。一度満面の笑みを浮かべる累の顔と黄色い飴を交互に見てからもう一度累を見て、多分今自分は不機嫌な顔をしているのだろう、受け取らず見詰める隆を見た彼は不思議そうな表情を浮かべた。

「あの……自分はそんなに子供っぽく見えますか? これでも一応、21なんですが」

 はっきりと言えたのは子供扱いされて少し腹が立っていたからであろう。歳の所を特に協調して言う。

 それから無駄に長い沈黙が続いた後、思いっ切り驚きの表情を浮かべられて指を差され叫ばれた。その声を聞いて更に眉間にシワを寄せると、右手を顔のところまでもっていって二度謝られる。

「年上だったんだ、へー。ちなみに俺、18ね。……やだなーそんな顔しないでよ。ほら、これやるからさ」

 右手で顎をつかんで何か考えながら呟き、それからこちらを向いて自分に指差しながら歳をいう累に隆は自分でどんな表情を浮かべていたかは知らないが、飴を持っていない方の手で二回肩を叩かれ、左手に無理矢理飴を握らされた。もしかしてこの人はこういう接し方なのだろうか。取り敢えず小声で礼を言う。すると照れくさそうに笑いながら指先で頬をかく累の姿が目に映った。何だか良く分からない人だが、思っていたよりも怖い人ではない様だ。まるで先生みたいな人だなと無意識に考えていた。

 唐突に後ろから音が聞こえてきたので振り返ると、そこにはいつもと変わりない不機嫌そうな表情を浮かべた昴が扉を開け、そして続いて後ろからは眼帯の上から左目をさする慧が姿を現した。

「お、慧。どうだった?」

 後ろから声が聞こえてきたかと思うと累は隆の隣を通り過ぎ、慧の前に立つ。そんな累に慧は一度さすっていた手を止めて彼を見、しかしすぐに視線を逸らしまた左目をさすりながら「別に。いつも通りだよ」

「どこがいつも通りですか」そんな二人の会話を聞いて眉間にシワを寄せてそう言い放った昴の方を、累は肩越しに振り返り慧はそのまま視線を上げて見る。「確かに私は忙しいといいました。けど、痛むならちゃんと言いに来なさい。もし今日来ていなかったらどうするつもりだったんです?」

「すみません……」

 溜息混じりでそう言われ、慧は俯きながら耳を澄まさなければ聞こえないくらい小声で謝った。それでもさする手を止めない。

「あ……先生、ありがとうございました」

 慌てて昴の方を向いてお辞儀をする累には目もくれず、お大事にとまるで台詞を読んだかの様に感情を込めていない声だけ発してそのまま来た道を歩いていった。自分はどうすれば良いんだろう。隆に聞こえない様に小声で話し合う二人と昴の後姿を交互に見てから、「じゃあ……」一応それだけ口にして急いで昴の横に並ぶ。二人とも話しに没頭していたし自分は小声で言ったから気付いていないだろうと思い、それでも歩きながら肩越しに振り返ると、満面の笑みで手を振る累と痛みをこらえてそれでも笑顔を浮かべて手を振る慧の姿が目に映り、隆も自分にとって一番の笑顔を浮かべて手を振る。彼らはそれを見るとゆっくりと手を下ろし扉の奥へと消えていった。

 相変わらず誰も通らない静寂な廊下。どうすればいいのだろうか、取り敢えず昴は何も言ってこないのでついていく事にした。タイミングの合わない足音だけが響く。

「……累が変な事言いませんでしたか?」

 そんな足音の中に唐突に昴の声が混じって聞こえてきたので顔を上げるが、隆の目に入ってきたのは先程聞こえてきたのは空耳かと思ってしまうほどただ前だけを見て歩く昴の横顔。それでも一応いいえと返事を返し、そういえばと累に無理矢理握らされた左手を視界に映るところまでもっていき、ゆっくり手を開く。「飴、もらいました」

「飴?」

 オウム返しでそう尋ねてくる昴の方をもう一度向き、笑みを浮かべて頷く。子供扱いされたとはいえ、やはり何かくれるという事は少なくとも好意を持ってくれたと実感できて嬉しい。そんな隆を見て昴は何か言おうと口を開いたが、その口からは溜息だけが出てきただけでそれ以上飴については何も触れてこなかった。

 左腕を上げて袖をめくり、時計を見た昴は眉間にシワを寄せる。

「もうこんな時間ですか……下に何か食べに行きますか?」

 当たり前にそう聞いてきてくれて、思わず笑みが浮かぶ。「そうですね」隆がそう答えたのを最後に廊下には再びタイミングの合わない足音だけが響き渡った。

 もう一度飴に目を落とす。丸くて黄色くて、少しヒビの入っている飴。両端を持ち引っ張ると簡単に包み紙は開いて、飴を左手に落とし包み紙はポケットの中に突っ込む。食べて……いいよね? 少し迷ったがもらったのだからいいのだろうと自分に言い聞かせ口の中に放り込む。コロコロと口の中を転がる飴は色から見ても分かるレモン味の様で、ほんの少しすっぱかった。

End

 

 

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背の高さはこの中で昴が一番高く、累、隆で一番小さいのが慧。歳は昴が一番年上で隆、累、そして一番下は慧。隆は累と慧は同い年に見えましたが、実は慧は16歳…だったっけ?(あれ)

うーん…その時の思いつきで書いてるから慧と累の性格が変になってきてる…;しかも最初累登場させる気全然なかったのにいつの間にか入り込んできてるし(苦笑)。

ちなみに慧は「ねぇねぇ今度さ」の後には何か美味しそうな物作ってよとか累に料理の作り方を教えてあげてよとか頼むつもりでしたが、痛みですっかり忘れてしまいました。

05年4月8日