人形の人形
後編
たまたま暇だったので雨の日に遠出してたまたま波の音がしたので足を止めて、たまたまその音の正体を見てみたくなったのでたまたま見やすい所を探しているとたまたま崖を見つけ、そこでたまたましゃがみ込み何かをしている彼女の小さな後姿を見つけた――なんて、これはもう偶然なんてものではなく、神様とかいう存在がそんな設定を唐突に思いついてノートの端にでも走り書きし、自分にその設定を書き込んで必然性にしたのではないか、なんて自分の気まぐれから始まりそんな偶然を重ねて出会った少女を金色の瞳で見詰めながら、遠くの木の上からぼんやり考えた自分の発想のバカらしさに鼻の先であしらう。
色はピンクより少し薄く、左側に少し混じっているディープピンクだけを三つ編みにしたという派手な髪を持つ青年は、たっぷりと水を吸い込んでしまった為にしおれて重くなってしまったファーの先を振り回して水を飛ばして遊んでいた。タンクトップにベルボトムという格好も、この雨の中ではむしろ寒そうに感じる。
そんな高みの見物をしている青年を見た者は誰もが口をそろえて彼を“チェシャーキャット”と呼んだ。神出鬼没で気まぐれで、深い意味があるようでなさそうな言葉を吐き派手なピンク色の髪を印象に残させる事もそうだが、何より1番彼をそう呼ばせているのは、意味もなく唐突に浮かべる人に不愉快を与える笑みであった。
もちろん、別にチェシャーキャットを演じている訳ではない。これが自分なので、別にそれを見て他人が何と言おうと青年には関係ない事であった。ただ人に名乗る時名前を考えないですむなと、そんな程度で終わっていった。しかし最近ではそう言われるのも自分で名乗るのも厭きてきて、心のどこかでは相手に違う名を口にしてくれる事を期待している自分がいる事に気付き始める。それなら自分で名前を決めれば良いとか元からあった名前にすれば良いとか、人は簡単に答えを与えてくれるだろう。だが、そのどちらとも青年にはする事ができなかった。
自分で名をつけるという事は、生みの親が名をつける事とは全く意味が違う。青年が自分の名をつけた瞬間その名は彼を縛り、永遠とまとわりつく。それは1度自分の名を捨てた罰、という表現が1番適切だろうか。安易に意味のない名をつけると、それは青年を永遠と縛りつけ苦しみを与え続けるただの荷物にしかならない。それなら考えれば良いのだが、たかが名前ごときに時間をとられるのが嫌という、なんとも我儘な答えで終わらせていた。
そして青年も一応母親という存在はいて、もちろんその名をもらったはずではあった。ただ、そんな記憶も放っておけば曖昧なものとなり、しまいには忘れてしまったのか、それとももとからそんなものはなかったのかどちらの判断もできなくなっていた。しかし、たとえ覚えていたとしても青年は使わなかっただろう。普通忘れるはずのないものを忘れるという事は、余程自分にとってはどうでも良いもので忘れたかったものなのだから。
そんなくだらない事を考えている間にも雨は先程よりも勢いを増し、しかししゃがみ込んで体が少し動く度に濡れて体にへばりついた肩にかかる漆黒の髪が重たそうに宙を揺れている少女は、全くその場から動こうとしなかった。真っ白なワンピースには雨の勢いではねた泥が背中にまで付着しているというのに、そんな事全く気にしないほど彼女は何かに集中している。
こんな雨の日にまでわざわざこんな所に来てする事なんて、余程の事なのだろう。波の音の正体を見に来たのは良いが先着がいてなかなか近寄れなかったが、それを見るついでに彼女に話しかけてみようと考えると行動に移すのはあっという間で、結構高い位置にある太い枝に座っていた青年は勢いをつけて枝から離れると、軽く地面に着地する。
かかとを地面にこすりつけ大きな足跡を残しわざと気付くように足音を大きくしたのだが、まるでここにはこれからもずっと1人でいるかのように少女の世界には青年は消されていた。だが、それくらい予想していた青年は表情1つ変えず足音を響かせていて、むしろこれくらいで反応を見せれば即座に踵を返していただろう。
どんなに人間のフリをしても人造人間だという事を隠しきれていない少女が放つ苦しみや悲しみのオーラは辺りに漂う空気をも巻き添えにして、遠く離れている青年にまで重く伸しかかってきている。そこまで少女に影響を及ぼす主人は一体どんな人間だったのか、気にならないはずがない。しかも繊細にできている人造人間は、特に水に注意をしなければならない。聞いた話によれば、たった一滴の水で全てが台無しになってしまうほどやっかいなものらしい。もちろん雨の日の外出なんて、まさに自殺行為だ。それなのにこんな雨の日にまで外に出るという事は、余程強烈な印象を与えて去っていったのだろう。
一歩一歩近付いていく事で、少女の周りには明らかに雨に濡れた為ではなく掘り返した跡が、途中でどれを数えたか分からなくなるほど沢山あるという、遠くからでは知るはずもなかった事が目に飛び込んできた。そして集中しなくても感じ取れる少女の感情を読み取って、ふと何となく思った事を良く考えてみると、信じられない答えに辿り着いて驚きのあまり前へ出しかけた足を止めてしまう。
青年は物心がついた頃から他人の思いを読み取る事ができるようになっていた。その思いがあまりにも強すぎると何もしていなくてもまるで青年に気付いて欲しいかのように勝手に頭の中に入ってきて、その思いは強ければ強いほど明確に伝わってくる。
しかしそれは、人間の場合である。
人造人間とはほとんどは人手不足を補う為に使うもので、その為には主人の思うように動いてもらわなければならない。多少の知識はあっても私情というものは全く必要ないものであるし、そもそも実際に感じた事がなければ分からないものを教えるのが無理なように人造人間に設定できない為いらないものはもともとないものと決められているので、危険な仕事や面倒な仕事などを任せられて人間にはとても都合が良かった。なので、主人をなくした悲しみや苦しみに似た感情が表れる事はあっても、それ以上のものは青年に感じ取れるはずがないのである。しかし、目の前の少女は違う。そう、それはもう人間と呼ぶにふさわしいほどの感情が、青年に伝わってきているのである。
ある時知人から面白い噂話を聞いた。どうしても感情を入れたければ、亡くなったばかりの人間の死体を用意しその体に命を吹き込めば良いだなんて、考えるだけバカらしくなってくる噂話。どうやって命を吹き込むかというのが1番の問題点なのにと、その時はただ、何て夢のある話だろうと知人と笑い飛ばしていた。だが今はそんな事を考える自分を笑えない。もしかして何ていう思いが頭の中を駆け巡る。
「……まさかね」
肩を強張らせていた青年は、唐突にその思いを鼻で笑うと肩をすくめ、嘲笑を浮かべた。たとえそうだったとしてもだから危険だという事は聞いていないので、別に何も心配する必要はない。
それにむしろその方が、興味がそそられる。青年は今まで人造人間を間近で見て話した事などないので比べる事はできないが、人間につくられた人間、そう考えただけで自然と口元が吊り上がるのが自分でも分かった。進む速度もそれと比例して速くなる。
「何してるの?」
少女の真後ろで足を止めると、なるべく平静を装って見下ろしながら話しかける。だが、それでも少女は青年を自分の世界に入れてくれなかった。さすがにここまで無視されると少し腹が立ち、それほど集中させているものは何かと気になるので少し前へ出て横に並び覗き込むと、少女は右手でゆっくりとやわらかい地面を掘っていて、その時初めて周りにある無数の掘り返した跡は少女自身がやった事に気付いた。
最初は何か埋める為に掘っているのかと思ったが、力なく垂れ下がった左手には何も握られていない。穴を掘り、そして元に戻す。一体何の目的でそんな事をしているのか、少女は何も言ってこないのでこのまま最後まで見ている事はできるが、この掘る速度ではいつ終わるか分からないし、そろそろこの静寂にも厭きてきった。面白そうな人や独特の雰囲気を放つ人を見つけると話しかけて表情の変化を見るのが好きな青年にとってここまで無表情で黙っていられると何としてでも、せめて反応ぐらい表すようにしたくなる。特に今までこんな事はなかったので、このまま去って敗北感に耐えられる心など持ち合わせていなかった。
少女の前にしゃがみ込み、もう一度強く同じ事を尋ねる。すると今度は、右手は疲れてきたかのようにゆっくりと掘るのを止め、それを見詰めていた目を青年の方へと向けてくれた。まるでつくりもののように綺麗に輝くステークブラウンの瞳は、まるで見たものを虜にするかのように青年はその視線から目を逸らす事ができなくなる。
見詰め返しながらやっと反応してくれた事を喜んでいた青年の心をまるで読んだかのように、少女はしばらく青年を見詰めた後再び視線を右手へ移し、そして地面を掘る作業を始めてしまった。確かに最初は反応ぐらいは、と思っていた。だが、1つ叶うとそれ以上の欲が沸いてくるのが悲しいもので、今度は会話を成り立たせる事に必死になって再び口を開けている自分に気付く。
「こんな雨の中、君は一体何の為に地面を掘ってるの?」
今度は少女の邪魔にならない程度に顔を覗き込みながら、詳しく尋ねてみる。さすがにここまでしつこく尋ねられるともう無視し続ける事は不可能になったのか、再び右手を止めて青年を見詰め、今度はすぐに視線を戻すと「埋めるから……」ポツリと、静かに降る雨に溶け込んでいきそうなくらい小声で、それでも右手で地面を掘り続けながら呟いてくれた。
やはり最初の予想通り何かを埋める為に地面を掘り続けていたらしい。それは分かったが、少女の周りには何も埋めるようなものは置いてないし、少女自身も何も持っていない。「何を?」自然と浮かんできた疑問をすぐ口にしてみる。しかし答える気がないのか、もしくはその答えを持っていないのか、少女は最初のように黙ったまま地面を掘り続けた。
「……手伝おうか?」
ゆっくりと、それでも確実に地面を掘り続ける、そんな作業をしばらく見詰めていたが、ふと思い付いた言葉を何となく口にしてみた。1人よりも2人の方が断然に速いので、せっかくここまでねばったのだから答えが出るまでの暇潰しにもなるし、少女の為にもなる。どれだけ雨の中いたのか知らないが、どうやら少女は水に対抗する力が強いらしい。だが、だからといってずっといても良いという訳ではない。早く中に入って故障がないか調べた方が良いだろう。
だが、そんな青年の提案に少女は首を振った。「私がやらないと、駄目なんです……」そう言っている間も視線は地面を掘る右手に向けたまま。慌てず、ゆっくりと時間をかけて掘っているのも、何か意味があるような言葉に聞こえた。ならば仕方がない。青年にできる事はただ1つ、少女を見守る事だけだった。
少女はこんな雨の日に外に出てゆっくりと地面を掘っている事以外、特に変わった所はない。ただ、ごく普通のどこにでもいそうな少女達よりも綺麗な印象を受ける。肩にかかる漆黒のつやのある髪、濁りを知らない輝くステークブラウンの瞳に白くすらりとした手。もしあの噂が本当ならば、これ程完璧な体を持つ人間に生きている時に出会いたかった。どんなに人間のフリをして感情が豊かでも、生きた人間独特の輝きというものが、やはり少女にはなかった。それは別の表現をすれば、時が止まっているような味わった事のない感覚。
そんな事を考えているうちに掘り終わったのか少女は青年の前で初めて地面から手を離した。その幅は少女の小さな手を広げても充分入るくらいで、深さは少女の手首が隠れるくらいの、それでも青年にとっては小さな穴。一体何を埋めるのだろうとじっと少女を見詰めていたが、少女は泥だらけの右手をしばらくの間額に軽く当てまるで祈るように目を瞑り、目を開けると同時に手を離し穴の中に手を突っ込んで、それからまたゆっくりと右手で穴を埋め始めただけであった。
「えっと……何、埋めたの?」
埋めるのは周りの土をただ穴の中に流すだけですんだので、あっという間に消えていった穴を埋めたやわらかい土を軽く2度叩いている少女に、再び同じ質問を恐る恐る尋ねてみた。そんな青年をまたステークブラウンの瞳に映した少女は、嫌な顔1つせず、というよりも無表情のまま「時間を、埋めたんです」ゆっくりと言葉を切って呟く。
しばらく少女が言った言葉の意味を考えるが何も思い浮かばなかったので、「……時間?」オウム返しで尋ねてみる。しかし少女はそれを確かめる為に言ったのだと思ったのか、ただ頷くだけであった。「何の時間、かな?」仕方なく頬をかき苦笑を浮かべながら詳しく尋ねる事にする。どうもこう何度も尋ねてしまうと次に尋ねる時気が引けてしまう。
もちろん青年のそんな気持ちを知らない少女は地面と青年を交互に見た後、「あの方との……時間です」先程埋めた為に色の変わった土をまるで壊れ物を扱うかのように指先で触れながら口を開いた。
「こうやって時間を埋めてあの場所で寝れば、またあの方と初めて出会った時まで戻るんです。もちろん記憶はなくなっているので本当にそうなるのか分かりませんが……でも、やり直せ、と今までの私が言うんです。あの方を死なせてはいけない、と……」今までためらっているかのように途切れ途切れ呟いていた少女とはまるで別人かのように、たまっているものを吐き出す少女ははっきりと自分の気持ちを伝えていて、浮かべる表情も青年の気のせいかもしれないがどこか嬉しそうだった。だが、でもと続ける少女のトーンは落ち、表情も俯いてしまった為か暗くなる。「やはり駄目なんです。自分で苦しみを思い出しているだけ。結局は繰り返されているだけだって分かっているのに……止める事ができないんです」
「どうして?」
反射的に疑問を口にしてしまい、話に割り込んできてしまった為か少女はそこで言葉を切ってしまった。それはそうだろう。自分の考えを口にする時は、相手に理解してもらえるだろうかという邪魔な不安が訪れる。特に少女の場合は今まで質問だけを答えてきたのだ。時間をやり直すなんていう普通考えられない事を口にするだけですごく勇気がいたはずだ。
俯いたままの少女は、一体その無責任な質問をどう思っているだろう。知りたくても、濡れた髪がまるで少女の顔を隠すかのように雨の勢いで揺れてその表情は読み取れないし、だからといって心を読み取るなんて事はしたくない。もしそのまま何も言わずに立ち去ったのなら、自分もこの時の穴埋め場に一礼をして立ち去ろうかなど俯いて考えていた時であった。
「アナタは、人造人間を見た事がないんですか?」
逆に質問をされてしまう。弾けるように顔をあげると、そこにはやはり何を考えているか分からない無表情を浮かべている少女の姿が目に映った。その表情を見て失礼だが安堵してしまい、だがすぐに違和感を覚える。
同じような格好でしゃがみ込みステークブラウンの綺麗な瞳で見詰める彼女の浮かべる表情は確かに生きた感じはしないのに、何故先程はあんなに強い感情を感じられたのか、少女を見詰めながらそんな事を考えつつ、「うん、そうだけど……」表情には出さないよう平静を装って取り敢えず答えた。すると少女は目を伏せて、雨が地面を弾く音だけが響く中でも耳を澄ませれば聞こえない声で、やっぱり……と呟く。
「人造人間は主人の1部なのに、私はそれどころかあの方の邪魔ばかりをしていました。せっかく与えてくれたものの恩返しを、私はまだ何1つ返していません。だからたとえ自分が苦しもうと、あの方の為にやり直さなければ」
「君人造人間だよね? それじゃ君をつくった主人、はっきり言ってバカだったんじゃない?」
だんだんとがってきた少女の声を聞いていて、青年は自分の中で溢れ出してきた苛立ちを抑える事ができず、とうとう少女の声を遮ってそう冷たく言い放つ。唐突に態度が変わった青年の言葉に唖然としていた少女は、しかしすぐに自分の主人を侮辱された事を理解すると、今までずっと見せていた無表情は仮面だったかのように鋭い目付きで睨み付けてきて「何で私の話を聞いてあの方がそのような事を言われないといけないのですか?」それでも憤怒を抑えてそう聞き返した。しかしその怒りは抑えていても青年の体を針のように体中を鋭く突き刺す。
だが、そんな少女の憤怒が強く伝わってきても青年の苛立ちは衰えなかった。むしろ、全く分かっていない少女に更に苛立ちが増す。「あー、もうっ!」取り敢えず勢いあまって怒鳴ってしまわないように髪を乱暴にかきむしる事で苛立ちを抑え、勢い良く立ち上がって少女を見下ろし、なるべく乱暴にならないように言葉を自分なりに選んで言い放つ。
「今の話聞いてると、こっちは自分勝手にしか聞こえないんだけど。君の主人がどうやって君の前から去っていったかは知らないよ。知らないけど、求めていたものが手に入らない辛さよりも軽かったっていう事ぐらいは、安易に予想できるさ。それなのに君は、自分勝手なその思い込みが正しいと思って主人を再びこの地に呼び戻している。たとえ君の記憶の中の人物だろうとね。君は自分にだけではなく、君の主人にももっと苦痛を与えているんだって、そんな事も分からない訳じゃないだろう?」
喋っている間に誰が見ても分かるくらい少女の表情には変化が表れた。言葉の意味をやっと分かってくれたのだろう――まぁあの言い方じゃ挑発している風にしか聞こえないのは分かってたけど、こっちも言葉を選べるほど余裕はなかったんだし――。顔は真っ青になっていき、細い腕で自分の体を抱きすくめる姿は自分のやってきた事がかえって主人を傷付けていたという真実の重さに耐えようとしているように見えた。「わ、たし……私は……っ!」どこを見詰めているか分からないステークブラウンの瞳からは、泣いているのか、しずくが頬を伝い色の変わった土へと落ちていく。だが、人造人間が泣くなんて聞いた事がない。あれは雨だったのだろうと思う事で、青年の中で溢れ出す疑問を抑える事にした。
どうやらこちらも間違った選択をしてしまったらしい。悟ってもらえるだけで良かったので、別にこんな表情を浮かべて欲しかった訳ではない――しかも女の子だし――。自分から話しかけない限り交流を望まない青年にとっては慣れているのは言い合いぐらいで、こんな時どうすれば良いかなんていう知識は、残念ながら持ち合わせていなかった。こんな事になるなら無駄に喋るアイツに聞いておけば良かったなんていう考えが一瞬脳裏を横切ったが、思わず実際に頭を振ってしまいそうになるほどその考えを否定する。絶対バカにされる。
取り敢えずやってしまったものは仕方がないので、視線を横に流し顎に手を当て散々悩んだ結果、俯いてしまった少女の頭にそっと手を乗せる。すると自己嫌悪に陥っていた少女はいきなり頭に触れられたので、殴られるとでも思ったのか肩を強張らせた。そんな少女を見て、あんな言葉を選んでしまった事に後悔が襲いかかってくる。
「……ごめん」
まさか謝られるなんて考えてもいなかったのだろうか、「え」弾けるようにあげた顔は驚きに満ちている。だがそうやってもう一度言ってもらうように促す一言の言葉に答えられるほど、青年は謝る事に慣れていなかった。その事に気付いてくれたのだろうか、しばしの沈黙の後、少女が頭に手を乗せたまま小さく首を振る。
「いえ、アナタが謝る事じゃないです。そうですね……私、考えてみれば自分の事しか考えていませんでした。あの方が去ってしまったのは、私の努力が足りなかったから――いえ、実際そうなのですが……だから、もっと努力すればあの方はここにいてくださるに違いないと、やり直す事を考えて……それしか考えていませんでした」少女まで謝ってきた。だが、そんな事はないと青年が否定する前に、やはり一筋縄ではいかないのか再び、でもと小声で言葉を続ける。「今までそれが私の世界でしたから。他に何か考えろと言われても……何も…………」
また俯いてしまった少女から手を離し、視線を流して頬をかく。どうやらとてもややこしい相手を選んでしまったらしい。少女に聞こえないように小さく息を吐く。
だが、ふとそこで別の考え方をしてみる。それならば単純で分かりやすくて扱いやすい相手の方が良いのだろうか。――その問いに答える代わりに青年は少女が顔をあげても見えないように髪で顔を覆い隠し、口元を吊り上げた。いや、苦労するからこそ、その分得るものが多いのではないか。
「それじゃあ、壊してあげる」髪で視界が邪魔になっても、少女が今度はゆっくりと重い髪をかきわけて顔をあげたのが分かる。黙ったままの少女は、視線で言葉を促した。どういう意味だ、と。「もちろん君と主人の関係をなくす、なんて言ってる訳じゃない。今の君では何回やり直したって結局繰り返しているだけにしかならない。ならどうすれば良いか……答えは簡単だ。こっちで君が今まで分からなかった事を、知るはずもなかった事を自分のものにしていけば、また新たな考えが浮かぶはず。それからだって、遅くはないんじゃないの?」
唖然と聞いていた少女は青年がそこで言葉を切ると俯き、顎に手を当て考え込む。まだ言葉が足りないのか、いや、伝えたい事はすべて言葉にした。ならば青年がする事は1つしかない。
前かがみになり、俯いている少女からでも見える位置に手を差し出す。その手を視界に入れた少女が不思議がって顔をあげ、ステークブラウンの瞳が青年の金色の瞳をとらえた時に自分の中で最高の笑みを浮かべた。
「君の世界、壊してあげるよ」
上出来だ、完璧すぎるくらい。
その手と青年を交互に見た後視線は手で止まり、少し逡巡した後その手を握ろうと1度は手を出しかけるが、まだ迷いがあるのか手を引っ込めてしまい、確かめるようにまた青年を見る。だが、ここで促すような少女のペースを乱す事はしてはいけない。青年にできる事は、もう全てやったのだから。
目を伏せて口元を隠すように泥土で汚れてしまった手を当て再び逡巡した少女は、その手を離ししばし見詰めた後に意を決したように強く手を握ってきた。「お願い、します……」だが礼儀正しくそう言う声には少し迷いが混じっている。
青年も、力を込めると壊れてしまいそうなくらい華奢な手を離さないよう握り返すと軽く引っ張り立つように促す。よろめきつつも立ち上がった少女の身長は想像していた以上に高く、それでも知り合いの中で1番背が低い青年と大して変わらなかった。完璧すぎるほどの体を持っているのにそれ以上の事を望むなんて、むしろ罰当たりな事なんじゃないかと思えてくる。
深く考えずにごく普通に少女の名を呼ぼうとして、ふと思い出す。あれ、自己紹介したっけ……? 良く考えてみれば、全く名前の事を触れずに途切れ途切れな会話をしていたような気がする。今までは必ずといっていいほど青年から名乗っていた。何故そうだったのだろうかと思い返してみるが、すぐに、唐突に現れて声をかけてくる青年に警戒をするので自然と名乗る形になってしまったのだという答えが思い浮かぶ。そりゃこっちから名乗るわ……。思わず心の中で苦笑を浮かべるが、ふと何も言ってこない青年を不思議そうに見詰めている少女の視線に気付きそんな考えを消す。
「どうか、しましたか……?」
「ううん、何でもない。そういえばさ、まだ名前言ってなかったよね。……まぁ、名乗るような名前なんてないから、適当に“チェシャーキャット”とでも呼んでくれたら良いよ」
なるべく自然に見える笑みを浮かべてそう言うが、少女はその微妙な名乗り方に何も言わず、その笑みが不自然だったのか探るような目付きでただ青年を見詰めていた。その視線に、思わずたじろいでしまう。そんな探られるような目付きで見られるのは嫌いだ。無駄に緊張してくる。何か感じたのだろうか――いや、深い意味があって見詰めている訳ではないかもしれない。そう自分に言い聞かせて何とか気持ちを落ち着かせた時、少女が口を開いた。
「そう呼ばれるの、嫌いなんですか?」
何でそんな事を聞くのと言いかけた口を閉じる。まさか少女も心を読み取れるなんてある訳がないし、ただそんな風に感じただけだろう。それに少し降り方がひどくなってきた雨の中の長居は無用だ。「そこら辺はご想像にお任せするよ」取り敢えずもう一度笑みを浮かべてそれだけ言う。
しかしまだ納得しないような表情で見詰めてくるので、これ以上変な質問をされない為に握っていた手を離して少女の横を通り、先に進む。
「雨がひどくなってきたね。話は歩きながらでもしようか」
肩越しに振り返り、さり気なく話を変えた。返事を待たずに歩き出すが、どうも耳には雨音しか入ってこず足音が聞こえてこないのでもう一度立ち止まり振り返ると、俯いている少女の姿が目に映る。先程手を握ったものの声には迷いがあったのでまだ青年の後に続く勇気がないのだろう。体ごと振り返り、少女の行動を待つ。
しばし俯いたままだったが、そのままゆっくりと後ろを振り向いて見たのは先程埋めて色が変わった土だった。それを見て何を考えたのだろうか、「私は……」俯いたままそう呟き、顔をあげた時は何か意を決したようにしっかりとステークブラウンの瞳で見詰めてきた。
「私の名前は、フィーアです」
その名を聞いた時、何故か青年の胸が痛む。その不思議な痛さに首を傾げるが、迷いが晴れたのかしっかりとした足取りでこちらにやってくる姿が見えたので、それっきりその事について考える事はなかった。
End
…………なーんか“今度”が連続で出てきてるし相変わらず句点はなかなか出てこないし…読む気が起こらないな;しかも今回は途中で説明文を入れている会話文が多すぎて…更に読む気がなくなる;;(脱力)
それでも頑張って書いたのは…まぁチェシャーキャットが出てきている事もありますが、「君の世界、壊してあげるよ」という言葉を言わせたかったという思いの方が強いかな(え)。…うん、それだけの為に頑張った(…)。
ずっと丁寧口調な少女を書きたいなーと思ってて書いたのはいいのですが、『薔薇のマリア』を読んだ為かサフィニアと同じような喋り方になってしまった。……まぁそれはまだ良い方だ。どこら辺か忘れたけど少女が去るっていう風に話が進んでしまい、その少女の後を青年が追って左手を掴むんですよ。その時の青年がヘタレだし少女は気が強くなってるし…キャラ違っ!;
そして、あとがきで説明しないと分からないという駄作の見本その2(…)。
チェシャーキャットはこの世界の事を“劇場”と例え、自分はその中の登場人物だという考えを持っています。なので無駄に演じるような表現を使っています。自分が良ければそれで良い自己中心的思考の青年は、その為には自分をも騙している…という感じで…。だから必要以上に見られるのは嫌いなんです。
最後にチェシャーキャットの胸が痛んだのは、青年の気持ちじゃなく少女の気持ちが伝わってきた為です。
ちなみに“知人”と“無駄に喋るアイツ”は同一人物です。
知人についても色々考えているので、話をまとめてつくっていくつもりです。
05年9月4日