人形の人形
前編
目を閉じていても完全な闇ではなく、むしろ頭の中には明るい色が広がっているので光を受けている事は充分分かったが、それだけで他はただ寝転がっている事と、大きくなったり小さくなったりする音が自分の周りをうろついている事以外は全く分からなかった。どこにいるのか、何故そこにいるのか、そして自分は何者なのだろうかという1番肝心な事が、全く分からないのである。
取り敢えずこの大きくなったり小さくなったりしている音の正体何なのか、調べる為に目を閉じたまま耳に意識を集中させる。大きいといってもその音の中でという意味なので、どんなに集中しても断片的にしか聞き取れなかったが、それだけでその音は声だというのが分かった。その声から聞き取れた言葉は「どうすれば」という言葉だけで、もしかしたらそれしか言っていないのだろうかと思ってしまうほど何度も聞こえてくる。
分かった事はそれだけだった。それならば自分にできる事は1つしかない。先程から休まず言葉を放ち続ける者に話しかけるには、まず目を開けなければいけない。そう思い重いまぶたをゆっくりと開けるが、すぐに目の前で明るい原因であろう眩しい光が目に入ってきたので反射的に閉じる。手を上げて光を遮ろうとしたが、まるで自分のものではないかのように手はいう事を聞かず、右手の指先が一瞬反応しただけであった。
何度か手を動かそうと力を入れてみるが同じ事の繰り返しで、左手なんて反応すら表そうとしない。それでもやっていればいつか動くようになるだろうと信じてそれだけに集中してしまい、ふと気が付けば光になれた目が薄汚れた暗い天井を映していた。そうだ、今はこの状況を聞く方が先だ。慌てて辺りを見回そうとするが、顔はぎこちなく右を向き、それだけで体は疲労を訴える。
さすがにここまで体が思い通りに動いてくれないと、頭が混乱してきて冷静に物事を考えられなくなってきた。早く、早く見つけなければ。仕方なく右を向いたまま目だけを動かし小さなものも見逃さないようくまなく声の主を探す。
――いた!
ずらりと並ぶ何やら色んなボタンなどがついた冷たい機械の中に、声の主はいた。機械が邪魔で光が届かず暗いが、ぼんやりと人が浮かんで見えた。自分より低い所にある画面を覗き込むように背中を丸めてウェーブのかかった長い金髪を1つにまとめているが、時々苛立ちを抑える為か頭を乱暴にかきむしっている為頭の方は髪が好き放題に跳ね回り、ひどい事になっている。画面に集中している為か黙々と手を動かしているので静かだが、多分大声で叫ばなければ気が付かないだろう。
息を大きく吸い込み、声を出したはずだった。だが吐き出されたのは声ではなく空気の塊で、その衝撃に少し喉を痛めてしまったようで思わず咳き込む。しかし咳き込むと今度はお腹辺りに痛みが走り、無理に咳を止めようとすると再び喉に痛みが戻ってくる。どうすれば良いのだろうかと困りながら込み上がってくる咳を小さく吐き出していると、どうやらやっと気付いたのか猫背の人は肩越しに振り返り、ずりさがってきた眼鏡を1度押し上げると、まるで時が急に動き出したかのように足がからまりながらも慌ててこちらに走ってきた。
「大丈夫っ!?」
そう慌てて尋ねながら横向きにして背中を撫でる手つきは落ち着いていて優しい。布越しからでも温かさが充分伝わってきて、その温かさに安心して喉に入れていた力をゆるめ咳を込む。再びお腹の辺りがまるで何本もの針に刺されたかのように痛むが、背中を撫でてくれる優しさと温かさのおかげで何とか我慢する事ができた。
しばらくしてやっと落ち着いてきた頃、相手を観察する余裕ができてきたのでぎこちなく上を向いてみるが、逆光のせいで顔が良く見えない。しかし、大丈夫と再び尋ねられた時にぎこちなく頷こうとしたがそれでは分かりづらいかと思い「は、い……」空気と共にかすれた声を出すと、安堵の息を吐きながら微笑んでくれたような気がした。それは気のせいかもしれないが。
「えっと……まず自己紹介しようか。僕の名前はフィーアだよ」
よろしくねと言いながら額を撫でる手は布越しからでは分からなかったがゴツゴツとした大きな手で、その感触で相手の性別は男だと、何となくそう思った。声は男性にしては少し高めで、その響きはまるで鳥のさえずりを聴いているかのように落ち着く。何故自分がそんな風に思ったかは分からないが、今はそんな事どうでも良かった。
それからフィーアと名乗る男性は、丸椅子を持ってきて横に置いて腰掛け、色々な事を話してくれた。そのおかげで、フィーアの顔が良く見える。想像通りの優しい笑顔を浮かべ、赤い縁の丸眼鏡の奥にはバラのような真紅の瞳が輝いている。
ゆっくりと理解する時間を与えて話すフィーアの話を聞いていると、どうやら自分は彼につくられた人造人間らしい。それなら先程の鳥のさえずりやバラのような真紅の瞳という表現も彼が設定したのだろうか。性別は女のようで、肩までかかる黒髪はフィーアが憧れていたからだそうだ。自分にとっては黒より金の方が良いような気がしたが、ずっと同じ色を見続けると違う色が良く感じるのだろう。そういう考えに辿り着き、何も言わない事にした。
そんな事を考えていると、ふと体が思うように動かない事を思い出し、その不安を打ち明けると、「大丈夫、何度か動かす練習をすれば体が覚えてすぐ自由に動くようになるよ」笑みを浮かべてそう言ってくれたので安心したが、でもと言葉を続けたフィーアの暗い表情を見て再び不安が訪れる。
「手が、ちょっと心配だね……。右手は何とかなるかもしれないけど……」
だんだん独り言のように言葉が尻すぼんでいっても、その言葉の続きは嫌というほど良く分かった。もしかしたら左手はこのまま動かないかもしれない。今考えただけではどれだけ不便なのか分からないが、少なくとも色んな研究をしていると言ったフィーアの手伝いはできないだろう。それどころか、足手まといになってしまうに違いない。失敗作として棄てられるのだろうか……? しかしそれも仕方ないと出そうになった溜息を飲み込む。そもそも人造人間とは人手不足を補う為につくられるというのは、目覚めたばかりでも理解できる。その部分を修正するよりも、つくり直す方が時間はかかるが作業は簡単に違いない。
目を動かしフィーアの方を見てみると、顎に手を当て何かを呟きながら考え事をしていた彼はその視線に気が付いたのかこちらを向き、「あぁ、大丈夫だからっ! もう一度見直してみてみるよ。大丈夫。何不自由なく、っていうのはちょっと大変だけど……少なくともちゃんと動くように僕も頑張るから」不安を感じ取ったのか慌てて両手をあげて首を振り否定の意味を表し、わざわざ立ち上がって左手を両手で包み込んでくれた。温かい。どうやら動かなくてもちゃんと感覚はあるようである。不思議な気分だった。
「僕も頑張るから、一緒に頑張ろうね」
役立たずな自分なんかにそんな言葉をかけてもらい、「はい」今度はなめらかに声が出た。そしていつまでも寝転がっている訳にもいかないので右手に力を入れ起き上がろうとしていると、何かを思い出したのかフィーアは、「そうだ」いきなりそんな声を出す。
「君の名前、何が良いかな? 本当はこういうのは僕がつけるんだけど、やっぱり自分でつけた方が良いと思って……」気恥ずかしそうに頭をかいて苦笑を浮かべるフィーアを見て、失礼だがつられて笑みを浮かべた。実際に笑みを浮かべたかは、フィーアにしか分からないだろうが。「あ、今すぐじゃなくて良いから。そんな急に言われても困るしね」
それじゃあ、まず起き上がろうか。そう促され背中を支えてもらい、再び右手に力を入れる。左手は相変わらず我儘で反応すら示さないが、右手は何とか指2,3本ぐらいは動くようになっていた。
「……結構、時間がかかりそうだね」
「すみません……」
恥ずかしさのあまりフィーアの顔を見る事ができなかった。そんな自分を、フィーアは先程と同じように優しく頭を撫でる。「大丈夫だよ」フィーアに支えてもらいながらだったが何とか体を起こせるようになるまでの長い時間、彼は何度も心を込めてそう励まし続けてくれた。
それから、自分にとっては長い時がゆっくりとすぎていった。無理もない。起きている時間は全て体を動かす事に使い、疲れたら体を休める、毎日それの繰り返しなのだから。人間のように食事や娯楽など必要がなかったので、可能な限り体を動かす事に集中できた。ただ必要なのは、週に一度の検査だけ。あの日を過ぎたばかりは調子が悪くなればすぐあの場所に寝転がり調査をしてもらっていたが、今ではちょっとの事では体は悲鳴を上げなくなったので、人間に例えれば健康診断のようなものである。ただ、自分の場合は人間と違い全て人の手でつくられたものなので、先程まで調子が良かったものがいつネジを外すか分からない。普通の人造人間は人間の手を煩わさなくても自分で発見して排除するのだろうが、未だに手を自由に動かせない自分では発見も遅くなるかもしれない。これは、フィーアの親切であった。
そういえば、ふと思い出す。そういえば1度だけ検査の時、いつもは体を動かす事に全てを使い果たして疲れて眠り込んでいる自分がその時は珍しく目を覚まし、無意識のうちにフィーアを探していた。ゆっくりと首を動かし辺りを見回すと、初めてフィーアを見つけた場所と同じ場所で彼は横に置いてある大量の紙に目を通していた。低い位置にある画面を覗き込み、紙を横に置くとすばやくずらりと並ぶボタンを弾いていく。その動きには無駄がなく、まるでピアノを演奏しているかのように華麗に指はボタンの上を踊る。耳を澄ませば音が流れてきそうだったが、実際に耳に入ってきた音は、指でボタンを軽く弾く音と画面の機械的な音だけであった。
「君は悪くないんだ。悪いのは僕だから……だから、自分を責めないで?」
なかなか思うように動かなく落ち込んでいる時は、まるで気持ちが分かるかのようにフィーアはいつも自分を探し当てると頭を撫でながら優しくそう言ってくれる。そう言ってもらえると、とても安心した。フィーアに責任をなすり付ける訳ではなく、彼も頑張っているのに自分が頑張らないでどうする。この問題は2人の問題だ、どちらかが欠けてもいけないんだ。そうやって自分に言い聞かせてまた頑張る事ができるからであった。
いつか左手が少しでも動くようになったら、フィーアの研究の手伝いはできなくても書類を整えたりお茶を出したりするぐらいならできるだろう。ずっとその日を夢見て、今日も手を動かす事に集中する。手以外は何とか思うように動くようになったので、今ではフィーアの支えがなくても起き上がる事も着替える事もできる。なるべく迷惑をかけないよう、フィーアの手伝いをできるよう……。いつもそう言い聞かせてなかなか動かない苛立ちに耐えた。その後に続く幸せの日々を想像しながら。
しかし、そんな彼女のたった一つの願いも、叶う事なく終わっていった。
「――あれ?」
自然と声が漏れる。いつものように与えられた部屋に置いてあるベッドに腰掛け、だらしなく開ききった両手に力を込めていた時であった。右手は何とか握れるようにはなっている。しかし左手は相変わらず反応を示さない。何度もフィーアに検査してもらっているのにここまで何の変化もなければ、諦めてこない方がおかしい。
だがそれでも頑張るのには、フィーアという存在が大きいからだろう。諦めかけている自分を否定し、だがやはり動かない左手を見て溜息をつきそうになった時であった。ふと視界の端で左手の中指が反応を示したような気がして、思わず自分で疑問を口にする。今、動いた……?
もしかしたら右手も一緒に動かしていたので目の錯覚かもしれない。そう思い、今度は右手を膝の上に置いて左手だけを視界に入れる。なるべくまばたきをしないよう左手を見詰め、気持ちを落ち着かせる為に軽く深呼吸をしてから少しずつ指に力を入れていく――が、やはり動かない。しかしその事実を受け止めたくなくて、もう少し指に力を入れ続ける。もしかしたら、反応が遅いだけかもしれない。時々力をゆるめたり、右手まで反応して足を強く握ってしまうくらい力を入れたり――、そんな事を幾度か繰り返していた時だった。
「あ」再び自然と声が漏れる。だがこれは先程の疑問ではなく、歓喜の声であった。「動い、た」
今度は見間違えでもなんともない。確かに、ほんの少しだが左手の中指が反応を示したのである。もう一度確かめる為と嬉しさのあまり再び手に力を入れてみても、今度は少し遅れて中指が2度反応する。
その光景が目に映った瞬間、彼女は勢い良く立ち上がり扉へとまるで突き当たる勢いで走り出す。早くフィーアに知らせたい! その思いだけが頭の中を回り、だが焦れば焦るほど右手が思うようにドアノブを回してくれない。
扉にもたれかかるようにしてドアノブを回していたので、震えた手がやっとドアノブを回して扉が開いた時に体が反応できなくてそのまま廊下に投げ出されるように倒れてしまった。しかしすぐに右手で上半身を起こして左足を立てると、まだ完全に立ち上がっていない姿勢のまま走り出し、フィーアの研究室へと向かう。途中で何度も足が絡まり前のめりに倒れそうになったり、時には顔をかばおうとして右手だけを前に突き出した事により痺れが走り、その痛さに顔をしかめたりしたが決して立ち止まろうとはしなかった。むしろ何度もつまずきそうになればなるほど、次に走り出す速さの方がまるで遅れを取り戻そうとしているかのように速くなるのである。
最初はなんと言おうか。率直に左手が反応を示すようになったと言おうか、それとも左手を使って何か驚かした後の方がフィーアは喜びを表してくれるだろうか――、色々思考を巡らしているうちに見慣れた扉が目に映ってきたので慌てて速度を落とした。あまりにも考え事に集中していて、更に早くフィーアに会いたい気持ちでいっぱいだった彼女は、ノックをするのも忘れて半開きになっていた扉に体当たりするかの勢いで開けてしまった為、弾けるようにこちらを向き一瞬何が起こったのか分からない表情を浮かべている彼と目が合う。最初は喜びのあまりそこまで気が回らなかった彼女だった。が、今まで出した事のない速さで勢い良く突っ込んでしまった為部屋の中でやっと止まった後荒い息を整え、そして膝に手を乗せ前かがみのまま報告しようと顔をあげた時、部屋の状態を見て言葉を放とうとした口のまま言葉を失ってしまった。
部屋は電気だけでなく暗幕を開けている為かいつもよく明るく感じ、太陽の光に照らされた床には足の踏み場もないくらい――いや、床すら見えないくらい破れた紙やら何かの部品やらが散らばっていた。確かに機械がずらりと並んでいるせいでこの部屋は狭く感じるが、フィーアは整理整頓を欠かさない人物だったので“散らかった”と表現してもまだ不自然に感じるほどのこの部屋は、彼女の知らない別の部屋と化していた。
ゆっくりと視線を下ろすと自分の下にも同じような状況が広がっていたので、慌てて後退り廊下に出る。裸足だったとはいえ、踏んで良い理由にはならない。
「やぁ……どうしたんだい、そんなに慌てて?」
すぐに謝ろうと顔をあげると、まるで彼女の言葉を聞きたくないかのようにフィーアは笑みを浮かべて尋ねてくるが、疲労に満ちたその顔は上手く笑顔をつくる事ができていなく、彼自身もその事を分かっているのかすぐに顔を背けた。
右足を立てて左足は床すれすれの位置で小さく揺らしながら窓に座るフィーアの曲がった背中を見て、とても近付けるような雰囲気ではない事を感じ取った彼女は、だがそれだけでどうする事もできずにただ茫然と彼の背中を見詰める事しかできなかった。そんな事では駄目だと分かっていても、焦れば焦るほど選択肢は狭まり、頭の中が真っ白になっていく。こんな状況をたった今初めて体験した彼女には、こんな重苦しい緊張の空気が漂う中でフィーアにかける言葉を探すなんて、とても無理な話だった。考えに考え、やっと思い浮かんだ言葉は、「どうか、されたんですか……?」そんな初めに感じた疑問だった。
「あぁ……うん、汚いね。早く片付けないと……。でも何から片付けたら良いかな? もう全ていらない物に見えるんだけど、またいる日がくるかもしれないしね」
もう一度こちら方を見て浮かべた笑みも失敗に終わり、再び窓の奥へと視線を移しながらまるで独り言のようなそんな呟きが耳に入る。まるで冗談のように笑いながら言いそうなその言葉には感情などこもっていなく、もう諦めている事を言い訳のように口にしているような感じだった。
様子がおかしい。朝からフィーアは部屋にこもっていた為今初めて会ったのでそれまで何があったか知らないが、フィーアをここまで落ち込ませる――いや、苛立たせる事があった事は安易に予想できた。しかし、それが何か分からなければ意味がない。
考えても答えなど思い浮かばない事など分かりきっているはずなのに、この沈黙から逃げるかのように思考を巡らせながら改めて視線を下ろし、床を埋め尽くす紙を見下ろす。一体これだけの量を今までどこに置いてあったのだろうかと疑問が思い浮かぶほどその量は半端ではなかった。ふと目に留まった色々な図が載っている少し破れた紙を見詰めるが、何だか罪悪感が生まれてきたのですぐにフィーアの猫背へ視線を戻す。そもそも良く分からない記号や知らない漢字などがずらりと並んでいたので、彼女には理解できないのだが。
まるで喋らず、動かず、この静寂を保たなければいけない命を受けているかのように、彼女はただフィーアがいつもの笑顔を浮かべて振り向き、何か喋ってくれるのを待っていた。何かが上手くいかなくて落ち込んでいるだけなのですぐにいつも通りに戻ると、ただその事を自分に言い聞かせてフィーアを見詰めていたのに、ゆっくりとこちらを振り向いた彼は今まで見た事がないほど鋭い目付きで睨み付け、「何?」短くそう吐き捨てたのである。背筋に悪寒が走り反射的に右足を引くが、すぐに足を戻してフィーアの真紅の瞳を見詰める。
「すみません……早く、伝えたい事がありまして……」
尻すぼみそうになりつつもしっかりとその事を伝えると同時にフィーアの眉が少し動いたのを見逃さなかった。「伝えたい、事……?」少し首を傾げてオウム返しで聞いてくるフィーアの表情には、普段通り、とまではいかないが、先程までの冷たさはまるで見間違いかのようになくなっている。
「はい! あの、私……。左手が動くようになったんです!」
先程の事を思い出すと思わず感情が高まってしまい、自然と声にも勢いがつく。きっとフィーアも喜んでくれるだろう、そう思っていたのに、再び予想は裏切られて彼は小さく微笑むと「そうか……」また窓の奥へと視線を戻した。その為、彼女も自然と黙り込んでしまう形となる。
どれだけ時間がすぎただろうか。もう結構な時間がすぎたような気もするし、ほんの数分しかすぎていないような気もする。そういえば、ふと思い出す。そういえば、いつかフィーアがこんな事を呟いていた覚えがある。時間とは不確かなもので、人はそれを確かなものとする為に物の中に閉じ込めた。何と愚かな事だ、時間は確かに一人一人の中で動いているというのに。確かそう呟いた時も、こんな風に窓に腰掛けていた時であった。そして更に小声で何かを呟いた覚えはあるが、その言葉が思い出せない。顎に手を当て小さく唸り考えてみる。確か……時間に関係する事だったはず。
考える事に集中していた為、先程よりも少し傾いた日差しが照らすフィーアが呟いた言葉を聞き取れず、思わず「え」顎から手を離しもう一度言ってもらえるように促してしまった。慌てて口をふさぐが、振り向きそんな彼女を見たフィーアは、何を思っているか分からない笑みを浮かべる。
「愚かだよね、人間は。どんなにその時の状況をつくっても、その時流れていた時間まで戻せる訳ないのに。また違う時間がちゃんと流れているのにね。……まぁ」1度そこで言葉を切ると、たまった重苦しい息をゆっくりと吐き出し窓枠にもたれかかる。「僕も、そんな愚かな人間の1人なんだけどね」
どこを見詰めているか分からない表情でそう呟いた言葉に、先程の疑問の答えを導いてもらった。そう、あの時のフィーアも自分もその愚かな人間の1人なんだと、嘲笑っていた。
前にあった出来事と同じ結末が繰り返されるなど、そんな偶然は余程の事がなければ起こらないんだろうが、今回はその“余程の事”に入っていて欲しいと、ただ彼女は願う事しかできない。確かあの時はしばらく待っているとフィーアは唐突に謝ってきて、そしていつもの彼が戻ってきた。だが、あの時床には紙どころかゴミ1つ落ちていなく、独り言を呟いていただけで睨んでくる事などなかった。
どうやら私は、フィーアとの幸せな日々に“運”を使い果たしてしまったようだ。
「名前」再び考え事を集中している中そんな声が聞こえてきたので、今度は思考を停止し何も喋らず続きの言葉を待つ。「君の名前を聞くまで待とうと思っていたのに……どうやら、限界のようだね」ポツリポツリと言葉を吐き出しては、その言葉の響きが消えるまで待つフィーアの瞳には、一体何が映っているのだろう。溢れ出す疑問を問いただす事を許さない雰囲気を漂わせたフィーアは、そこで俯き溜息をつくと、空を見上げた。その後姿は何故かとても今にも飛び出しそうな自分を抑えているように見えるのは、気のせいだろうか。
「初めて君が動いて僕と話をした時、僕は君に名前を考えて欲しいって言ったよね。自分の名前は自分がつけた方が良いだろう、って……」
その言葉になるべくいつも通りの表情を浮かべて頷きながら返事を返す。だがそれは気休めにすらならなかった。フィーアは自分と何か話す時は必ず目を見て喋っていて、そうするようにと彼女にも注意をしてきた。瞳は真実を導く力があり、そして相手の感情を探る唯一の手がかりである。見知らぬ者には警戒を、信頼できる者には気のきいた言葉をかけられるように。そんなフィーアがこちらを見ずに背中を見せたまま問うという事は、もしかしたらそれすら独り言なのかもしれない。そんな不安は返事を返しても消える事はなかった。
唐突に振り向いたフィーアはまるで彼女の考えを読み取ったかのように、いつもの笑みではなく嘲笑うような冷たい笑みを浮かべた。「あれ、嘘」悪寒が走る。目の前にいる人物はフィーアのフリをした全くの赤の他人だと、すでに頭は現実を否定した。
「嘘、っていうか……半分は確かにそう思ったんだけどね。……期待していたんだ、君に。彼女の名を口にする君に。その瞬間、君は生まれたばかりのただの人形じゃなくなり、僕の知っている彼女になる。そして前まで以上に幸せな時間を、二人で築く事。その事を考えたら、どんな苦痛や心配事も楽になった」でも、と言葉を続けるフィーアは、今にも泣き出しそうな雰囲気を漂わせていた。しかし表情は彼女を嘲笑ったまま。そんな異常なフィーアの姿に彼女は何も言わず、ただ彼の後ろに広がる空の彼方を見詰めていた。「結局彼女は彼女、君は君でしかないという真実を叩きつけられてしまった。……いや、間違いなんて本当は最初から分かっていたはずなのに、僕は2度も同じ過ちを繰り返してしまった。それだけ僕には彼女しかいなかった。たとえ違う僕が彼女と会ったとしても……って、その時点でもう不可能だって認めているけどさ」
そう言い終った後に浮かべた嘲笑は自分の愚かさに対してだったのか――、そんな事彼女にはもうどうでも良くなっていた。ただ、今まで信じてきたものが全て偽りだと知らされた時、その量の多さに意外と悲しみを通り越してもう驚きすら感じないんだなと、呆然とそんな事を考えていた。
「でも……君の考えた名前がどんなのなのか、聞いてみたかったなぁ……」
そう言いながら浮かべた寂しそうな笑みが、彼女の思い出せるフィーアの笑顔だと誰が考えられるだろう。たった一度浮かべたその寂しそうな笑みは、今まで何度も見てきた笑みよりも印象が大きかったのだと、そのせいで自分は自分とではなく違う人物として必要とされていた真実を思い出させ、彼女を苦しめる結果になるのだと、フィーアは考えもしなかっただろう。
彼女から少し目を逸らしたフィーアは目を瞑ると、まるでやっと仕事を片付け終わり安らぎの場所へと飛び込むかのように、頭を倒して広いベッドへと身を預けた。垂直になり、そして更に倒れ続ける頭に続いて体まで飲み込まれ、最後に床すれすれだった左足までが何も残さずこの地を蹴っていく。
何か重たいものが勢い良く進む時に生じる風を切る音がだんだん小さくなっていき、そして途切れそうになった瞬間、短く響き渡っただけなのに耳が痛くなる音が聞こえてきたので、その時初めて彼女はこの建物は水の近くに建っていたのかと、場違いな事を考えていた。
呆然と、綽然と――。
…と、微妙な所で後編へ…;意味不明すぎてすみません。
あとがきで説明しないと分からないという駄作の見本(駄目じゃん)。
「僕も、そんな愚かな人間の1人なんだけどね」
「僕は2度も同じ過ちを繰り返してしまった」
「たとえ違う僕が彼女と会ったとしても」
から感じ取れるように、フィーアも実は人造人間です。好きだった相手が亡くなり、彼女を生き返らそうと人造人間をつくり始めるのですが、まずは自分をモデルにしてつくり、それの成功作の1つ。本物がどうしているかは一切不明。どこか違う所で研究している可能性あり。
で、色々研究してやっとの思いで完成させたのが、今回の主人公。そして最後に彼女がフィーアと一緒に生きていた頃の記憶を思い出せたら完成なのですが、それの1番手っ取り早い方法が名前。だからフィーアは名前を彼女自身につけさせたのですが、結局は、彼女には彼女の時間があり、想い人と共にすごした時間を取り戻す事はできないという真実に耐え切れず研究室の窓から海へ投身する。
ちなみに彼女が伝えたい事があると言った時に反応したのは、名前を言う事に期待したからです。
そして何故彼女が思い出せるフィーアの笑みが寂しそうな笑みかというと、今まで浮かべた笑みの中でつくっていなかったのはそれだけで、そのあまりの自然さに今まで記憶してきた笑みが消されてしまった…という感じ。
……こんな感じのつもり。つもりじゃ駄目なんだけどね(溜息)。
05年8月25日