・年表
時代元号西暦月日 
 不詳   「石坐の神」が崇拝され始める
平安延暦13年 794?   平安京遷都に際し王城鎮護の目的で北岩蔵ができ一切経が埋められる
元慶4年 880 10/13 石坐の神(現・山住神社)が「従五位下」になる 『日本三代実録』
天禄2年 971 4/2 大雲寺の建立 東側に石座明神を勧請する
長徳3年 997   大雲寺の鎮守石座明神に七明神を勧請し、八所明神社とする
鎌倉文正2年 1467   実相院が、この年に応仁の戦火を避け大雲寺境内の現在地にくる
室町文明17年 1485 9/15 近衛政家が実相院の藪にて、当社の祭礼を見物
天文15年 1546 10/29 細川氏と山本氏の抗争 神社が焼ける
桃山天正2年 1574   神社本殿の西殿、東殿ができる
天正20年 1592   神社再建 八所明神の擬宝珠に天正二十年二月の銘
3月 八所明神に四神を加え十二明神も祀る(1593年天皇家の御料となるものの村はほぼ自立か)
江戸慶長19年 1614 12月 八所・十二所明神社前 灯籠奉納
元禄3年 1690 3/27 大雲寺本尊の開帳 四ヶ月間(参拝人相手の茶屋114軒)これ以降多くの参詣人が常に集まる
元禄11年 1698   権少僧都 恕融『大雲寺堂社旧跡纂要』編纂
元禄12年 1699 9/15 「相撲」、宮座前で東西「松明」燃やす 大雲寺力者棟梁の差配で「神輿」が『旅殿』(石坐神社(現・山住神社))まで行く
宝永8年 1711   石坐明神 手洗鉢奉納
享保6年 1721   八所・十二所明神社 大鳥居奉納
元文4年 1740 9/16 ~明治初年廃止まで毎年御神札・神饌を皇室へ献納
寛保 3年 1743 6月 八所・十二所大明神、石座大明神 共に神主ハ百姓一和尚輪番持 9/9夜:松明、神利太々幾シリタタキ 9/15:御輿弐社、鉾五本、相撲(片岡(与)家文書)
宝暦2年 1752   石坐明神(現・山住神社) 鳥居奉納
明和3年 1766   八所・十二所明神社 社殿改造
天明3年 1783   十二所明神社「鷺之図掲額」奉納
享和2年 1802   中在地町 吹散作成
文化2年 1805   岩倉村から幕府の寺社奉行宛文書に、現・山住神社を「氏神御旅 石座大明神」と記す
天保2年 1831   八所・十二所明神社 拝殿再建
天保3年 1832 9/9 祭り、「岩倉尻たたき祭」の記録あり
9/15 祭り、「大松明・相撲・走馬」の記録あり
弘化2年 1845   神輿二基修復料寄進帳が現存
弘化3年 1846   西河原町 剣鉾作成
嘉永2年 1849   八所・十二所明神社拝殿「鷺之図掲額」奉納 西河原町 吹散作成
嘉永5年 1852   十二所明神社神輿新調 9月下在地町 剣鉾新調
安政4年 1857   上蔵町 剣鉾作成
明治 明治初期     社殿のある八所・十二所大明神を村社「石座神社」、石座大明神を御旅所「山住神社」とする
明治4年 1871 1/5 寺社領上知令布告 大雲寺・実相院は寺領のほとんどを明治政府に納める 門跡制度も廃止となる
明治6年 1873 9/15 祭り、旧暦9月15日の実施日を新暦10月23日に変更
明治10年 1877   一言神社を村松の正水山から遷座
明治11年 1878   福善社を石座神社裏の「万年岡」から遷座
昭和昭和4年 1929 1/23 国有林「万年岡」、当社へ払下げ許可
昭和11年 1936   子ども神輿新調
平成平成7年 1995 1/23 祭り、実施日を10月23日に近い土曜日に変更
平成8年 1996   竹田 源が『大雲寺堂社旧跡纂要』の現代語訳を著す

※ 1802年の中在地町吹散作成、1846年の西河原町剣鉾作成などは、そういう事象があり「(吹散、剣鉾を)始めて作った」の意味ではありません。1743年にはすでに御輿弐社、鉾五本が祭礼に参加しています。
※ 寛保3年(1743)9月15日の『北山石座名神祭』(日次ひなみ紀事)には、「五和尚ごばんじょう」とよばれる村の長老5名のうちから「氏神神主壱人 御旅所神主壱人 壱ケ年ツツ百姓輪番勤」(「岩倉村差出明細帳」片岡与吉家文書)と神主が選ばれて祭祀を務め、とある。
 これについて、現在の長谷八幡宮でも上記と同様で一和尚は6~7町ある中でトップクラスの上役です。
 現在、岩倉の各町内の中に郷頭の下に上五人がありあります。上五人をまた上から一和尚、二和尚としていくと、何かすっきりしない違和感を感じます。一和尚の理解が間違っていましたか。昼神事で、「御幣持ち」の後を各町内の「一和尚」が歩くのは、「役を離れた」長老が歩くと考えれば別におかしくないのですが。