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(6) Quick System の顛末
・ものを「普及させる」には、「大変な努力」と「理解者・協力者」が必要です。私が痛感したのは、自ら開発したQuick System を職場へ
「普及させることの難さ」と「挫折」でした。このことは、会社等で製品開発をしておられる技術屋さんにも通じるところがあると思われます。潤沢な資金があればCMに流すなど手がありますが、零細な会社などではそうも行かないことだと思います。
【開発依頼をしておいて】
当初、開発依頼があり、私自身なんとかR職場を改善できないかという思いもあり始めたのです(1997年8月中旬より)。個人的な欲はなかったといえば、嘘になります。「注目されたい、こういう変わり種もいる」というアピールもあったでしょう。まあ、にわかに開発した「
海の物とも山の物ともわからぬもの」、
危なくて組織として利用する方がおかしいのかもしれません。それでも、システムを稼働し始めたO職場で、SODEOKA氏とHUTAMATA氏にご協力していただき、Quick System 試行的な運用ができました(1997年10月)。
今から思えば、よくもまあ賛同を得られたもの、私の熱意がそんなにあったのか、不思議に思えます。『開発依頼をしておいて、使用しないのは何事だ』に近い言葉を吐き捨てたと思います。その当時のものは『未開発ソフト』で、そこまで言えたことに恥ずかしさを隠しきれません。若かったのですね。会社によっては、ゴネる・いうこと聞かない社員は即首になったでしょうか。
【私の自信はどこから】
この自信はどこから来るのか。少し振り返ります。この前のK職場(1985年3月)で、BASIC言語で組んだものがアチーブ処理で活用され一定の評価があったことがあげられます。当時の部長は『ウチだけがパソコン処理している』と勝ち誇ったように自慢してくれました。またそのために、PC-8801mkⅡを購入してくれました。それは、数百件のデータを入力し、高得点順に表示するという単純なものでした。

それに、このK職場にはNISHIMURA氏がおられ、進路管理プログラムが運用されていました。この部に配属され、BASIC言語で手のかかる作業をいとも簡単にできること、強烈な刺激を得たのを覚えています。このことがなければ、今後の「二足のわらじ」を履くこともなかったのです。1990年3月、子供達を東京ディズニーランドへ連れて行き、その足でサザンパシフィック店に現れ、
Quick Silver コンパイラを購入しています。xBASE言語ならやっていけると確信したのでしょうか。
このK職場には、同期に着任したYOSIHARA氏もおられました。彼は、よく私に声をかけ、大阪のビジネスショーなどへ誘い、今の「パソコンの世界」を紹介してくれました。彼はMac派でしたが、根からコンピュータ好きでした。
いずれの方も本分をええ加減にした人はいません。「自由な気風が人を育てる」のです。人が人間として育つにはアソビ(緩衝部分)が必要なのです。このK職場以降、毎日忙しい日を送ることとなるのです。
1983年12月12日:大阪ニノミヤムセンにてPC-8801を購入
1984年 4月 :K職場へ転勤
1985年 3月:職場がPC-8801mkⅡ購入、BASIC言語によるアチーブ処理
1986年11月28日:パソコンフェア(於 大阪城ホ-ル)行き
1986年12月15日:大阪パンドラにてソフト(Turbo pascal 3.0)借りる
1987年 7月 4日:大阪パソコンショー行き
1988年 2月 1日:パソコン通信始める PC-VAN(NEC 1986年4月開始)登録
Sky Free お医者さんが作った無料通信ソフトで遊ぶ
1988年 6月10日:大阪ビジネスショー(システムイン大阪 中埠頭)行き
1989年 1月28日:コンピュータ言語 Turbo C 購入
1989~1991年頃:
師匠NISHIMURA氏に刺激を受ける
1990年 3月29日:
Quick Silver 1.5J コンパイラの購入(※1)
1992年 8月15日:PC-98NC (中古、1991年10月発売 世界初カラー液晶) 購入
(・1993年 3月 3日:dBXL/Quick Silver 1.5 の本あり(初版2第刷)
1993年 8月 9日:PC-9821Ne 購入、同月21日 DOS/V第一号機を購入
1993年11月29日:DOS版のSKP進路管理ソフトをNifty Serveにあげる
1994年 9月28日:SKPソフト「Vectorの雑誌ネットピア11月号記載」の報告
1995年 4月 :R職場へ転勤
1995年11月23日:★Windows95 日本語版リリース
(・1996年 6月 1日:
Arago for Windows 本 サザンパシフィック社初版:発行人 片山 宏 )
1997年 3月24日:自宅、Windows95上でLAN接続(HUBを用い3台接続)
1997年 4月23日:自宅、WindowsNT4.0 購入し、接続確認
1997年 7月25日:子供を連れ大阪電気街へ
1997年 8月中旬:Quick System の作成に取り組む
1997年10月 :
Quick System(DOS版) の試行
1997年12月26日:MN128-SOHO(ルータを大衆化した先駆)の購入
1998年 1月 7日:MN128 (ISDN) にて家庭内LANに成功
1998年 3月28日:
Arago の開発はサザンパシフィック社から カパルジャパン社に(※2)
1998年 7月 6日:Arago for Windows v.4.5 Rev1.0が届く
1998年 8月 8日:dBXL ユーザー会 片山氏に取り組みの報告
1999年 5月8日:自宅、RedHat Linuxサーバーの試行(WIN98 PCとつなぐ)
サーバーでは良いワープロ(辞書機能)はまだまだ
1999年 8月19日:京都 inet(HP容量500KB)で、ホームページの開設
2000年 4月 :O職場へ転勤
2001年 3月 :
Quick System(Windows版)の試行
2001年 7月10日:Arago for Windows v.6.0が届く
2001年10月25日:★Windows Xp リリース
2002年11月 1日:自宅、eo100Mインターネット回線が通る
2003年10月12日:Quick System シュアウェアとしてVectorに登録
〃 :HP『ちょっとデータベース』に掲示板をつくる
2005年 2月 3日:Arago dBXL,Professional for Windows v6.5 Rev2.0 届く
2005年 5月 :Arago dBXL,Professional for Windows v6.5 Rev2.21 届く
2013年12月26日:Quick System の最終更新日
(私の手帳による。( )は、アプリのバージョンup歴を知るため、アプリのマニュアルである書籍をあげておく)
さて、私の自信がどこから来るのかをまとめます。私の処女作、『SKP進路管理ソフト』をNifty Serveにあげ、これがVectorの、数百件の作品うちの1つに採用されただけの話。Vectorとは、いまでは株式上場の”ネットのソフトデパート”です。その作品は、NISHIMURA氏の刺激を受け、xBASE言語で私自らプログラミングしたものでした。
強烈な刺激を受けたとは、データとシステムを別にするという考え方です。これまで私にはその考えがなく、1つのプログラムに抱え込むものでした。上であげたアチーブ処理もそういうものでした。まだ、考えが浅い初心者であることは、もちろんわかっていましたが、
NISHIMURA氏のものに「プロ級のものをそこに発見し」衝撃を受けたのです。それに、「ソート」の降順・昇順をはじめ、xBASE言語なら難しい処理が難なくこなせることを知りました。(当時はやりのボーランド社のTurbo Pascal、Turbo Cも考えましたが、その比ではありません、簡潔にできるのです。また、C言語などに取り組むと、考えることが多すぎて「間違いなく頭が変に」になってしまうでしょう。)
ここを「衝撃」と捉えるか「スルーすしてしまう」かで、その後の人生が変わってしまったようです。Vectorに採用された作品は、そういう意味で師匠から学んだ(より正確には師匠を見て育った)模倣品といっても過言でないでしょう。プログラムソースを見たわけではありません。自分が作ったものが評価され、そこに、「何かを発見した」というのでしょう。これだけの理由で、
この人を動かす何かが起こったのです。これが自信に繋がったとは、恐ろしいではありませんか。パソコンの使い方としては、まだスタンドアローンです。この人が、この道をさらに歩むとすれば、海千山千があります。今後どのように切り抜けていくのでしょうか。
【Quick System の開発】
Quick System の開発は、そのR職場の開発依頼がきっかけで、次のO職場で実を結びます。2000年4月転勤、その2年目(2001年)で、「そういう便利な物があるのか」とOKAMOTO氏に賛同を得られ、
年次本格稼働となっていきます。
一方、開発製品はdBASEⅡ、ⅢからdBXL(Quick Silverはこれらのコンパイラです)に、さらに
Windows 対応の Arago for Windows (※5)(コンパイラ含む) になりました。私の学習(精進)もおよそ10年になり、開発製品の半分くらいは理解できるようになったでしょうか。試行錯誤の中で、本格稼働のQuick System はネットワーク対応になっていきます。
つまり、端末にはシステムだけでデータを置かず、サーバーにアクセスし、サーバーでデータの一元管理をするというもの。これには、いまHTMLをいじっている現在、画面遷移後のポインターの位置に悩んでいますが、同様の悩みを長く引っ張っていたような記憶があります。HTMLとxBASEでは根本的に違うのです。
どうして、
カリスマOKAMOTO氏に賛同を得られたのか、いまでもわかりません。ただ実務的作業が原始的なものであったことは確かです。O職場は5年間(2005年3月まで)いましたが、その間になんと3台の組み立てPCをOKAMOTO氏に作ってあげています。信頼関係ができあがっていたのでしょう。私が妻の実家の田畑を手伝っている共通点があったためでしょうか。私より半周りほど年上で、「ぼそぼそと喋り、ネチこさで有名で、ユーモアと説得力に富み、エネルギッシュな農家のおっちゃん」でした。Quick System は、私が転職して去った後も含め、この「おっちゃん」の後任で、再任用のNISHIMURA氏(私の師匠との再会です)とNAKADE氏で、お陰でおよそ10年間ほど稼働していたようです。
「Quick System の付随システム」(SKPの改良版)もサポートしていましたが、転勤してその稼働状況が我が身にわからず。結局、いい加減になり、大変な迷惑をおかけした事、風の噂で知りました。特に
NAKADE氏には、Quick System の初期のバグ取りから付随システムに至るまで、ユーザを一手に引き受け、その都度起こるバグ症状をことごとく連絡いただき、大変なご苦労・ご迷惑をおかけしました。
聞くところによりますと、同様の管理システムを外注し、上からのお達しでその
外注システムをすべての職場で利用するよう試行(2007年?から)、その後に強制しましたが、初期バグによりシステムがダウン、利用を中止したという話があります。再稼働に3~4年かかったでしょうか。私のシステムを併用していたO職場だけが、その難を逃れたといいます。
Quick System にも欠陥がありました。ID、PassWord の設定はなされていますが、別口のエクスプローラでサーバーに入り、あちこち探せばデータに辿り着ける。いわば、データを横取りされるところ。この点、データフィルはdBASEファイルでマイナーなファイルであり、名前と成績が別ファイルで構成され、コードでリンクされているので、よほどの「盗み混乱させる意図がなければ」できないと判断しました。それに、データをLinuxサーバーに置けば解決されると思っていました。正直Linuxまで習得するに至っていませんでしたが。(Linuxのこと申し置きはしませんでした)
現在、あちこちの職場で起動しているもの(2010年以降か)は、先に述べた現場を混乱させ再起した外注ソフトで、Web上で入力しデータをクラウド上におくものです。相当な費用を要したし、その後も
毎年システムサポートに費用は必要でしょう。結果、
Quick System は、これに駆逐されてしまったのです。
システムを安定機能させるには、「つくること、それ以上にバグ取りが大変時間がかかる」ものです。バグ取りとともにシステムソフトは充実し成長するものです。金を出せば事が解決するというやり方、現場の意見を聞かないやり方、現場が混乱するのは目に見えています。政府が開発依頼をしバグ発生で思うように行かなかった、
新コロ発生源特定ソフト。たびたびバグを繰り返しながらも成長?する
ポケモンGOソフト。「どうすれば普及する、使ってもらえるか」、十分な検討を必要とする教訓です。
当時の私の日々は、
妻子を顧みず(父親に遊んでもらえないから、子供をボーイスカウトへ入れたと)、もっぱら家で大筋を描き、職場ではもっぱらバグ取りに専念したものです。「描き」としたのは、白紙のキャンバスに、「あっちへいけば行き止まり、そこを左折して、と、、京都府じゅうの」道路地図を描いたようなものだからです。
人は汗を流せば必ず協力者も現れます。当初はSODEOKA氏であり、その後の転勤先で、OKAMOTO氏とNAKADE氏でした。そして、NAKADE氏と一緒にホローしていただいたNISHIMURA氏(私の師匠と呼べる方)、みなさんが、私を信じ「これから生まれる海の物とも山の物ともわからない代物が職場を救う」と、職場のために支えていただいた方々です。その時、私が一番、輝いていたときでした。
最後の転勤先、M職場の噂を知った方で、私が金銭で動いているとした方もおられました。そのことも当時は耳に聞こえませんでした。考える余裕がなかったのが事実です。M職場にいても、
まだO職場のサポートをやっていました。不満なことに、M職場では業者ソフトを導入し使用していました。『無料ソフトをもっているのに』と
悶々とした毎日でした。書籍を出版することが副職として認められ、ソフトを作り上げることが駄目。その辺の整合性も変な話だ、と考えたことはありました。ともかく目立たないところで頑張ったのもです。世の技術者が「自分の生かされるところで働きたい」とすること、私も共感するところがありました。
10年では無理ですが、だれしも同じ事に20年も打ち込めば、プロ(Professional、Specialist)になれます。その筋のプロ、憚り「職人(Artisan、Craftsman)」になれます。自称その筋の「プロ」でなく「職人」なら認めてくれるかと思いますが、「なかなか」。いや、その筋の人。どうしたら他の職場でも、その筋の人が作った、「無料ソフト」として認めてもらえるか(笑い)。
職場が変わればまた一からです。すでに業者ソフトを利用し安定した運用がなされていれば、私の入るところは御座いません。
M職場では、業者ソフトが2008年まで稼働し、2009年あたりから上記の外注ソフトの使用となりました。それまで、M職場の予算枠で毎年十数万のサポート費用を業者に支払っていたことになります。たぶん職場のトップは、また外注ソフトの稼働があると聞かされていたのでしょう。
「異人・変人」には、そのときの葛藤を自分なりにかき消そうとしますが。なかなか自分の中で昇華しきれません。単純にいえば「飼い殺し」で、アピールもしなくて「評価されたい」というムチャクチャな願望だけが残ります。
こんなとき、悶々と自分のウチに抱え込まず、形を変え、「業者ソフトはここがよいがここは駄目」「外注ソフトは、、」等の、「
懐の深さ」と「
次に繋がる積極性」が必要であったと思います。その時の取り巻く状況が悪く、精神的に解消されないものとしても。唯一「退職後の楽しみにするか」で、気持ちを静め、そうした矢先の息子の死、、
技術屋が、ときどき新聞沙汰になるのも「そういった」ところがあるのでしょう。隣国にまで、「身売り」に行くのは、国家として考えなければいけません。(お偉い先生方を技術屋よばわりするのは申し訳ございません)
【Quick System の終焉】
さて、また開発の話に戻ります。私に、「退職後はこれで
小遣い稼ぎをするか」という淡い気持ちが駄目だったんでしょう。罰が当たったんでしょう。2003年10月12日、Quick System をVectorに登録しています。府下は無料、他府県は開発協力としてシュアウェア。
しかし、
いま考えれば自己矛盾を起こしています。システムを支えるには、これまでNAKADE氏やNISHIMURA氏がそうでだったような、
親切・丁寧なサポートを必要とします。ソフトのみをVectorにあげても、売れるはずはありません(たった2件)。それに、添付サンプルデータの年度更新をしなければ起動しません(自動更新機能を付けるべきでした)。その上、システム保全のために、サーバーをLinuxに置く等、セキュリティー面の対策を必要としました。
上部組織では、私のような職場の軽減のためにはじめたものを本分を尽くすようにと、外注システムを考え始めます。私としても本分を忘れたときは一時もありません。私がしんどい思いをすれば、皆さんが助かるのです。あちこちの職場で、私のような「好き者」がおられ、同様な開発に取り組んでいました。彼らが、どこまで進んでいたかとか連携を図ったことはありません。こういう「好き者」を集め、開発チームを作れば税金も無駄でないだろうといい漏らしたことありました。
その頃の私には、「いまのネットワークの手法をもってすれば、成績管理が、病院での事務処理、比較的小さな会社の事務処理、すべて同じだ」と意気込んでいました。そのためバーコード処理も考え、試行していました。気持ちでは会社を起業する勢いがありました。考えが甘くもありました。
2003年頃でしょうか、NAKADE氏に、『プログラムのソースを公開して』と依頼されましたが、先の「出来心」があったためお断りをしました。そこで共同開発でもすればどうなったものでしょうか。
いや、結果的には、開発言語(xBASE言語) のサポートが得られなく、
Quick System の開発はやむなく中止せざる終えなくなります。言語の開発者である
片山氏が東北大震災(2011年3月11日)の折、
放射能漏れを避け台湾へ逃れたからです。その後、音沙汰なしです。Windowsでいえば7(セブン)辺りでしょうか、それ以降のサポートがなくなりました。
「親亀が転べば子亀も転ぶ!」。Microsoft が転べば「一太郎」開発のジャストシステムも転ぶといったところです。ただ、 Windowsが Xp→ Vista → 7→ 8→ 10→ 11とバージョンupしても、Arago for Windows が基本的なコマンドで記されているため基本的な動作はするようです。だが、システム運用としては危ないです。よって、いまでは
Quick System が死に体になりました。このサイトの隅に眠っています。

いまでも
片山氏(※4)の、Windows 11対応のサポ-トが得られれば、錆びつつある頭を磨き上げ、 Quick System の復活はあるでしょうか(?)、残念です。これにて、 Quick System の開発は、2013年12月で停止(永続停止)しました。
以上、グダグダとくだらない話、お付き合い願いまして、ありがとうございます。どうやら、私の複雑な「パソコン珍道中」を披露しまして、私の「凝り固まった気持ち」が、これで昇華していくようです。人は人間、「人の間で」暮らしてゆきます。人と人が「ぶつかりながら」生活してゆきます。これまで自分が生きてきた道、やはり「
皆様に支えられてきた」ことを自覚し感謝せねばならない想いです。異業種な職場であっても、同様な思いをもっておられる方の参考になればありがたいです。
(敬称省略。匿名でサイトを運営しているので、片山氏以外は名前を伏せ(?)ました。またすべて方を「氏」に統一しました)
[※1] dBASEⅡ、Ⅲ のコンパイラであるQuick Silver(WORDTECH SYSREMS)が有名であり、dBASEⅡ、Ⅲの互換性のあるdBXLもコンパイル可能でした。サザンパシフィツクで販売していました。私は、これを120,664円で購入しました(ウフェ~)。
[※2] 「ボーランド(※3)のdBASE互換のdbXLはARAGOへと開発が移るが、開発拠点も米国のSouthern Pacific Computer Products U.S.A.に移る。1997年末,国内販売元のサザンパシフィックが解散手続きを行う(販売元事実上の倒産)。ARAGO for Windowsの国内総代理店が3月22日,カパルジャパン(本社東京)に決定し、販売ならびに業務アプリケーション開発などの請負業務を代行する」と1998.3.28の記事がある。
[※3] ボーランド社とは、1990年代にTurbo C やTurbo Pascalをなどのソフトウェア開発ツールを販売していた会社です。マイクロソフトとの激しい争いで2000年代前半に社名変更等を繰り返します。2009年5月6日、マイクロフォーカスによる買収の合意が発表され、同社の一部門となったようです。(★あ~、ボーランド社に与して戦ったものの、先細りだったという事ですね!)
[※4] 片山氏はカパルジャパンで開発を担当されたようだ。上記の写真、片山氏は親の介護の途中骨折されたとか、ユーザ会に「遅れてすいません」といって入ってこられました。
[※5] はじめ、xBASEの世界では、dBASEⅡ、Ⅲ をQuick Silverでコンパイルしていましただが、dBASEⅣまで出たでしょうか、それ以降すたれ、dBXLが主流(?)になります。これでプログラミングしたものをQuick Silverでコンパイル(マシン語に変換)していました。dBXLの後継に、ARAGO dbXLというのが出ます。これがさっぱり役立たず。次に ARAGO dbXL for Windows(ARAGO for Windows)が出ますが、なかなか安定せず、バグも多い。やっとのことv4.5とv6.5 Rev2.0 で安定しました。 ARAGO for Windows の最終版は、Professional UTF-8(多言語対応) v7.0 R1.2 (ARAGO I もありました )になります。
( dBASEⅡ、Ⅲ )
dBXL Quick Silver でコンパイル
↓
ARAGO Professional Ver 2.6Jb(DOS版:DBXL+QuickSilver セット)
↓
ARAGO for Windows Professional 、 ARAGO for Internet
私はQuick Silverの購入が始めで、次にdBXL以降、バージョンupのたびにすべてを購入している忠実なユーザでした。たいそうな額を貢ぎました。「何とか」わかりだしたのが10年で、やっと雲の中を抜け出した思いでした。