黄母衣衆の構成員の調査
★番号は知名度がある順番だろうか。この中で大名に転出している人もいるし、所領没収切腹している人もいる。青木一重、戸田勝成と松原五郎兵衛は共に丹羽長秀の配下で長秀が死去すると丹羽家を離れる。五郎兵衛は成政へ、一重は秀吉へ仕え、黄母衣衆にて再度巡り会う。
1.戸田勝隆(三郎四郎):
はじめ丹羽長秀に仕える。天正10年頃、母衣改選のとき黄母衣衆で筆頭。文禄元年(1592)4月、文禄の役に出征。文禄3年頃、在陣中に発病、帰路の途中で病死。秀吉の蔵入地7万石の代官、慶長元年頃に秀吉から1万石を受け大名に。弟の
戸田勝成
は丹羽長秀の越前国で2万5,000石。家臣の大量離脱を機に豊臣秀吉の家臣。関ヶ原で戦死。
2.三好丹後守(房一):
文禄・慶長の役では肥前名護屋に出陣。秀吉死後は徳川家康に仕え、関ヶ原の戦いで東軍に属す(この時、1万石の知行『廃絶録』)。慶長19年(1614)駿府において死去。
3.井上道勝(忠右衛門尉) :
長井道利(父または兄弟)と共に斎藤道三に仕える。斎藤氏滅亡後は長井から井上姓に改め、豊臣秀吉に仕え、黄母衣衆。池田輝政に召し出され、度々御前に出て軍物語をし、98歳で病死。嫡男の長井新太郎は本能寺の変で先立って死去。
4.津田信任:
4.津田信任:天正元年(1573)に黄母衣衆。3万5000石の山城国三牧城主。伏見醍醐、山科における洛外千人斬り事件の犯人として逮捕される。家督は弟・信成が1万3000石(減封)で相続。
5.郡(こおり)宗保:
文禄・慶長の役では肥前国名護屋で兵糧船調査に携わった。関ヶ原の戦いで西軍として大津城の戦いに従軍。大坂の陣では旗奉行。5月7日に豊臣軍の敗戦のなか自害した。
6.松原五郎兵衛:
近江国松原出身。天正11年(1583)5月、
丹羽長秀の家臣5000石
。家臣の大量離脱のとき丹羽家を離れる。成政長女娶る。天正15年12月、肥後国一揆平定で奮戦(佐々家の家老)。天正16年佐々成政切腹の後、一族を肥後国より京へ連れ帰る。文禄2年(1593)に肥前国名護屋城三之丸御門番衆・御馬廻衆。文禄4年秀吉より摂津国で六百石。黄母衣衆の一員になる。1600年8月末、娘婿・佐々清蔵の子・(松原重勝)を養子に迎える。その後、行方知れず。
7.野々村雅春(吉保→雅春):
野々村三十郎の弟。三十郎は斎藤・織田家に仕え、最後は旧友の佐々成政のために1584年の越中の戦いで討死した人物。吉安は豊臣秀吉に仕えた黄母衣衆の一人で小田原征伐には諸城を攻略。秀吉死後、秀頼に仕え、大坂七手組の1人。3,000石の知行を賜る。大坂冬の陣では、大坂城惣構森村口を守備。夏の陣では兵1,200を率いて参戦。二の丸と本丸間の石垣で自害して果てたという(『大坂御陣覚書』)。七手組。
8.長原雲沢軒:不明
9.尾藤知宣:
天正元年、近江国長浜で250貫で、黄母衣衆に列す。草創期の秀吉家中において古参の家臣。軍事に通じていた。天正14年に讃岐国宇多津5万石。天正15年、秀長の下で3,000名を率いて九州征伐に従軍も、秀長に慎重論を訴えて援軍に赴かず。秀吉が怒り、所領を没収、追放。その後に処刑される(天正18年7月)。
10.青木一重:
天正13年に丹羽長秀が死後、羽柴秀吉の使番。後に黄母衣衆。摂津国豊島郡内に1万石を領し麻田城主(麻田陣屋)。天正15年九州戦役に従軍。天正16年に七手組の組頭の1人。大坂冬の陣に城の一角を守備。大坂夏の陣は不参加。秀頼からの礼謝使節として家康の許へ派遣されたところ、大坂には戻らず、剃髪して隠棲した。二条城に召し出され、家康に再び仕える。寛永5年1628年8月9日没。享年78。
11.伊東長実:
大母衣衆。黄母衣衆24人の一人に。天正19年(1591)に備中川辺に1万300石で大名に。文禄・慶長の役では肥前国名護屋に駐屯。慶長5年(1600)6月16日、会津征伐に向かう徳川家康にいち早く石田三成の挙兵を知らせる。大坂の陣では豊臣方大坂七手組頭の一人として家康に敵対するものの、青木一重と共に大名として存続。七手組。生誕永禄3年(1560)、寛永6年(1629)2月17日没、享年70。
12.毛利勝信:
古参の家臣で、黄母衣七騎衆の1人。肥後国人一揆では首謀者の隈部親安や甲斐親英の鎮圧の功をあげ、天正15年、豊前国の2郡、小倉6万石。この際に、秀吉より森姓を毛利姓に改めるように命じられ、毛利壱岐守を称す。文禄元年、秀吉による朝鮮出兵では四番隊の長。関ヶ原の戦いでは石田三成方につく。勝信・勝永は戦後改易されて、肥後国へ追放される。慶長16年(1611)5月6日没。
13.一柳可遊:
天正19年、伊勢国桑名の領主。文禄の役にも従軍するが、文禄4年(1595)の豊臣秀次事件に連座して徳川家康に預けられ切腹。
14.速水守久:
速水氏は近江国浅井郡速水城を拠点とする国人。当初は浅井氏に仕えた。お茶々らの家臣として羽柴秀吉に仕え、近習組頭、黄母衣衆。文禄・慶長の役では肥前国名護屋城本丸広間番衆六番組頭。奉行として検地などにも活躍し、1万5000石を拝領。 後に4万石。大坂夏の陣では、千姫教育係であった守久は千姫を無事に徳川陣屋に送り届ける。自害する秀頼の介錯(毛利勝永とする説も)を務め殉死した。七手組。生誕元亀元年(1570)、慶長20年5月8日没46才。
15.赤美平七郎:不明
16.中島氏種:
豊臣家大坂七手組頭。禄高2万1712石。秀吉の勢力拡大に従って各地を転戦。秀吉の死後も豊臣家に仕える。慶長5年(1600)関ヶ原の戦い、石田三成の陣に属して戦う。慶長19年(1615)大坂夏の陣、兵2,000を率い奮戦するも落城を待たず自刃。七手組。子は河内国茨田郡岡新町村に帰農、江戸期に代々中島九右衛門を名乗り、近隣屈指の豪農として存続。
17.服部一忠:
尾張国の出身。織田信長の馬廻。永禄3年の桶狭間の戦いに参戦。本能寺の変、弟の小藤太が戦死。黄母衣衆の一員となる。天正19年(1591)伊勢国一志郡に3万5000石。羽柴秀次に付けられた。文禄の役において漢城に進軍。文禄4年(1595)、豊臣秀次失脚に連座して所領を没収され切腹。
18.山田久三郎 :不明
19.荒川助八郎 :不明
20.山田忠兵衛尉:不明
21.長坂三十郎 :不明
22.近藤九介 :不明
23.伊木遠雄:
天正11年(1583)、17歳で臨んだ賤ヶ岳の戦いで敵将(半七)を討ち黄母衣衆の一人に。文禄・慶長の役では肥前名護屋城三ノ丸御番衆の御馬廻。慶長4年に河内国志紀郡に300石。関ヶ原の戦いでは西軍に属し浪人となる。慶長19年大坂の陣で真田信繁の軍監。大坂冬の陣では真田幸昌と共に軍功を挙げる。大坂夏の陣、天王寺・岡山の戦いで討死か行方不明。生誕永禄10年(1567)、慶長20年(1615)5月7日没か。享年48才か。
24.石尾下野守(治一) :
文禄元年、肥前名護屋城に駐屯。文禄3年(1594)、伏見城普請の奉行。普請奉行六人の一人。関ヶ原の戦いでは西軍に与して失領。慶長19年の大坂冬の陣で、有馬豊氏の軍勢に加勢。慶長20年より徳川秀忠に仕え、5月の大坂夏の陣で本多忠純隊に加わって従軍。荒木姓から石尾姓に改める。弘治3年(1557)誕生、寛永8(1631)年7月26日没、享年75。
★集計:黄母衣衆名前のみ7名 (29.2%)/24名
関ヶ原の戦い西軍:5名 東軍:2名 不明:10名 全体:17名(名前のみ7名)