新約聖書を知っていますか


阿刀田高の「知っていますか」シリーズ。新潮文庫。キリスト教について、特にイエスの教えについて、阿刀田流の解説を読み進めてみたくなって手に取った。読んでみて、キリスト教を理解するにあたって、これほど分かりやすい本はないと思った。

いわゆる教科書的な知識の詰め込み型の本ではない。また、イエスの生涯的な聖書物語でもない。10年の歳月をかけて書かれたこの本は、信者ではない立場から疑問に思えることを、ミステリーの謎を解くように解釈して説明してくれている。
新約聖書を知っていますか
たとえば新約聖書は、冒頭で、イエスの父であるヨセフについて、アブラハムからダビデを経て、正統なユダヤの王家の血を受け継ぐものとしているが、その妻のマリアが聖霊によって身ごもったのなら、夫の血筋はまるで関係ないのでは? という疑問。それを上手く説明している解説書も見当たらないという不思議。では、受胎告知とはいったいどういう意味を持つのか? それを信者ではない立場から推論している。実に、わかりやすい。

他にも、
イエスの奇蹟はどのように行われたのか。
イエスの教えの中核は何か。
イエスはどのようにして復活したのか。
など、なるほどと納得できる。

それにしても、キリスト教について、あるいは新約聖書について何も知らないということを思い知らされた。ほんとうに何もしらなかったのが恥ずかしいくらいだ。西洋文化に触れるには、せめてこの本に書いてあることくらいは知っているべきだろう。あまりにも知らなかったので、以下の記述はいくらかでもキリスト教を知っている人には、当然と思うことなのかもしれない。

また、聖書に詳しくなったからといって信者になれるわけではない。いくら知識を深めても神を知ることはできない。むしろ知らない方が信仰心を抱きやすいのかもしれない。しかし、イエスの教えを知りたいと思う気持ちが先行する。阿刀田も、キリスト教を知識として理解してから信者になるという道筋もあっていいのではないか、と言う。

信仰をもたない阿刀田は、イエスが神の子であることを信じない。しかし、イエス自身が自分は神の子であると確信していたことは、想像できるとしている。そして神の子であることと、神の子であると固く信じることは、同じであるとして、イエスの言動を分析している。(『コーランを知っていますか』のマホメットについても同じ解釈。)

イエスの公的生活はわずか約2年半。しかも神の子であることを確信的に語り始めるのはエルサレムに入る直前のタボル山での変容以降のこと。だから阿刀田は「イエスは少しずつ神の子になったのではあるまいか」という。そのために、イエスは奇蹟を行う必要があり、イエスの奇蹟は自他ともにイエスが神の子であるためのプロセスであった。奇蹟を重ねることによって、イエスは自ら神の子であることを確信していくと説明している。

阿刀田は新約聖書はイエスの教えの中核は何か必ずしも明解には答えてくれないとしながらも、それは次の2つであるとして簡潔にまとめている。すなわち、神を愛せよ。そして、隣人を自分のように愛せよ。

イエスは、神がいかなるものかは語らない。疑いを持たずに神を信じなさいといい、その実践的な規範として、人にしてもらいたいと思うことは何でもあなたが人にしなさい、という。

何度も聞いてきた様な気がするが、こうしてまとめられると、いままで喉につまっていたものがストンと落ちたような気がした。神がどんなものかは知る必要がないのだ。そういうことだったのだ。

イエスは神の子であると確信しているが故に、復活を宣言して十字架に処せられる。それは自らが神の子であることの証明であった。

この本を読んでいると、イエスの復活は演出であるということが理解できる。阿刀田自身はそこまで書いていないのは、信者に配慮してだろう。しかし行間からはそれが読み取れる。だからイエスの最後の苦悩は、弟子たちが自らの復活をうまく演出することができるかどうかにあったのではないか、と思いたくなる。しかし、弟子たちは見事にイエスを復活させた。ここにイエスは神の子であることが実証され、キリスト教が誕生するのである。

うーん。そういうことを今まで考えもしなかったことが、不思議だ。言われてみればそう考えるしかないように思う。なのに、そう思わなかったのは、本当にイエスが復活したと思いたかったのかもしれない。それを信じている信者は幸せで、自分も信者になれば信じられるようになるのだろう、とかおもっていたのかもしれない。

イエスの亡きあと、ユダヤ教の一派として埋没しかねかったイエスの教えを論理的に示し、その言動の意味を神学に帰納させて「キリスト教」として布教したのはパウロである。キリスト教がイエスの復活を信じたところから発しているというのは小川国夫の文章で理解したが、キリスト教を世界宗教足らしめたパウロもまた、イエスの復活を信じた。

ユダヤ教パリサイ派としてキリスト教を迫害していたパウロが突然キリスト教の布教に熱心になったのはなぜか。パウロ自身がイエスの声を聞いたという確信があったからに他ならない。イエスの声を聞いて回心したことによって、イエスの直弟子と同じ位置づけになるということだ。と阿刀田はいう。

パウロが熱心なキリスト教伝道者になりえた秘密はここにあったということだ。パウロがイエスの声を聞いたのは、イエス亡きあと3〜5年後とされているが、イエスの教えを広めるべく教会を設立した直弟子たちは、パウロの回心を認めなければイエスの復活を認めないことになってしまうということだろう。キリスト教は、弟子たちがイエスの復活を信じたことによって成り立ったというのは、そういうことだったのだ。

パウロもどこかイエスに似ている。イエスが神の子であることを確信するのと同様に、パウロはイエスの復活を確信し、イエスから命を受けた直弟子だと固く信じたからこそ、熱心に布教できた。パウロが戒律主義を徹底的に批判し、神への愛が第一であると説いたことによって、キリスト教はキリスト教たりえたといえる。

もういちど、阿刀田がまとめたイエスの教えの核心部分を振り返ってみると、キリスト教が世界中に広まった理由がよくわかった。ひとつは、神がどんなものであるかを知る必要はなく神を愛すること。神は人間を愛して止まないので、神を愛することによって、きっと神はいいことをしてくれる。もうひとつは、愛する神が人間にしてくれるように、我々は人からしてもらいたいことを他人に行えということ。この行動規範にによって、すべての行いが神に通じることになる。

知識から信仰への道筋があるとしたら、このことを理解するのではなく、感じることなのだろう。そうなってみないことには分からないが、きっと偉大な絶対神の存在を感じるのではなく、愛を通して感じる内なる心の広がりが得られる様な気がする。


金 - 12 月 14, 2007   11:20 午後