ダヴィンチ・コードの小説と映画の関係とキリスト教


ダヴィンチ・コードのことをネットで調べていたら、ブログ「世に棲む日日 」に興味深い記事を見つけた。小説そのものがハリウッド映画的で、その土台には「インディ・ジョーンズ」があるという。

小説を読んだときに、映画的展開が面白いと感じたが、「世に棲む日日」では次のように書かれている。
小説の方法が映画的で、ドラマの場面展開が映画のシーンが連続するように構成されている。すぐにでも映画化されそうな作品であり、その場合は米国(ハリウッド)の映画になるだろう。映画化が意識されている。

私はそれが面白いとおもった。実際映画をみても違和感なく観ることができたものも、もともと原作自体が映画的だからとは思った。しかし、小説としての成熟度という点では、読者の好みの問題かもしれないといいながらも、未熟だと評していた。
面白いのだが、スリルもサスペンスもインテリジェンスもあるのだが、一気に読み上げるという具合にはならなかった。ワンクッションが入って、つまり頭の中で映画を上映して、その映像を前へ前へ動かして行かないといけない。言葉と表現の世界に没入する読み方にならないのである。文章に浸れない。作者が文章を読ませる手法に熟達していない。登場人物に歴史や宗教の背景を語らせるのではなく、作者が直に語って説明した方がよいのだ。

先日、中林先生から、英語の小説はサスペンスや推理ものが読みやすく、シドニー・ジョルダンなどはすっと読めると聞いた。しかし、内容的には物足りなく、翻訳本を読んだ人は、あっさりしすぎて深みがないと評したそうだ。『ダヴィンチ・コード』もその流れの中にあるということだろう。

ところで、この「世に棲む日日」、ダヴィンチ・コードをキリスト教学的、歴史学的に解説しているところが、とても興味深い。イエスについては、当時としては革命思想家であって、弟子たちがそれを布教するには、希釈して当時の社会と妥協を図る必要があったとしている。だから、
男女同権論者としてのイエスの思想像。最古の外典福音書(死海文書、ナグ・ハマディ文書)の発見と聖杯伝説研究の成果は、人間イエスの実像とイエスの革命思想を前面に浮かび上がらせて、現代のキリスト教世界に生きる人々の歴史認識に強烈に迫っている。いわばキリスト教の解体脱構築。それはイエスの復権であり、正統カトリック教会の歴史的相対化を意味する。

ところで「世に棲む日日」は「世に倦む日日 」のまちがいだった。


日 - 10 月 7, 2007   01:40 午後