現実主義者は信仰に導かれる?


ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』(亀山郁夫、光文社古典新訳文庫)に、アリョーシャの描写のところで語られる現実主義者と信仰の問題。

昨日は、神に救いを求めた? 現実主義者のボクが? でも奇跡は見ていない。
文庫版第一巻のp64より

 現実主義者が信仰にみちびかれるのは奇跡によってではない。
 (中略)
 現実主義者においては、信仰心は奇跡から生まれるのではなく、奇跡が信仰心から生まれるのだ。現実主義者がいったん信仰心を抱くと、彼はまさにみずからの現実主義にしたがって、必ずや奇跡を許容せざるを得なくなる。使徒トマスは自分の目で見るまではキリストの復活など信じないと言明したが、じっさいにイエスの姿を目にすると、「わが主よ、わが神よ!」と言ったという。彼を信じさせたのは、果たして奇跡だったろうか? いやおそらくそうではない。トマスが復活を信じたのは、ただ信じたいと願ったからにほかならず、あるいは「見るまでは信じない」と口にしたときすでに、心の奥底では復活を確信していたのだろう。

この下り、最近どこかで同じ様な話を読んだばかりとおもったら、『コーランを知っていますか』だった。もういちど全ページをめくり直してようやく発見した。それはマホメットの神の啓示に関する考察で、旧約聖書のパウロを引き合いに出してマホメットにも同様に啓示があったと考えるのが妥当というところ(p57)。パウロがイエスに会ったときの話に続いて、阿刀田高は次のように述べている。

 人間は他人を騙すことはできても自分を完全に騙すのはむつかしい。自分の体験は自分の中で生きている。理性的な人間なら、自分のことはことさらよく知っている。パウロはまちがいなく優れた理性の持ち主であり、そのパウロが生涯を通して命がけの布教に殉じえたのは、パウロの心の中に、
 ——自分はあそこでイエスの召命を受けた ——
 という固い確信があったからだろう。自分自身を顧みて、
 ——あれは幻視だったかもしれんな、体調もわるかったし——
 少しでも疑いがあったら、長い年月にわたって、あれほど執拗な努力は続けられなかったのではあるまいか。


聖書に詳しくないので、どちらも同じ話のように思えたのだが、トマスはイエスの十二使徒のひとりで、イエスの最初の復活の場に居合わせなかったので信じなかったという「不信のトマス」。パウロは、イエスの死から30年くらいたって、キリスト教を弾圧していたが旅の途中でイエスの声をきいて、以後熱心なキリスト教徒となった。あまりにも有名な「パウロの回心」らしいが、どちらも知らなかったボクはちょとはずかしい。

無神論者(=現実主義者)が信仰に導かれるときの例として、阿刀田高の解釈をかりれば、『カラマーゾフの兄弟』ではトマスよりパウロの話を引用したほうが適切なように思える。

小川国夫によると、新約聖書は、弟子たちによるイエスへの信頼が彼の復活を見たという確信によって、成立しているという。

イエスの復活は、神の存在を信じることと同義なのだ。

いま、この時期にイエスの復活はないと思うが、神の奇跡は存在するかもしれない。ただ運がよかったでは終えられないことも多い。そう思うこと自体がもう信仰のはじまりなのだろうか。ただ、その神は、いったい誰なんだろうか。


日 - 9 月 2, 2007   10:48 午前