指輪物語 旅の仲間


映画でしかしらかなった指輪物語の世界。なんとも恥ずかしいが、ようやく原作本を読んだ。半身浴読書だ。手にしたのは新訳の文庫本。新訳なのに、訳文が古くて違和感を感じるところがある。いっそのこと古い訳のままでよかったのではないか、と旧訳が読みたくなってしまう。でもそんなことより、物語がどのように進行していくのか、映画と照らして読み進んだ。

原作を知らないで観た映画「ロードオブザリング」(実際に観たのは劇場ではなくてDVDで)は、不可解な部分がいくつもあった。それは何度観ても同じだったし、同じ解釈をしていた。

本を読んでようやく理解できたのは、指輪の力の強大さだ。そしてそれを葬ろうとする強い意志だった。この2つことを呑み込んでいないと、指輪物語は理解できない。しかし、映画「旅の仲間」を始めてみた時は、指輪の力がどんなに強靭なのか、あまり深く考えが及ばなかったのだ。

映画は映画でよくできた作品だ。何度でも飽きずにみることができる。実際、「王の帰還」を観た後は、もういちど最初から鑑賞し直した。

しかし、原作があるものを映画化する場合の常として、シナリオ化に際して割愛する部分や改変する部分が必ずある。指輪物語も例に漏れず、映画は物語を端折っているし、やや改変している部分もある。最初に映画を見たものにとっては、あまり違和感なく展開するストーリーも、原作を知っていたものにとってはかなり違和感あるのかもしれない。

とくにサルマン。ガンダルフが尋ねっていったときは、まだサウロンにくみしていなかった。
カラズラスの山道での吹雪と雪崩は、サルマンの仕業ではなく、山そのものの仕業だった。

ボロミアが死ぬときにアラゴルンを王と呼んだわけではなかった。


火 - 10 月 24, 2006   03:55 午前