ナルニア国物語における教訓


ナルニア国物語のキリスト教的訓辞は、巻が進むにつれて直接的になってきている。『ライオンと魔女』では、四人の兄弟姉妹の行動を通じて学び取るという姿勢だった。ナルニア国の創始者だった崇高なライオンは、だんだんと救世主的様相を呈するようになり、いつの間にかその発する言葉が子どもたちへの訓戒になっている。

『銀のいす』では「新教育実験学校」として英国の新しい学校制度を批判している。その男女共学の「まぜこぜ学校」では、一部の悪ガキどもがのさばっていじめをしていても教員たちは「生徒の心をしらべるのにおもしろいこと」だといって話を聞くだけで叱ったり罰したりしない。だから弱いものいじめが横行しているのだと。そして、それは、最近の学校で聖書を教えないことに起因しているようだ。そこでこの「ナルニア国物語」では、学校で教えくれないことを、物語のかたちをかりて、おしてくれているのだ。

『馬と少年』では、アラビスがライオンに襲われそうになったとき、シャスタは武器も何も持っていないのに、ライオンに立ち向かって追い払おうとした場面がある。ライオンはアラビスは背中を引っ掻いたものの、シャスタにおそれをなして退散する。(読者はこのライオンがアスランだと直感するが、どうしてアラビスに傷を負わせるのかは疑問で、ライオンの正体は不明のままだ。)

あとになって、シャスタが乗っていたしゃべる馬のブレーは、シャスタの声が聴こえなかったとはいえ、アラビスを救いに向わなかったことを恥じる。アラビスもずっとシャスタをバカにしてきたことを恥じる。ブレーは恥をかいただけでなく、全てを失ったと嘆く。それを聞いていた「仙人」の言葉。

「そなたはいい馬じゃ。そなたが失ったのは、うぬぼれだけじゃ。」「そなたが、… しんからへりくだった気持ちでおるなら、ものの道理をきくこともまなばねばならむ。そなたはあわれでおろかな馬たちのなかにいたため、じぶんをえらい馬だとおもうようになったが、それほどえらくはなかったのじゃ。」「まあ、全体としては、そなたはひとかどの馬になれよう」

ブレーが高慢になっていたのを戒め、それに気づいたのだから今後は改心すればいいということを、やさしく、わかりやすく説いている。そしてそれができるということが、りっぱなことであるといっているのだ。子どもを叱っているときに、そういう説教は、なかなかできない。

さらにあとになって、アスランがブレーたちの前に現れて同じ様なことを言う。

「あわれな、自慢やの腰ぬけ馬よ。… 勇気をだしそこなったことは勇気をだしてやりなおせ。」
「アスランさま。ああ、わたしは愚か者でした。」
「若いうちにそれに気がつく馬は運のいい馬だ。」

さらにアスランは、アラビスに傷を負わしたのは、彼女が家から逃げるために薬で眠らせた女奴隷が継母から受けた仕打ちを分からせるためだったという。自分のことだけを考えて行動したこと、その行いのために他の人がどうなるかを考えないことを戒めている。

『ライオンと魔女』では崇高なしゃべるライオンというイメージだったアスランだが、いちいち教訓めいたことを言うようになってしまったのが、残念といえば残念。しかし、『銀のいす』のなかで明らかにされるように、こちらの世界からナルニアに呼び寄せるは、アスランであり、アスランがナルニアのためにその力を行使し、それを成し遂げる者を選別しているのだ。そしてそれは、ナルニア国の世界においても同様なのだ。

シャランは生まれた時から国を救う運命にあるが、その予言のために、他国に連れさられる。なんかギリシャ神話にもそういう似た様な話があった。

(かきかけ)


日 - 5 月 14, 2006   02:54 午後