帰還(ゲド戦記 最後の書)再考


「さいはての島へ」はゲド戦記3部作の完結編、しかし16年のちに「帰還」が発表されて、その後日談が明らかにされる。しかし物語には16年もの隔たりはなく直後の出来事だった。発表まで16年を費やした後日談。それは「さいはての島へ」で描いた内容に作者自身が疑問をもっていたからではないか。

「さはいての島へ」で、ゲドは王になる素質があることを見抜いた少年アレンをつれて世の中で起こっている不安を取り除くための旅にでる。それまで一人でさまざまな困難に直面し解決してきたゲドがお供を連れて行くことにロークの長たちが疑念を感じる。それにゲドがなんと答えるか。結局のところ「王家の血筋」なのである。

さらにゲドはアレンに向かって「自分の血筋になんの誇りも感じないというのかな?」とか、「過去を否定することは未来を否定することだ。人は自分で自分の運命を決めるわけにはいかない。受け入れるか、拒否するかのどちらかだ。」とか、いう。

それでは、ゴント島で一介のヤギ飼いに過ぎなかったハイタカが大賢人ゲドになったのは「血筋」だったのだろうか。「過去」とは「血筋」のことなのだろうか。

エンラッドの王子であるアレンは、その血筋故に高貴な振る舞いをするが、それは教育の成せる技であって血筋の問題ではないだろう。血筋として重要なのはアレンに宿る英雄としての素質である。それは、必ずしも教育で養われるものではない。しかし、どうしてそれがモレドの血筋でなければならなかったのか。それでは中世騎士物語にも似た、王位継承物語でしかないではないか。ゲドはその王位継承を手助けしただけに過ぎない。そういう物語で良かったのだろうか。

結局のところ、ゲド戦記では、王と大賢人は異なるものであって、魔法使いは王になれない。王こそが世界の長であり、世の中を平安に治めることができるものなのである。大賢人が二度目にひざまずく相手なのである。

それでよかったのか。いや、そうではない。だから「帰還」が書かれたのだ。

「帰還」では真の王の姿をテナーのなかに描いている。つまりテナーこそが人間のあるべき姿として描かれたのではないか。ズタズタになって帰還したゲドもそのときはもう英雄的魔法使いでないない。「さいはての島へ」の最後で、ゲドの姿があまり英雄的に描かれなかったのは、この時点で作者自身が王位継承を血筋に求めたこと自体を疑問視し始めたからではないだろうか。それをそれときづかないように以下に収拾するか。テナーの存在によってそれを語るのに16年かかったということだろう。だからこそ、レバンネンはテナーを王妃のように扱うのだ。

農夫の妻として、その子たちの母として生きた半生をもつテナー。その生命力こそが人間のあるべき姿であり、そこには冒険もなにもなく、単純に繰り返される日常があるだけだが、そうして真摯に生きる姿こそが美しくもありたくましくもあるのだ。

王位継承には血筋があるがそれは象徴であって、人間としての尊厳や品位は別にある。そして人間としての尊厳に血筋はなく、その人の生き方こそが重要である。「帰還」で描かれたテナーの姿は、「さいはて島へ」で読者に誤解を与え続けた作者からの回答だったのだ。




月 - 2 月 20, 2006   01:48 午前