坂の上の雲、読了


10月末に再読し始めて、ようやく読み終えた。読み進むうちに、この本に関して思い込んでいた内容が、実はちょっとニュアンスが異なるということに気づきはじめた。つまり前回と今回とでは細かいところでの感想が異なるだ。いったい以前はどのようにこの本を読んだのだろう。

小説の前半、秋山真之と正岡子規に関する人物描写を中心に物語が進行するうちは、史実に忠実たろうとする記述もその人物像の背景として違和感なく受け容れられた。明治維新後の日本を生きた若者たちの気負いと生命力が感じられてどんどん読み進む。

ところが場面が日露戦争になると、まるで戦争記録のような様相を呈する。人物が活き活きとしてこず、歴史の一コマにすぎなくなっている。つまり、物語的に語られるのではなく、多くの史料を通じての解釈が述べられているといってよい。特に作戦上の失策を行う人物に関して掘り下げているので、旅順ではどうして多大な犠牲者が発生したか、ロシアはどうして敗戦したか、などについてはとてもよくわかる。その記述が学術研究的であるからだ。逆に言えば、人間的ドラマが描ききれていないように思う。

以前に読んだ記憶では、英雄伝的人間ドラマのように思い込んでいた。どうして、そのように思っていたのだろう。日露戦争についてあまりに無知だったからかもしれない。

この本のヤマ場は日本海海戦であり、そこで秋山真之がどのような活躍をしたかを物語として読んだように思っていた。しかし、再読して気づいたが、そのような物語的記述はなく、日本海海戦の時点での秋山真之に関する記述は決して英雄伝ではなく、どうして戦後に出家の意向をもつに至るのかということを何度もくりかえして記述されていたのだった。

そこからわかるのは、正岡子規と同級生であった俊才の秋山真之が時代にながされて海軍士官となり、そこでひたすらその能力を発揮していったら日本海海戦を迎えたということ。だから日本海海戦に至るまでの秋山真之を人間として描き込んでおけば、日本海海戦そのものは事実経過を述べるだけで足りるということなのだろう。兄の秋山好古についても同様だ。だから後半は戦記という印象が濃いのだろう。

日露戦争は時代の流れのなかで起こるべくして起こったわれだが、その渦中に巻き込まれた人々に注目して主人公とした小説を目指したものの、結局作者自身が日露戦争そのものを主人公せざるを得ないほど、日露戦争そのものがまちがって解釈されていた時代に、それを正すための書物であったということだろう。


月 - 12 月 12, 2005   03:58 午前