西の魔女が死んだ


梨木香歩、新潮文庫。

ここんところ、村岡花子や堀口大学や司馬遼太郎などの文章を読んでいたので、平易な現代口語体で書かれた文章になんとなく頼りなさを感じた。しかも一見第三者の目で書かれた文章のようにみえるが、実は主人公の心理にそって書かれた文章であるから、登場人物の描写がどうも偏っていて、客観的になれない。魔女である祖母の描写は、すべてまいの目をとおして書かれている。つまり、この小説は本来一人称で書かれたものであり、感情移入させようとしているのは主人公まいに想定されている。

「赤毛のアン」に感動するのは、アンの気持ちもマシューの気持ちもマリラの気持ちも、すべて第三者の語り部によって描写されているので、どの人物にも感情移入できるからなのだが、この小説では、たとえば魔女である祖母に感情移入しようにもできないのだ。ただ祖母が孫をどのように教育しようとしているかは、読み取れる。しかしながら、それでさえ、物語としては極力その人物から発せられる自然な言葉となるように努力しているのだが、どの言葉もわざとらしく、あきらかに教訓めいている。素直に受け取れないのは、読者である私がひねくれているからであろうか。

実は、学生がこの小説のなかの魔女の家を、具体的に設計しようとしているので、借りて読ませてもらった。登校拒否になった少女が社会復帰するための保養地として与えられた環境を、自然と共生する素朴な住宅として設計しようとしているのだが、どうもこの小説からはその居住空間がそれほどすばらしいものであるということが得られない。主人公がその住宅空間のなかにいるからこそ感情の起伏があるという描写が、あまりにも少ない。

主人公の心が癒されたのは、居住空間そのものよりも、むしろその住宅のおかれた環境のせいであり、そこで暮らしている祖母の素朴な生活スタイルであり、祖母の人生観のおかげのはずだ。ただ、そういう人物が好む居住空間はどのようなものか、という想像はできるだろう。

たとえば「となりのトトロ」におけるさつきとめいの家。その家そのものが重要なのではなく、昭和30年代の田舎の風景のなかにあることが重要なのだ。もっともあの和洋折衷住宅が、あんな田舎にあること自体は異様だとおもうが。

この西の魔女の住処はどう描かれるべきだろうか。結構むずかしい。


木 - 11 月 3, 2005   04:10 午前