阪神淡路大震災から15年


もうじき、あの地震があった時刻になろうとしている。あのあと、しばらくは、少しの揺れでも、身体が反応して飛び起きたものだ。それも今は、身体反応としては忘れようとしているかもしれない。

ここ数年、この時期に阪神淡路大震災の話題に触れることがなかったように思うが、今日は日曜日ということで、ひさびさにゆっくりとこの時間を迎えることができる。

15年前、まだ成人の日が1月15日だったころ。
15日が日曜日で翌16日の月曜日が振替代休だった。
その年、元日に実家にくることができなかった弟夫婦が16日は都合がよいというので、実家に集まった。
両親と弟夫婦と身重の家内と6人で、勝尾寺にお参りした。

地震はその日の夜が明ける頃に起こった。
自分のところが一番ヒドい揺れだと思った。
テレビをつけたら、東海地方で激しい揺れとか言っていた。
暫くの間、震源地の神戸からの情報が入って来なかったのだ。
しかしテレビはみるみる間に燃えていく神戸の様子を伝え始める。
神戸の須磨寺付近に住む弟夫婦と連絡がとれない。
パニックになる母親。
NHKの尋ね人にもつながらない。
当日は午後3時すぎまで消息が分からなかった。
無事、垂水の弟嫁実家に着いたと連絡があった。

弟夫婦は木造2階建ての古い借家に住んでいたが、全壊だった。
1階部分は押しつぶされた。
たまたま階上部分がないトイレにいて助かった弟嫁。
2階アトリエで作業を終えて、たまたまストーブを消していた弟。
あとで話を聞くと、どうして助かったのか不思議なくらい。
そんななかで親戚が死んだという知らせも入ってきた。

職場の上司が、家族のことを顧みずもせず
自分だけ外に飛び出したことをずっと恥じていた。

建築家の友人は、すぐに淡路島に渡ってボランティア活動をはじめた。
現地にいけば何でもすることがある、と言っていた。

生田神社付近に実家がある友人は、直後に、
大阪市内からバイクでひたすら実家に向かったという。
あとから地震直後の生々しい道路状況を聞いた。

両親は弟夫婦のためにまだ鉄道が動いてない時期に物資を担いで神戸まで歩いた。

私は、住居学の専門家としてすぐにボランティア参加したかったが、行けなかった。
行けなかったのか、行かなかったのか、わかない。
言い訳として身重の家内が不安がっているからということはできた。
でもそれは逃げ口上のように思う。
それが今でも悔やまれる。

私が現地に向かったのは震災状況の調査のために現地入りするのは数ヶ月後のこと。
それでも長田区などは火事のあとが生々しく残っていた。

この日を迎えるたびに、何もできなかった、何もしていないという後悔の念が湧き起こる。


日 - 1 月 17, 2010   04:24 午前