崖の上のポニョにはメッセージ性がないのか?


ゼミの学生に「崖の上のポニョ」の感想を聞いてみた。「期待していたけどあまりよくなかった。なぜなら、メッセージ性がないから」という。それは間違いだ、プロの映像作家が作品にメッセージを込めないはずがないと思ったので、ポニョのメッセージ性について考えてみることにした。

これまでの宮崎作品で一番好きなのは?
「もののけ姫」
「もののけ姫」が好きなのは、メッセージがあるから?
自然を大切にしようとか、自然と共に生きようとか…
「崖の上のポニョ」には本当にメッセージはないの?
見た後に残るものがなくて、何をいいたいのか分からなかった。
では印象的なシーンはなかったの?
うーん、ない。
たとえば、フジモトがポニョを探しに港まで来たときに何か感じなかったか?
海がゴミだらけで汚い。
それはメッセージではないのかなあ?
そうか、ゴミだらけの汚れた海を見せて、もっと海をきれいにしましょうって言っているわけね。
ほかにはないか?

とききながら、ポニョに失望して批判してた自分自身で、ポニョのメッセージに気づいた。

これまでの宮崎作品の延長線上で観ようとするから、いらだち、失望するのだろう。がっかりしたのは、宮崎駿だからということで期待していたのだ。何を期待していたのか分からないけど、なにか納得できるものが残ってほしかった。しかし、なにかわけのわからないうちに物語がおわってしまったポニョは、それを満たせなかった。

しかし、宮崎駿というフィルターを通さずにこの作品をみたとき、メッセージを読み解くのは、映像をそのまま解釈していけばいい。

ポニョは人間のフジモトと海の女神との間にできたたくさん(百匹くらい)の子どもうちの一匹の魚。しかし、どうして親は人間の恰好してるのに子どもは魚?

宗介はリサの子どもだが、母親のことをリサと呼び捨てにする親子関係。人権を大切にするというか、子どもを自立した存在として扱おうとしている親だから、親のことも名前で呼ばせていうるというリサの教育理念が反映されている。しかし、それは今の日本社会ではちょっと考えらない親子関係。

宗介はポニョを拾ってそのまま幼稚園に持っていく。その車中で朝食のサンドイッチのハムをポニョに奪われるが、むしろそれを喜んで、「ポニョはハムが好きなんだよ」と母親に伝える宗介。それを何の疑いも持たずにそのまま受け入れるリサ。たとえば「うっそー、魚がハムを食べるなんて、それってピラニア?」なんて反応はしない。

母親の職場の入り口で、施設の老婦人たちと出くわして挨拶された宗佑が「いそがしいからあとでね」と返事する。この台詞は、大人が子どもの相手をしたくないとき(あるいは相手になれないとき)に言う台詞で、それを真似ているのが面白いという設定だ。しかし、最後までみても、宗佑を取り巻く大人たちでそんなことを言う大人がひとりも登場しない。リサに至っては幼稚園児の息子を自立した一人の人間として扱っている。大人はみんな宗介の味方で、みんなやさしく見守っている。ただひとりだけいじわるな老婦人がいるが、それとて偏屈なだけで根は子ども好きだ。

つまり、大人が大人として描かれていない。それがポニョの特徴。

ひょっとしてアンチテーゼとしての大人描写ではないか。

ポニョを「子どものための映画」と呼ぶなら、それは子どもがきゃっきゃと喜んでみる映画のことではない。将来にわたって子どもたちが子どもで居続けることができるために、大人は大人らしくしっかりその役割をはたすべきで、それが人間社会としてサスティナブルである、ということを訴えたかったのかもしれない。

フジモトみたいなペテン師には地球は救えない。
地球にやさしく、なんて傲慢なことを人間がいうな。
神が最後にはみんなを救ってくれるなんてことは、見ての通り、いかにもウソっぽいことだと理解すべし。
映画のなかでも言っているが、あくまでもポニョは世界の秩序を乱す存在。大人が大人らしくしっかりしないと、ポニョのように何でもやりたい放題のわがままな子どもが、そのまま大人になってしまう。


火 - 10 月 28, 2008   05:16 午前