フェイス・オフ


ニコラス・ケイジとジョン・トラボルタが好演のバイオレンスアクション映画。1997年。冒頭から飛行機とヘリコプターが絡むハードアクションと銃撃戦。サングラスをしたジョン・トラボルタがブラピっぽくみえる。

テロリストのキャスターを逮捕したものの、1マイル四方もの破壊力のある爆弾がロス市内に仕掛けられたことが発覚。場所を特定するためにFBI捜査官のアーチャーがキャスターの顔(身体も)の移植手術を受けて、潜入捜査を行なう。

それにしても、ジョン・トラボルタのFBI捜査官役がハマっている。トラボルタの映画は『ソード・フィッシュ』(2001年)が好きだが、この捜査官役と入れかわった後の悪役捜査官ぶりも、なんともいえない。トラボルタは悪役のほうが格好いいかも。

顔を剥がして移植するという非現実的な設定は、このさいどうでもいい。宇宙人に洗脳されたり、肉体を奪われたりするのではなくて、生身の人間が入れ替わるのだ。それがあり得るとして、顔(表面、見かけ)と心(内面、潜在意識?)の人格の対立を描いているのおもしろい。興味深いのは、見かけで受ける印象で悪者扱いされる場合は、内面を少しずつ浸食していくが、その逆がない。

冒頭では悪役のニコラス・ケイジは顔が入れ替わったあとに苦悩の善人を演じるが、それがどこか『天使のくれた時間』(2000年)と共通していて興味深い。自分の人格ではない自分を演じながら自分らしさをどこで確保しようかと悩む。しかし、苦悩するキャスターのなかにアーチャーの姿を見ようとしても、だんだん見えなくなっていく。見ている方が混乱してくが、そのままの姿がそのままの人格のように思えていく。

一方、アーチャーの姿になったキャスターは、だんだん化けの皮が剥がれていく。最初は、その変容ぶりを歓迎しながらも、だんだんと凶暴化していく素行に周囲も不信感を抱きだす。しかし怪しむのは妻くらいで、他の登場人物にはそういう描写はほとんどない。けども、そういう設定になっている。

バイオレンスアクションが売りだが、激しすぎてちょっとついていくのがつらい。アクション映画はこれほど殺戮をくりかさないといけなかったのだろうか。『マトリックス』でも派手に打ち合ったりするが、これに比べると温和しい感じがする。

顔が入れ替わったことで立ち場がなくなったアーチャーと、入れ替わった顔を悪用して楽しんでいるキャスター。そういう視点でもう少し長いあいだ入れ替わったままで、FBIの頂点に立つキャスターと、悪の組織で力を十分に蓄えていくアーチャーという話にして、二人とももとの生活に戻ろうとも思わないなんてことになればいおもしろいのに。

もしくは移植担当の医師が死んだので顔をもとに戻すことはできなかったという設定のほうがおもしろい。

そういえば、マーク・トウェインの児童文学に『王子と乞食』というのがある。そっくりな二人が入れ替わってそれぞれの生活を知るという話だ。現代の科学技術はまったく異なる顔も入れ替えることができるという話。


水 - 8 月 13, 2008   04:46 午前