アニメ映画としてのゲド戦記とポニョ


アニメ『ゲド戦記』(以下「ゲド」)の感想 を読み返してみると、アニメ映画としての『崖の上のポニョ』(以下「ポニョ」)がいかに優れているかが理解できる。昨日のNHKの番組をみてなおさら思ったが、アニメ技術としてはたとえ過去に観てきたものの焼き直しであったとしても、申し分がないものだ。

「ゲド」におけるアニメ映画的未熟さとして、4つの点を指摘していた。

(1)描画によらず言葉でメッセージを伝えようとした
(2)風景描写が美しすぎてアニメ的でない
(3)風景カットが長すぎる
(4)ジブリ的に使い古された表現手法の使い回し

この4点について「ポニョ」では批判すべきところがない。映像表現としてのアニメとしての長所を思いつくままにあげると以下のとおり。

台詞がなく描画だけで進行する場面がある。
おもいっきり抱きしめることであらわす愛情。
アニメ的デフォルメを施しながらも荒々しい海。
風景はあくまでも背景。
表情や動作などにこだわるアニメーション。

ただし(4)について気になったのは、ポニョがとつぜん眠たなるところ。トトロのめいにも同じシチュエーションがある。すでにトトロで十分に発揮した人間観察のアニメ化を精度をあげて描き直したわけだ。使い回しといえばそうなんだが、ここではより精度をあげて描かれているところを評価することにする。

では何が不満なのか。どうして面白くないのか、または、素直に楽しめないのか?

私自身が素直じゃなくなったのかもしれない。

テーマとしては、わがままで自由奔放な子どもを描きたかったのだろう。そして、子どもには好きなようにやらせてやるのが大人の役目。あたたく見守ってあげると子どもなりに勝手に成長していくものだという主旨を感じる。

かりに、そうだとしても、自由奔放さにも限度があるのではないか。水没した町の人たちがボートで避難している様子は、なにかの夢の一場面のようだ。なんとなく昔懐かしい「昭和」を感じる。助け合って皆で避難するのはいいが、町が水没したという事実との関係が希薄だ。つまり、その背後にある津波の悲惨さはまったく無視されている。それを引き起こしたのはポニョだ。そんなことまで許していいのか。これは子どもの自由奔放さを認めるということではない。

自分がいま興味あることに没頭したいから他者の介入を「いま忙しいからあとでね」と交わす宗介だが、これは大人が子どもの相手をしたくないときに使う文句。リサとの関係において、リサがそのような態度を日常的に宗介に対してとっているとは思えない。宗介はいったい誰からこの文句を学習したのだろう。

それに、自分の母親のことをリサと呼び捨てる宗介との親子関係には違和感がある。

つまり、なんというか、はた迷惑な天真爛漫さをもった子どもを、そのまま許容する大人達に不満がある。


水 - 8 月 6, 2008   09:18 午後