マトリックス(3部作)


ウォシャウスキー兄弟監督のSF映画。キアヌ・リーブス主演。3部作の他に『アニマトリックス』というアニメ短編集があり、第1部に至るまでの人類の歴史、1部と2部までの間の話、サイドストーリーなど9つの短編がある。それらをもって全体のマトリックス世界を理解することができる。アニマトリックスのフルCGアニメは、実写と見紛うほど素晴らしかった(当時)。

ひさびさに3作を続けて観た。といってもPowerBookG4の不具合を調整する作業をしている傍らで第1作を再生してたら、続けて2作目も3作目も再生したくなって、そのまま続けてみてしまった。集中してみてたわけじゃないのが残念。とくに、会話によって哲学的思考が語られるときは、集中力を欠いては理解できない。

派手なアクションシーンが目立つ『マトリックス』だが、この哲学的な要素があるからこそ、何度観ても面白い。かといって全てを理解しよういなどと構えて観ていると、アクション活劇としての面白さが半減する。オラクルやアーキテクトなどの会話は、半分聞き流しても話の筋は十分理解できる。要はネオとスミスの対決劇だと思えばよい。

ただスミスがなぜ生き返って(復活して)、第2部に登場してきたのかは判らない。細かいことはおいとおくことにする。

しかし、今回観てて気になったのは、”マトリックス”においてプログラムは目的をもってこそ存在意義があり、その目的達成のためにだけ存在し、総体(=メインフレーム)を形成する一部となっているという説明。これは、人はみな神のもとに与えられた役割があるとするキリスト教的世界観と同じではないか。ということは、ネオが最期に出会うマシンシティの主(あれはTVゲームにおけるボスキャラだ!)は、やはり神か? だからネオはキリスト? 最期の使命を果たしたあと、神と一体となる。

よく考えると、"マトリックス"において人間の姿をしているのは、ネオが蘇生する時点では、実際の人間が見ている夢だからと思っていた。本来の人間ではなくて単にコンピュータプログラムにすぎないエージェンンとが、"マトリックス"内において人間の姿をしているのは、人間の思考を監視し、不具合のある人間のを排除する役割を持っているのを、人間の思考として判りやすく具現化しているためと考えていた。

ところが、あとからオラクル(預言者)もプログラムだと判るし、メロビンジアンやキーメイカーもプログラム。プログラムと人間の思考が同一レベルにある。つまり、プログラムと人間のちがいは肉体を持つか持たないかの違いだけ。ネオは肉体を失っても電脳のなかに生きながらえた。

『2001年宇宙の旅』では人間がスターチャイルドと化すが、そこではもう電脳という媒体さえ消滅して、宇宙空間そのものに思念があるということになる。それが「神への長い道」の第一歩なのだ。

マトリックスってそんな映画だったのか、とあらためて感心した。


月 - 5 月 26, 2008   03:33 午前