ブレードランナー


近未来社会を描いたSFとしての金字塔的作品。リドリー・スコット監督は、アジア的混沌を近未来の下層社会のイメージとダブらせることに成功している。原作はフィリップ・K・ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』だが、映画のシナリオは大胆に変更されていて、別物と思った方がいい。むしろ原作を知らない方が面白い。

学生時代、封切り館で観た友人が絶賛したSF映画。観に行こうとおもったら既に上映打ち切りだった。しばらく経って大毎地下あたりのリバイバル館で観た(と思う)。以来、とりこになって、レーザディスク(LD)は新しいのが出るたびに買い足して3種類のLDがある。ディレクターズカット版にはシド・ミードのデザインノートが特典映像だった。

LDプレーヤが壊れた今は、もうそれらも観ることができない。今までDVDを買わなかったのは、癪にさわるから。25周年記念版は高くて手が出なかった。でも、やっぱりDVDが欲しい、と思っていたら、6月11日に25周年記念版からファイナルカット・スペシャル・エディションが分売されるようだ。

そういえば、ファイナルカット版というのは観てない(持っていない)ような気もする。

若きハリソン・フォードがデッカード役を熱演。だが、まったく格好良くない。アンドロイド(レプリカント)に叩きのめされる惨めな役どころなのだ。その格好良くない賞金稼ぎ役を実にうまく演じているのが素晴らしい。デッカードは、宇宙開発の最前線を脱走して地球にやってきたレプリカントの処理を担当する。観ているほうは、はたしてレプリカントは本当に処刑されるべき存在なのかという疑念を抱く。なぜならレプリカントに植え付けられた仮想記憶と人間の記憶の違いが分らなくなるから。

レプリカントのボス、ロイ役のルドガー・ハウワーがかっこいい。冷血無情なアンドロイドが、雨のなか、ビルの屋上で最期を迎える時、この瞬間に人間とアンドロイドを分けるものが何なのか分らなくなる。それを象徴する様に青空に飛び立つハト。この青空は現実ではない。(映画では)デッカードもレプリカントだった?

語り出すとキリがないが、この映画の仮想記憶のテーマは興味深い。

同じくフィリップ・K・ディックの短編『追憶売ります』を原作としたシュワルツネッガー主演の映画『トータル・リコール』(1990年)も仮想記憶がテーマだが、こちらは娯楽指向が強すぎてメッセージ性に欠けていた。

『ブレードランナー』のメッセージ性と娯楽性を兼ね備えた正統な後継映画というと、ウォシャウスキー兄弟の映画『マトリックス』(3部作、1999年、2003年)ではないだろうか。

個人の記憶の確からしさを確認することでレプリカントが人間であろうとしていたのが『ブレードランナー』の世界だった。しかしマトリックスでは、外部化された電脳という記憶装置のなかで機械と人間とが戦っている。『マトリックス』では、現実社会と”マトリックス”の関係において、仮想記憶(あるいは夢)と実際の記憶(体験としての記憶)とが渾然一体となった未来社会を描いている。これは、機械が人間を支配して、かつ人間が機械に立ち向かっている社会構造とともに、『ブレードランナー』の次世代の話とも言える。(つまり、レプリカントの反乱は増大し機械と人間の戦争に至るということ)

そして、さらに『マトリックス』製作の発端となった押井守の映画『攻殻機動隊』の映像世界は、まさにブレードランナー的だと言える。とくに『イノセント』の映像世界は圧巻。『イノセント』のオープニングシーンは『ブレードランナー』へのオマージュだ。

これらの作品を観ていると『ブレードランナー』を懐かしくも思い出してしまう。


日 - 5 月 25, 2008   12:53 午前