コヤニスカティ


Koyaanisqatsi(コヤニスカティ)、ゴトフリー・レジオ監督、フィリップ・グラス音楽、1983年、米国。
たぶん20年ほど前に三越劇場で観た。詳細は覚えていないが、映画館では、ところどころで居眠りしてたように思う。高速道路を行き交う車や地下鉄の駅を行き交う人混みを早回しで映したりした映像がBGMとともに流れるだけ。それでいて、その映像は心に焼き付き、しっかりと文明批判を感じ取ることができる。ずっともう一度観たいと思い続けていた。

米国AmazonでDVDが販売されているは以前から知っていたが、買い渋っていた。最近、米国のamazon.comのサイトを訪れると、日本で買い物しましょうというメッセージが表示されるようになった。そこで日本のアマゾンで検索をかけると、なんと輸入版として販売されていた。

そういえば、ハリーポッターの原書を英国amazon.co.ukで購入した直後に、日本のアマゾンでも取り扱いをはじめた経緯があった。英国からの送料を加えた価格設定だったように記憶しているが、それでも国内送料は無料になるし、トラブル時の対応も日本語でできるので安心感があるので利用しやすくなったと思ったものだ。英国からの輸入本を扱うようになったのは、ハリーポッターに関して言えば、英国アマゾンへの日本からの発注が集中したからアマゾン社としても個別に輸送するよりまとめて日本で売ったほうが儲かる算段だったのだろう。

英国からの輸入本同様にマイナーなコヤニスカティでも日本で買えるようになったのは、米国アマゾンサイトに表示されるメッセージに込められた販売戦略の一環とみてもよいだろう。

というわけで、さっそく日本のアマゾンで発注したら、なんと注文の翌日には配達されてきた。米国からだと2〜3週間はかかるので、これはとてもうれしかった。

さて、コヤニスカティ。20年ぶりに観た。映像の新鮮さがまったく失われていない。強いて言えば、テレビゲームに興じる若者たちのシーンでのテレビゲームや、電気店でたくさん並んだテレビの前にたたずむ親子の背後にあるブラウン管式テレビなどは時代を感じる。

しかし、廃墟となった共同住宅を爆破するシーンは、911のWTCビル倒壊を思い出させたり、ロケットの打ち上げが失敗して墜落するシーンでは、スペースシャトル事故を思い出させるなど、映画に採用された古い映像からでも、映画の完成後におこった最近の事例を連想してしまう。911テロは別として、たいていの映像は社会で普通に行われていることをありのままに映しているだけなのだが、それが現代に通じるものをもっている。それがこの映画の映像が新鮮さを失っていないということであり、また、この映画のテーマがいかに普遍性をもっているかということでもあろう。

そのテーマとは何か?

たとえば、ベルトコンベアで運ばれてくる商品を箱詰めする作業や、自動車製造工場での組み立ての課程が、工業生産技術の進化を礼賛しているようには思えず、むしろ人間性を失っていく社会の象徴のように思える。ただ単に映像をあつめただけなのに、どうしてだろう。

冒頭、退屈で延々とつづく風景描写。そのひとつひとつの映像は何を表現しているのだろうかと思いながら観ていても、そのシーンだけではそれがつかめない。しかしいつの間にか画面に惹き付けられて、食い入るように見つめている自分を発見し、すべての映像がおわったとき、なにかやるせない悲しい気分になる。

そしてその感情が、この映画の編集によるものであることをようやく理解することになる。どの順番でどの映像を流すのか、それがわれわれの感性に訴えかけてくるのではないだろうか。延々と続く自然描写のあと、土木工事の発破の様子をみせられ、巨大な工事車両が大写しにされると、だれでも嫌悪感を抱くだろう。

つまり、この映画の映像は、最初から意図をもって批判的に撮影されているということだ。そんなあたりまえのことに、いまさらながら気づき、退屈だと思いながらもどんどん映像に引き込まれていく魔力。それにはフィリップ・グラスの音楽の存在が欠かせない。

それにしても、映像と音楽だけでこれだけのことを訴えられる手腕に脱帽。そして、何度みても飽きない。その主張するテーマとともにこの映画はすばらしい。

そういえば、愛知博のフランス館でみた映像もこんな具合だったように思うが、あれはコヤニスカティをまねたものだったのだろうか。


火 - 10 月 17, 2006   12:30 午前