アニメ『ゲド戦記』考、ふたたび


ゲド戦記の原作を知らないママが、いままでの宮崎駿アニメの集大成のような気がした、と言った。キャラクターや背景などは熟練したジブリのスタッフの手によるもので、それらはさらに進化しているものの、ほとんどがこれまでに使い古された手法だ。ママがそれを集大成と評してもおかしくない。

さらに、宮崎駿はゲド戦記に触発されて数々の作品を作ってきた。ゲド戦記の原作を読めば、それはすぐに理解できる。だから逆に、ゲド戦記の原作をなぞることは、宮崎駿作品を振り返ることにもなる。その意味でも、これまでの作品の集大成といってもおかしくない。

駿の息子である吾郎が監督してもこの水準を維持できるのがジブリの実力なのだろう。それは、一流のオーケストラには固有の音色があり、素人が指揮しても、指揮者を無視してその音色や表現手法を維持するのと似ている。オケのコンマスに当たるのが鈴木プロデューサなのかもしれない。このアニメは鈴木とジブリの作品だとおもったほうがよさそうだ。

だからママの感想は、ジブリ作品として評したものであり、必ずしも宮崎吾郎作品とはみてない。そういう意味でも、原作を知らない人たちの一般的感想なのかもしれない。しかし、それをもって『ゲド戦記』の世界観をかいま見たとは思ってほしくない。

あくまでもアニメ『ゲド戦記』は、原作とは別物である。

それにしても、『指輪物語』『ナルニア国ものがたり』と並んで世界三大ファンタジーと言われる『ゲド戦記』が、他の2作品の映画化と異なって、原作を大きく逸脱したかたちで映像化されたのは、ほんとうに残念だ。「指輪」にしろ、「ナルニア」にしろ、それぞれいろいろな評価があるだろうが、映画と原作との間に致命的な物語の飛躍はない(もっとも「指輪」は読んでいないので自分で判断できないが、大筋のストーリー展開で批判されてはいないようだ)。しかしアニメ『ゲド戦記』は、ほとんど致命的なまでに物語が変質している。

たとえばハリーポッターの映画化にさいしては、原作者が原作に忠実な映像化を要望したらしい。おかげで映画は原作のあらすじをなぞるだけのつまらない作品になった。後の作品になって監督が変わるといくぶんかは映画作品としても観れるようになっていくけど、それでもあの分厚い原作を2時間枠で映像化するのには、物語を大幅に省略しなければならないのは明らかだ。

映画化が成功するかどうかはその省略の仕方だろう。そして枝葉末節にこだわらず物語の大胆な再構成が必要になってくる。アニメ『ゲド戦記』は、それをやりすぎたようだ。


日 - 8 月 20, 2006   10:22 午後