ハリー・ポッター「炎のゴブレット」DVD


映画館で観た知人が、今回のは原作を知らなくて映画だけで観ても破綻してなくておもしろい、と評していた。

そういう期待をして観たからかもしれないが、やっぱり原作を知っている者には割愛された話がたくさんあることがわかる。しかしそれがなくても映画のストーリーとして整合性をもっていることは確かだ。これまでは原作に忠実に脚本することを前提とされていて、映画作品としての独立していなかったが、確かに今回はそうではなかった。だから単純に娯楽作品的に楽しもうとしたら楽しめたかもしれない。

しかし、この作品、やっぱり気なるところがある。前三作を知らないと登場する人物たちのキャラクター(性格)がいっさい分からないのではないか。つまりいままでの作品で十分に説明されていること、あるいは観衆はそれを観ていること、または原作を読ん知っていること、を前提としている。だから、ほんとうにはじめて「炎をゴブレット」を観る人にはきっとわからないことだらけのような気がする。

かりにその前提にたって観たとして、子供向けの娯楽作品として楽しもうとしても、ただ楽しいだけでなく何か心に残るものがほしい。それはハリーポッターシリーズ全編を通じていえることだが、ハリーとロンとハーマオイニーの友情ではないか。

今回は、彼らの友情だけでなく、彼らそれぞれの恋愛をもっと描写してほしかった。エンディング部分では3人の友情がさらに堅く結ばれていくことになっている。映画としては、そこ感動したいのに、いまいちなのは、三人の友情と恋愛の苦悩が表現されていないからだろう。どうして最後にハーマイオ二ーが「みな変わっていくのね」っていうのか理解できないからだ。

たとえばロンはまるで子供。ハーマオイニーの感情表現も一言で終わっているし、ハーマオイニーのハリーへの感情も、友情なのか恋愛なのかもわからない。ハリーは友情などおかまいなしに、独自の恋愛にはしっている。そしてそれらはいとも簡単に解決したり、あるいはまったく解決されなかったり。

もう本を読んでずいぶんになるので詳細を忘れてしまった。でもそのほかにも、映画のストーリーとして抱く疑問も多い。

とくにクラウチの息子。どうしてリドルの家にいたのか。どうしてネビルの両親に呪いの呪文をかけたのか。父クラウチを殺したのは誰か。どうやってアズガバンを脱獄したのか。マッドアイ・ムーディーに成り代わってハリーをヴォルデモードのもとに導く策略に彼を駆り立てたものは何だったのか。

そもそも、ハリーの名前がゴブレットから出てきたとき、誰かがハリーの死を望んでそうした(本ではムーディがいう)ことになっていない。ホグワーツの教授たちはみなハリーの命を守ろうとしているのに、何ら準備もしていないハリーが選手に選ばれてしまうことの危険性を観ている者はわかなり。さらにロンや他の生徒たちと同じようにハリーが目立ちたくて自分でやったという疑問を抱き続ける。なのにロンはドラゴンとの戦いがおわるとあっさりハリーの味方につく。観てる方はそうかんたんに疑惑がとけないまま。やっぱり誰かがしむけた罠で、ヴォルデモートの手下がホグワーツにいるという危機感をもっていないとこの物語は楽しめないのでは?

そうでないとスネイプの部屋でカルカロフ(クラムの学校の校長)の腕にデス・イーターの紋章が表れていたシーンの意味がわからない。逆にスネイプがデス・イータかもしれないという疑惑をいだいてしまう。それはダンブルドアの信頼と異なっているのに。

なんかいろいろ書いたけど、やっぱりボリュームのある本を映画化するのはむずかしいということだ。ナルニア国ものがたりは分量としてちょうどよかった。ジブリはゲド戦記をどのようにアレンジして2時間程度の話にまとめるのだろう。たのしみだ。


日 - 4 月 30, 2006   12:53 午後