ハウルの動く城DVD


千と千尋の神隠しのDVDとちがって、赤くない。どうして徳間もジブリもミスを認めないのだろう。宮崎駿もあの赤いDVDを認めるのはおかしい。絶対回収すべきだ。もしくは正しい色相のを1000円くらいの廉価版でつくるべき。と思うほどにハウルのDVDは美しい。

DVDで再度みるも感動したシーンは映画館でみたときと同じだった。ハウルがソフィーに花咲く草原をプレゼントするシーンだ。どうしてあそこで涙がでてくるのか?

あの草原は、お城を引っ越しして、ソフィーがかつて住んでいた住居を再現したあとに、最後にプレゼントされたものだ。引っ越しはサリマンからの追跡を免れるためであったとしても、それをソフィーにふさわしいように再構築したのはハウルのソフィーへの愛の表現だった。それは無益な戦争を嫌うハウルをサリマンから守ってくれたソフィーへの恩返しでもあり、そのソフィーこそが守るべき大切な人であるとハウルが気づいたからだ。しかも、素性のしれない者の寄せ集めを家族というハウルは、以前のわがままで臆病なハウルではない。ハウルの決意とそれを受け入れるソフィーの感情の起伏を現しているのがあのシーンだ。というのが宮崎脚本の言いたいところで、まんまとそれにハマったということだろう。

愛する人がいちばん喜びそうな物をプレゼントする。O.ヘンリーの「賢者の贈り物」は、物質ではなく相手をいたわる気持ちの暖かみこそが最良のプレゼントであるとしている。ソフィーは、帽子店から出ることなく生きてきたから、動く城が移動していく先々に感動する。山間部を飛んで眼下を見下ろす時、洗濯物を干す湖畔にたたずむとき。ソフィーが自然景観のなかで活き活きとしたり安堵を感じたりするというシーンがあるから、プレゼントされた草原に感動するソフィーも観客はそのまま受け入れることができる。その後のストーリーでそこがどこであるか明らかにされなくても、あのシーンに感動するのは、そのときのソフィーに感情移入し、それを観るハウルに気持ちになるからだろう。

映画館で観たときはサリマンが悪の権化のような印象だったが、実はサリマンとて時代に翻弄される犠牲者だったのだ。そのサリマンにたてつくハウルは強い力を悪行に使うためにではなく自分の信念を実現するために使う。「千と千尋の神隠し」のハクと同じ。そのハウルを救うために活躍するソフィーは老婆のハズなのに快活な動作。青い服をきているのでまるでナウシカのようだ。

黒い鳥に変身するハウルはデビルマンに似ている。デビルマンが守るのは人類。デビルマンはサタンとの戦いに破れるが、ハウルにはソフィーがいる。もっともデビルマンは天使(神)で、ハウルは単なる魔法使い。守られるべき人類もソフィーのように「勇気をもたなきゃね」。

老婆のソフィー、そして老婆ながらも元気なソフィー、白髪になっただけのソフィー。ソフィーの姿はソフィーの感情に照らして刻々と姿を変えるが、呪いをかけられる前のソフィーとあわせて、そのアニメーションが実に巧妙だ。「となりのトトロ」でめいを探して走り回るさつきの動きと通じる。これはたぶん宮崎アニメじゃないとみられないだろう。さらに、それにも増して倍賞千恵子の声音の使い分けは見事だ。

納得できないのは、やはりハウルの過去をみるシーン。リングが道を示す(ラピュタ!)のはあきらかにハウルの道びきによる。ハウルとカルシファーの契約をソフィーが見破ったのではなく、ハウルが教えてくれたにすぎないのではないか。しかし、そうだとしても、ハウルに向かって「未来で待ってて!」と叫んだソフィーが「涙がとまらないの」というのと同じように涙がとまらない。

映画館で一度観たときの感想では、原作があるだけに宮崎駿の作品としては中途半端とおもっていたが、もう一度みるとこの映画の良さがわかってくる。やはり宮崎アニメは何度観ないと良さがわからないのだろうか。何度観てもあきない映画というのは、とても素晴らしい。


金 - 12 月 2, 2005   11:23 午後