黄泉がえり


もうずいぶん前にママが借りてきたビデオをみたのだが、今日テレビで放映されていたので、最後のところだけもいちど見た。ちょうど野外ステージが始まったところだ。よみがえった死者が消えたあとの後日談およびナレーションは蛇足。

映画の主題として死者が蘇る理由はこのさいどうでも良い。もし死者がよみがえったら、その人とどのように過ごすか、が主題なのだろう。でもそれなら死者を蘇らせる必要もなかったかもしれない。「心が通い合った瞬間に別れなければならないボクは?」とナレーションはいうが、人との離別は、よみがえった死者が消えるという特別な場合でなくても、現実的に十分ありうることだ。

情況は異なるが、「真珠の耳飾りの少女」もまさに心が通い合う一瞬が人生を変えてしまったという点で優れた恋愛映画だ。それを映像だけ、俳優の演技だけで描ききっているが、「黄泉がえり」はナレーションに頼らざるを得なかった。説明的な映画は手法としてきらいだ。

「ギリシャ神話をしってますか」の阿刀田高は、「愛とは肉体的なものだという考え方はヨーロッパ文化の中では、むしろ支配的である」としている。ギリシャ神話にでてくるような情熱的な恋愛。その本質的なところに迫りきっていないのが「黄泉がえり」の弱点だろう。しかし情熱的ではない恋愛もありうるとして、それを日本的な愛と考えるとどうだろう。それでも合点がいかない。

ほんとうに人を愛したのなら、その人を幸せにできるのは自分しかいないという強い意志が必要なのではないか。それをあえて引き下がって、その人を見守ることによって自分の思いが達成されるという考えは、かえって後悔を呼ぶ。その後悔をたどっていくのがこの映画のテーマだろうか。男があくまでも自分を主張しないのに、女が次第に身近な男の愛に気づいてく過程がいい。けど、それはそうあってほしいという願望であって、主張しない限り気づかないのがふつうだ。

つまりこの映画。過去をふりかえって、あのときこうしておけばよかったと考える自分に、ご褒美として恋愛が成就した夢をみせてあげるという、なんとも自己満足的なものではないだろうか。だから同じような過去をもっていると自分と照らして主人公たちについ感情移入してしまう。それが恋愛でけでなく、家族の話ならなおさらだろう。しかし、それは逆に、いつまでの死別の悲しみに浸り続けるのではなく、故人のことは良き思い出としてしまい込むことによって、未来がひらけるのだというメッセージでもある。

恋愛はお互いにその感情が通じ合ってこそ成立する。だから一緒に過ごす時間のなかで、素直にお互いを認知し合うことが重要であり、人生において大切な瞬間なのだ。言葉にしなくても、そんなことは分かり合えるはずだ。ステージ上の柴咲コウがいい演技だった。


火 - 9 月 20, 2005   11:41 午後