ジダン退場


W杯決勝戦はリアルタイムでは観れなかった。徹夜仕事があったから起きてはいたが試合をみながら仕事してたのは前半まで。あとは観てなかった。

しかし翌日になると嫌でもニュースが目に入ってくる。イタリアの優勝とジダンの退場はネットのニュースで知った。ビデオ録画は毎晩すこしずつみた。その間、ジダンの退場問題のニュースばかりが耳にはいってくる。

ジダンの頭突きの場面をみたのは水曜日の夜。おそらく世間ではニュース画像が流れていたのだろうが、テレビをみる時間がないので、録画したビデオをみるまで、どのようにしてジダンが頭突きをしたのか分からなかった。

あれは、ダメだ。

プロスポーツプレイヤーとしては、どうにも弁明のしようがないだろう。ゴール前にきたボールに反応できないようにマテラッティによって両腕で背後から押さえつけられて、その後も服を引っ張られていたが、体が離れて五六歩歩いたあとに、わざわざ振り返って対面し、頭突きを喰らわしている。あきらかに言葉の挑発にのって暴力をふるっている。。何をいわれたとしても、その解決手段に暴力を使うことは許されないだろう。我が子にもそう教えている。それをプロスポーツプレイヤーのジダンが踏みにじった。せっかくの決勝戦もあれで台無しだ。

試合が始まる前に人種差別を許さないという宣言を読み上げた精神は、もめごとの解決に暴力を使わないという精神とは異なるものだとでもいうのだろうか。そんなことを許容されるなら、いつまでたっても戦争はなくならない。

だからこそレッドカードで退場となったわけだ。

この件、それですんでいたら、ジダンのことだけでよかったが、さらに問題なのは、ジダンに同情して、その行為に正当化しようとるすマスメディアの情報操作だ。

テロに対する武力報復を正当化して戦争を始めるのと同じではないか。

法的には差別を許さないと宣言している国で、平然と差別が行われている。人権宣言や法整備はあくまでも建前であって、実態はみつからなければ何をしてもいいということなのかもしれない。

結局サッカーは、挑発する方も報復する方もみつからなければそれで良いわけで、そういうずる賢い国が主導権を握るスポーツなのだろうか。もっともスポーツとは本来そういうものなのかもしれない。

たとえば「マリーシア」は、サッカーにおいてもっとも重要な要素らしい。狡猾さやずる賢さと訳されるサッカー用語だそうで、このW杯の期間にはじめて知った言葉だ。ネットで調べるといろいろなサッカー通の人たちが、いろいろな見解を述べている。しかし、それを理解できないかぎり、サッカー文化は分からないのかもしれない。「日本人は美しいサッカーができる」とジーコがいうときの、美しさは、必ずしもフェアプレイではないということなのだろう。

野球の松井(ヤンキーズ)が高校野球時代に全打席敬遠されたとき、真っ正面から勝負しなかった相手高校に非難が集まった。高校野球といえども勝負の世界、負けると分かっている相手に正面からぶつかる必要はないだろうが、それを許さないのが日本のフェアプレイ精神。

ジダン退場に対する日本の一般的反応は、松井の件と通ずるような気がする。

(かきかけ)


土 - 7 月 15, 2006   02:07 午前