荒川静香のエライところ


金メダルをとったので、あちこちでいろいろ登場するようになった荒川静香。競技者としてエライところを考えてみた。

もっとも素晴らしいのは絶頂期をオリンピックにぴったりと合わせてきたということだろう。あの演技は会心の出来だったとは観ていた方も感じた。おそらくああいうう神々しい演技はもう二度とみることができないような気がする。

荒川のことはほとんど何も知らなかった。知ったのはオリンピック代表を決めるとき。テレビでみてた。なぜか安藤は前から知っていたが村主は知らなかった。いずれもテレビをみながらカミさんに解説してもらっていた。しかし、このときすでになぜか荒川に注目していた。おそらくあの顔つき(顔の造形そのものではない)に、なにか惹き付けられるものを感じたのだろう。ただ実際の演技はそのときのはまったくおぼえていない。

今回のオリンピックでは、ショートプログラムのときは、ほとんど偶然に起きていて、たまたまみた、という感じ。熱狂的でない証拠に録画はしていない。それに他の競技もほとんど観ていないので、どうしてフィギュアスケートだけ観ようという気になったのかさえわからない。だからこの時点でも、たまたま安藤の演技をみてハラハラドキドキだったので、荒川はどうだろうと思った。村主はライブではみていない。ショートプログラムで採点結果をしったときの荒川の驚いたような表情が印象的だった。高得点を素直に喜んでいた。

注目したのはそのときからだ。もちろん高得点でメダル圏内にいるということもあるが。

フリーの演技をみながら、どうしてもっと前から荒川に注目していなかったのだろう、と悔しい思いをした。実況の刈谷アナウンサーが、9年前から観てますけど、というとき、9年前の荒川をしっていてあの冷静な実況ができるのにも感心するが、とても羨ましく思う。もっともフィギュアスケートのファンでもないので9年前からということはないにしても、毎年ニュースでとりあげられたら注目するという程度でも知っていておかしくないのに、まったく興味を示していなかったのが悔しい。

だから今回の演技にいたるまでにどのような経緯があったのかは、先日放映されたNHKの特番でしかしらない。しかも1回みただけだから、まちがっておぼえてるかもしれないが、とにかく荒川静香のことをもすこし分析したい。

2004年3月、世界選手権で金メダル。このときと今回のオリンピックでは採点方法がちがうということ。それが今回の演技を生み出した要因だった。この金メダルで達成感を満喫した荒川は、燃え尽き症候群になったらしい。長野オリンピックでは苦い経験をしたらしく、オリンピックへの子だわりはなかったようだ。だから、荒川にとっては世界選手権が最高峰で、いちどトップを極めるとそれから先が見えてこなかったらしい。

それにしてもそのときまだ22歳。我われ凡人はおよぶべくもない。

ところが、採点基準がかわって、これまでの演技が通用しなくなると、それによって奮起した。新しい採点方法で得点するためには、小さい頃から練習してきたことを根底から覆すようなこともあるらしい。

すでに実力はあるのにそれがいきなり評価されなくなるのだから、これまでの自分が全否定されたようなショックがあったに違いない。だから自分自身を取り戻すためには、新しい採点方法にそって演技を組み立て直す必要があった。ロシア人のコーチと必死になって自分の演技を見つけ出そうともがく。練習すれば、結果は出る筈だった。なのに、なかなかうまくいかない。むしろ新人勢力が新しい採点方法に適応していくなかであせりを感じていく。

荒川の演技が認められなかったのは、特番によると採点基準でレベル4の得点を得るための要件をコーチが見落としていたということらしい。さらに不得意な要素をさけているといつまでも高得点は望めないということも身を以て知る。すべての要素でレベル4をめざすことにして、さらなる練習が始まる。そのころにみたファンからの応援メール。荒川らしい美しい滑りがみたいという内容。荒川が求めていたものをこのメールが代弁していた。

この転機。ここが荒川のエライところだ。

いったん世界の頂点に立ったあと自分を見失った荒川が、周囲の変化にばかり気をとられていたことに気づく。そして自分らしさを取り戻すための模索がはじまる。コーチをかえた。採点基準に詳しいことと、模範演技ができること、が必要だったからだ。荒川はこのときすでに技術レベルにおいて、いままでの自分を再構築するだけではだめだと気づいた。高得点をとるには、あたらしい要素をいれなければダメだときづいた。その模範演技はほしかった。つまり、あたらしい採点基準にあわせて新しい自分をつくりだしてく方向にベクトルを変えたということだ。

さらに、得点に直接は結びつかない「美しさ」において、自分自身の演技を表現しようとしたこと。それが自分の持ち味だということは自分自身もわかっていた。しかし新採点システムへの対応のなかでそれ自身をわすれ、得点に結びつかないものを切り捨てるという作業の結果、演技に身が入らないで、個性がなくなっていったということだろう。

それを取り戻すキーになったのが、イナバウアーという演技だった。上体をおおきく後ろにそらして横滑りを続けるその姿は、フィギュアスケートらしい優雅さにあふれている。ただ単にそれをとりいれただけでなく、その効果は演技全体に及んだ。しなやかに美しく。

わたしが感動したのは、その美しさだった。荒川の演技は競技をこえて芸術になった。それこそ荒川が今回のオリンピックで表現したかったこと。それにまんまとハマってしまった。荒川のエラいところはそこだ。

スルツカヤの演技にはソツがなく、それなりに美しいが、荒川のように背筋ゾクゾクにならなかったのは、その違いではないか。


木 - 3 月 2, 2006   05:35 午前