京都CDL地区ビデオコンテスト&上映会


8日、京都で地区ビデオコンテストの上映会があった。地区ビデオというのは、京都を題材にした風景に帰着するショートムービーのこと。主催は京都CDL、京都で建築を勉強する学生の集まりだ。

上映会には晃志を連れて行った。亮佑は塾、ママは外出。晃志が一人で留守番をするハメになったからだ。

上映作品は12本+特別上映作品。特別上映作品とは、ひょんなことでCDLと関わりをもった唐津正樹氏が監督した映画「喧噪のあと」。10分くらいの作品だ。

学生の応募作品をすべて観た後で上映された。こなれた映像処理と上質の俳優の演技。それまでずっとアマチュアの風景映像作品を観てきた目に「映画」としての作品が飛び込んで来た。なんといっても普通に会話をする俳優の演技に安堵感がある。そして目に入る映像から受ける印象と、会話を聴きながら物語の展開を読み取ろうとする意識とが調和して、だんだんと作品の中に惹き込まれていく。そのとたんに映像が終わった。混乱する頭のなかで、話を最初からたどっていって、ようやく納得する。休憩中に再度上映されたのをみて、確信した。

いかにもわざとらしい赤ちゃんの写真がコピー機から吐き出されるシーンは、観客へのサービスだったのだろう。

上映作品のなかでは、当たり前だが、一番良かった。わざわざビデオコンテストのためにつくったかのようだった。さすがプロの作品だけあった、風景としての京都は「モヒカン山」の現状と昔の写真がちょっと出てくるだけなのだが、妙にハマっている。唐津正樹氏は新進の映像作家。弱冠26歳。これからが楽しみだ。

学生たちの作品は、まちの風景に固執するあまり単調な風景描写に終始する傾向がある。とくに観光名所案内的になってしまうのが一番よくないが、それでも切り口を変えると普段は意識しない風景を見ることができるはずだ。作品の質を決めるのはその切り口だ。一方、京都らしくない風景、つまりいわゆる観光名所ではない京都を撮った作品は、その素材自体に興味を感じるのだが、それでも延々と風景描写が続くと飽きてしまう。

そんななかで、「喧噪のあと」のモヒカン山が提示した暗喩は、おそらく作者の意図からはなれて、きわめて京都的な風景として印象づけらたのではないか。無許可の開発行為によってモヒカン刈りのように頂上付近だけに樹木が残った一条山。結局は開発業者によって宅地造成されている。その風景の背景にある京都は、京都にかかわる全ての人間活動の場としての京都である。

ある男女のドラマの一部を担うにふさわしい背景をもった風景。それを切り取って映像作品に仕上げる手腕には、まちづくりの観点からも絶賛を評したい。

ところで学生作品。会場投票で一位になった「鴨川」は、美しい風景としての鴨川上流と異質なまでに京都らしくない鴨川下流の対比が主体になっている。作者が意図した主人公の勘違いを観客が見抜くのが難しいが、そんなことは気にしなくても十分に楽しめるのは平井堅のBGMのせいだろう。しかし主人公の勘違いとしての映像をつくったのであるなら、それはちょうど唐津氏の作品とは逆の伝わり方をしてしまったように思う。亡くなった母の愛した鴨川を求め歩く主人公の姿をもっと前面に出して、ストーリー性を軸に、ちょっとだけ鴨川が出てくれば効果的だったのかもしれない。

それから映像の作り方は、なんとなく昨年の「桂川、眺める。」に触発されている様な気がした。

その「桂川、眺める。」の作者は、今回「ミナミク。」で唐津賞を受賞した。京都らしくない風景に固執した点を評価されての受賞だが、作者の居住地としての南区に点在する風景、京都とは異質の風景に迫っていた。それらが風景として存在するための人々の生活を描きこんでくれたら申し分なかったのではないだろうか。

私が気に入ったのは「キョウト・ザンマイ」と「あいだの都市」。

つづく


土 - 12 月 9, 2006   01:20 午前