ベートーヴェン:交響曲第9番第3楽章


車でクラシックピアノ曲を流しっぱなしにしていたらベートーヴェンの《悲愴》(ケンプ)の第2楽章にさしかかったところで、第九の第3楽章が聴きたくなった。オーケストラの響きで聴きたかったのだ。iPodに入れている小沢/サイトウキネンとカラヤン/ベルリンフィル(普門館ライブ)を聴き比べた。

第九の第3楽章は、第2楽章の激しさとクライマックスの第4楽章との間にあって、非常に穏やかで落ち着いた曲。ゆったりとしたメロディが非常に美しい。そののどかさは中盤でどこか《田園》を思わせるが、自然風景のなかでのくつろぎというより、精神的な安らぎを感じる。

独身の頃、年末にはよく《第九》を聴きに行ったが、この第3楽章になると気持ちよすぎて居眠りしてしまう。それほど気持ちいい。演奏を聴けないのがもったいないとは思うが、生のオケを聴きながら居眠りするなんて最高の贅沢かも。

しかし、小沢/サイトウキネンはどこか先走って急ぎすぎような気がする。もっと溜めて、ゆったりと流れてほしい。雲の上を歩いている様な浮遊感がほしい。

それにくらべてカラヤンの普門館ライブは、まさにカラヤン風の耽美的演奏。透き通った弦がねちっこく響いて、雲海を風にまかせて漂う小舟にのっているような気持ちよさがある。マーラーの5番のアダージョを思わせる。

第3楽章を何度も繰り返し聴いた。車の騒音に負けないようにボリュームを大きくして聴いたが、そもそも車を運転中に聴く様な曲ではないことは確か。それでも、この曲の感動は十分伝わる。

帰宅して、ベルナルト・ハイティンク指揮アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団のCDを持っていたはずと、家捜しした。1980年のライブ録音。さっそくiPodに取り込んで、第3楽章から聴き始めた。非常にしっくりくる演奏だ。

カラヤンのような吸い付く粘っこさがない。その粘っこさは耽美的な演奏には必須のように思っていたのだが、ハイティンクの指揮は全体として響きが美しくて、吸い込まれるような至福感に包まれる。

カラヤンの普門館ライブ(1979年)をはじめて聴いたとき、これぞ第九のリファレンスとなる演奏と思った。たいへん感動したのを覚えてる。なのに今は、普門館ライブを聴く前から知っていたはずのハイティンクのほうがいい。この3演奏(いずれもライブ録音)のなかでは一番いい。加齢とともに音楽の趣向も変わるということだろうか。


水 - 11 月 21, 2007   11:37 午後