法隆寺-1 |
「法隆寺」を一言で述べますと「仏教美術の集大成」と言えます。 我が国の国宝指定の建造物は、近世が大半という中で法隆寺は白鳳、天平時代の建
643年に聖徳太子の長男「山背大兄」が従兄弟の「蘇我入鹿」に攻められ斑鳩宮で一族
ただ、若草伽藍が焼失したのであればその跡地に再建すればよいのに北側に迫る山
「豊臣秀頼」が発願して家臣の片桐具元を奉行に任じ実施された慶長五年(1600)〜慶
江戸時代、「桂昌院」による大修理は元禄五年(1692)より宝永四年(1707)の15年間と
明治の「廃仏毀釈」では南大門左右の築地塀を取り壊し、田畑の土に利用しようとす
昭和の大修理(1933〜1953)は20年にも及ぶ大工事で、当初の近い姿に復元できまし
昭和25年、聖徳宗の総本山となります。昔、約12万坪あった寺域が激減いたしまし
平成5年12月11日「世界文化遺産」に登録。その日は私が一人で法隆寺ボランティア |
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ここは参道の始まりではな |
れる方が大多数で、松並木の間の砂利道を通られる方は極少数です。 |
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数年前までは法隆寺参道(青矢印)はたったの1本でした。この参道で事足りたのは |
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整備されてからの南大門前での記念撮影が多くなりました。また、バスガイドによ |
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南大門の前に「鯛石」があり「法隆寺 |
れる我が国最古の道は「山の辺の道」というように道は山の裾すなわち湖岸にしかでき |
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「南大門」は中門前の階段の辺りにありましたが平安時代に移築されました。古代の |
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大仏様(鎌倉時代)の「双斗(ふたつど・そうと)」 |
「木鼻」は禅宗様の若葉のマ |
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禅宗様の虹梁大瓶束式が和様の虹梁蟇股式と違うのは蟇股の代りに大瓶束(緑矢印) |
![]() 中 国 |
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![]() 鳳凰(平等院) |
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我が国古来の建築屋根は「萱葺」で装飾がなかったので東南アジアの寺院のように |
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![]() 鬼瓦(大宝蔵院) |
右の「鬼瓦」は法隆寺若草伽藍から発掘された鬼瓦の模作です。現在「大宝蔵院百済 |
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![]() 築 地 塀 |
古代の塀は「版築」技法で壁面をきれ |
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「上土門(あげつちもん)」とは屋根の |
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中央に中門、右には金堂、左には五重塔がありそれらが松の古木に溶け込んだ素晴 |
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「中門(ちゅうもん)」は |
塔が対等の位置付けとなり、そこで金堂への出入口、塔への出入り口として設けられ |
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![]() 扇垂木・一軒 |
中の間に比べ脇間が極端に狭くなっているのは荷重の掛かる隅をたった隅木一本で |
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雲斗雲肘木、卍崩しの高欄、人字形割束については金堂のところで説明いたします。 |
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法隆寺では「皿斗(赤矢印)」付きは大斗だけで |
大斗が柱に食い込むのを防ぐ効果的な技法であり、中国では続きますが我が国では間 |
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拝観入口から中門に向かうとエンタシスの柱が目に |
国では続きます。 |
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![]() 礎石(山田寺跡) |
中国には天の象徴が丸、地の象徴は角と言う「天円地方」の思想がありました。そこ |
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礎石は自然石そのものですが、どこか「鯛石」に似ていますね。法隆寺を訪ねられ |
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「仁王像」は現存最古でしかも天平時代唯一の遺構です。ただ、後世の補修に於いて 金剛力士像は金剛杵を持っていなければならないのに本像は両像共素手の像である 「塑像」の技法については後述いたしますが大型の塑像を制作する場合「木舞(こま |
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中門の左横に世界遺産登録の記念碑があります。この場所で五重塔を見上げてくだ 九輪にある「鎌(赤矢印)」は高層建築物の大敵である「雷」を魔物と考えて雷よけとし |
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拝観料はたったの1000円です。私は1万円でも価値 |
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ガイドの際紛失され |
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「三経院(さんぎょういん)・西室(にしむろ)」は西回廊から離れたところに建ってお |
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![]() 金堂 五重塔 |
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三経院の左側を少し歩き石段を登ると八角の「西円堂」に到着です。この辺りは法隆 |
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![]() 円堂 向拝 取り合い部分 |
「西円堂(さいえんどう)」は天平時代に光明皇后の母君である橘夫人の発願で行基が |
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「薬師如来像」をお祀りする西円堂は 頭光背と身光背の二重円相光背で千 |
うことで写真の錐を耳に当てお祈りいたしますと耳の病が治るそうです。錐を買い求 |
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「時の鐘」は明治22年造立で西円堂の東側にあ |
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