仏堂のお話-1 |
今回、「仏堂のお話」を掲載することにいたしましたが、寺院のどの建築までを仏堂
中国では宮殿建築の様式を仏殿建築が模倣したのですが、我が国では中国の仏殿建 |
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「川原寺」は当時の建築は何一つ残っておりませんが礎石群は見事に復元されてお |
我が国では、建築部材は化粧材となるまで |
![]() 垂木は太さが違ったり曲がったり しております。 |
「柱」だけで屋根、床、組物などを支えます。柱と柱を繋ぐのは梁です。
古代の木材は現在のように根元まで日が当たるよう間伐などの手入れをしない悪
我が国特産の桧、杉などは割裂性に富んでいて真っ直ぐに割ることが出来ました。
我が国の建築は木材を構造材だけでなく装飾材としても使っておりますので木部 |
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「金堂」と言う呼称ですが中国、韓国では「大雄仏殿」「仏殿」とか呼ばれ、「殿」と言 |
さて、金堂の名称の由来ですが確たる証拠はあり |
![]() 夏 目 廃 寺 (資料提供:名張市教育委員会) |
では繍仏で壁面を飾りました。
我が国では壁には土壁を使用しませんでしたが仏教建築伝来とともに寺院建築は |
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法隆寺の「中門」に天井が張られていますのは法要が行われたためと思われます。
塔が伽藍の中心だったのがその位置を金堂に明け渡すことになり「塔中心伽藍」か
法隆寺では塔と金堂が対等に並んで建設されておりますが既に金堂が格式高い仏 |
![]() 金 堂(法隆寺) |
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「講堂」は金堂の後方に建立されます。講堂は法要と経典の講義が行われますので
金堂の柱間は中央間から端間にかけて逓減していきますが講堂などの主要でない
禅宗寺院では仏殿が金堂に、法堂(はっとう)が講堂にあたりますが仏殿より法堂 |
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「平安時代」になると平安京内には官寺の「東寺」「西寺」以外、寺院の建立は禁止と
鎖国時代にあっては「密教寺院の金堂」、「阿弥陀堂の仏堂」に我が国ならではの変
平安時代は人間の空間を重視、すなわち「礼拝空間の拡張」に力を注いだ時代でし |
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「双堂(ならびどう)」とは別々の機能を持つ堂が並んでいることを言います。 |
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次に「庇、孫庇」についてですが天平時代までは寺院建築の母屋を内陣、母屋をめ |
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「室生寺金堂」は縋破風(すがるはふ)と呼ばれる形式で孫庇を増設して堂内を正堂 |
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![]() 金 堂(薬師寺) |
「三十三間堂」は庇の間を入れると「三十五間堂」となります。一般には 「裳階(もこし)」とは母屋の柱を利用して屋根を付けるものです。裳階は法隆寺金 天平時代までは柱間の寸法は完数値で表わされました。平安時代になると桁行 |
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「野屋根」についてですが、天平時代までの屋根勾配は中国風の緩い屋根勾配で |
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![]() 野屋根に拮木を設ける |
野屋根
:当初は拮木を入れること など考えつかなかったのでしょう |
禅宗様は通常、野屋根がなく高い屋根を形成するために垂木の勾配を急なものに |
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飛鳥、白鳳、天平時代に伝来した大陸の建築様式は「密教寺院」に引き継がれまし
密教では人々を引き付ける素晴らしい仏像を、秘密の仏教だけに秘仏扱いで信者 |
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「阿弥陀堂」は天台仏教での「常行堂(じょうぎょうどう)」をモデルにした方形の平 |
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「本堂」は野屋根、拮木の効用で梁行(奥行)が大きくなり仏の空間の内陣、人間の |
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「大仏様」は東大寺の大仏殿、南大門などの大規模な建築に適しているため大木を |
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「桃山時代」になり建築の細部装飾はますます盛んになり「江戸時代」では過剰と思
建築本体の良さすなわち建築の組み方、素材などの良さを、世間一般の人はなか |
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近世になると仏堂と高僧の尊像を祀る影堂、御影堂、祖師堂を並べて建設するか |
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「タージ・マハル」は総大 |
門の基壇に腰かけてグループの帰りを待っておりました。洋の東西を問わず霊廟は |
ここで少し思いついたことを述べますと |
「亀腹」は仏堂内に床板を張れば |
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また、山岳寺院では傾斜地に仏堂を建立するため解決策として亀腹を採用したと |
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「壇上積」ですが天平時代までの |
壇上積の基壇より「乱(石)積」の基壇 |
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和様が大仏様での「貫」を利用する以前はどうであったのかを説明しますと古代の |
「台輪」とは柱頂を繋いだ平たい厚板で柱 |
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