仏陀の生涯ー3
 

  祇園精舎の寄進

  祇園精舎といえば平家物語の冒頭「祇園精舎
の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の
花の色・・・
」とありますが当時「鐘堂」が備
わる伽藍配置だったのでしょうか。
 豪商の須達多(スダッタ)長者が仏陀に精舎
を寄進すべく適当な土地を探しだしましたが
持主のこの国の太子祇陀は売ることに難色を
示しました。そこで須達多長者は太子が敷地
一杯に黄金を敷き詰めたら譲ってもよいとの
無謀な要求に従い敷地一杯に黄金を敷き詰め、
土地を手に入れ仏陀に寄進いたしました。
 図は下から牛車から黄金を降ろし次に肩に
担いで運搬(青矢印)しております。その運ば


     
祇園精舎の寄進

れた黄金を2人の者が敷地一杯に敷き詰めております。
 中央の二人の人物は
須達多長者でしょう。それから、水を注ぐのは土地を布施する
約束を表しております。
  須達多は給孤独(ぎっこどく)とも呼ばれておりました。太子の祇陀と長者の給孤独
の二人の名前をとって祇樹給孤独園(ぎじゅぎつこどくおん)精舎とも呼ばれたのを略
して祇園精舎と呼ばれるようになりました。

 

  須達多長者が祇園精舎の敷地と三つの
仏堂を寄進されたのが左図で当時はこの
ような形の建物だったのでしょうか。
 仏陀は菩提樹で表されていますが須達
多長者はどれでしょう。

 下部には黄金を敷き詰めたという証が
幽かに見えます。

 

 

  帝釈窟説法


    
   帝 釈 窟 説 法

 「帝釈窟説法」とは、仏陀が帝釈山の洞
窟、帝釈窟で瞑想している時にインドラ
が忉利天から象(青矢印)に乗って仏陀の
許に訪れ説法を要請したという話です。
 左側に居るハープをもったパンチャシ
カ(赤矢印)が先導を務め、ハープで奏で
る魅惑的な調べで仏陀を瞑想から呼び戻
したのです。

 手印は説法印ではなく禅定印でまだ瞑
想中の姿を表したのでしょう。
 さほど興味ある内容とも思えないので
すがインド、パキスタンともに好んで制
作されました。


      
帝 釈 窟 説 法


   
帝 釈 窟 説 法

 

  獼猴奉蜜(みこうほうみつ)


     獼 猴 奉 蜜

 「獼猴奉蜜」は釈迦八相の一つに数えられるも
ので猿が仏陀に蜜を差し上げたという話です。
 仏陀がバルモンに招かれた食事会から帰る途
中一匹の猿が蜜を取って来て仏陀に差し上げた
ら、仏陀は水で薄めて弟子たちとともに賞味さ
れました。猿は仏陀に蜜を受け取って貰えたの
で喜びまわっていたら、図にはありませんが誤
って穴に落ち死んでしまいます。仏陀は猿の善
行に報いて先ほどのバルモンには子供が居ない
ので猿をバルモンの子供として生まれ変わらせ
ました。猿はバルモン夫婦に可愛がられて幸せ
に過ごしたという話です。
 仏陀の象徴たる菩提樹と聖台の前に跪き合掌
礼拝するのはバラモン夫婦と夫婦の子供となっ

た猿でしょうか。
 獼猴とはアカゲザルという意味があります。

 

  幼児の布施

  仏陀も毎日その日の生活の糧を求
めて托鉢に回っておられました。托
鉢の乞食はこじきではなくこつじき
と読まないと失礼に当たります。
 ある托鉢の日、子供が遊んでいた
処の砂を丸めて仏陀に差し上げまし
た。仏陀は幼い子供に善行に感激し
て来世はすぐれた人物になることを
予言いたしました。その予言通り、
子供は現世では仏教興隆の恩人でし
かも偉大な君主となったアショーカ
王です。後ろの子供は大臣のラーダ
グプタではないかと言われておりま
す。左端の人物は子供の母親で


       幼児の布施

右端はヴァジラパーニでしょう。中央の木は棕櫚でこの話には出てくるそうです。

 

   酔象調伏(すいぞうちょうぶく)  

  「酔象調伏」とは仏陀を快く思わな
い従弟のテーヴァダッタが発情して
狂暴となった象(酔象)を放し仏陀を
襲わせ殺そうとしましたが酔象は仏
陀の前までくると仏陀に怖れおのの
き頭を垂れておとなしくなったとい
うお話です。象には鼻の先に武器を
持っているものもあります。
 悪人といえばテーヴァダッタに代
表されるらしいです。
 上段のバルコニに居る人物がテー
ヴァダッタで象をけしかけていると


         酔 象 調 伏

ころでしょう。釈迦八相の一つです。

 

  白犬の因縁


        
白 犬 の 因 縁

 「白犬の因縁」とは「吠える白い犬」とも言われ
ます。
 テーブル上に居る白い犬が仏陀に向って吠え
ているところです。仏陀は白い犬に向かってお
前は前世において金の亡者で汚く貯めた結果犬
になったと聞かせましたら犬は急におとなしく
なりクロスのかかったテーブルの下に潜り込ん
で(青矢印)しまいました。
 仏陀は犬の持ち主にこの白犬はお前の父親の
生まれ変わりであるから犬に父親が隠していた
財産のある場所を聞けばよいと教えました。

 

   火から救われたジョティシュカ


 火から救われたジョティシュカ

 写真はガラス戸に写ったライトの影響で仏陀
の姿がはっきりいたしません。
 ある時、仏陀が異教徒の家に托鉢に訪れた際
男の妻は妊娠中だったので男は仏陀に生まれて
くる子供は男女のどちらであるかを尋ねると仏
陀は生まれてくる子供は男の子であると予言い
たしました。すると、男は喜んで仏陀に多額の
寄進をいたしました。しかし、この話を聞いた
異教徒たちは面白くありません。そこで、生ま
れてくる子供は魔物であると告げ口をし子供を
降ろすよう勧めます。男は流産させようとして
妻を亡くしてしまいました。亡き妻の火葬中に
仏陀が現れて火葬の火の中から子供を無事に救

い出したという話です。炎の中から男の子(青矢印)を救いだし子供の名前をジョティ
シュカと付けました

 

  舎衛城(シュラーヴァスティー)の奇跡 

   「舎衛城での奇跡」では「千仏化現(せんぶつけげん)」と「双神変(そうじんぺん)」が著
名です。舎衛城での奇跡とは仏陀が異教徒を仏教に改宗させるために舎衛城で見せた
奇跡のことです。


      千 仏 化 現

 舎衛城の神変(千仏化現の奇跡)は異教徒
たちの挑戦に応じて仏陀の神通力を示した
一つで瞬く間に次から次へと化仏を生みだ
しましたので千仏化現といいます。また、
その一つ一つの化仏から火や水を噴出させ
て人々を驚かせました。

 蓮華座に坐し瞑想中の仏陀は,次々と化
仏を現し,その化仏の数は膨大なもので天
にまで達したといいます。
 図は蓮池よりの蓮華座上に瞑想、結跏趺
坐して説法印を結ぶ仏陀が、蓮茎が次々と
枝分かれするにしたがって多くの化仏を誕
生させたという千仏化現であります。それ
らの化仏は仏陀から枝分かれした茎で繋が
り蓮華座上に立っているか結跏趺坐してお
ります。

 

   舎衛城の奇跡


       舎衛城の奇跡

 「舎衛城の奇跡」と言われる作品は多
くありこれが舎衛城の奇跡と思われる
ものまであります。 
 
 舎衛城で奇跡を起こしたのは千仏化
現です。
 下から三段目に横一列に並ぶ小さな
化仏の状況が、これは仏陀が化仏を多
数生み出されて「千仏化現」だと解釈さ
れてるからです。
 中央の釈迦は説法印を結んでおりま
す。
 脇侍は弥勒菩薩と観音菩薩であろう
と思われますが左手を腰に当てている
ので太子とも考えられます。がしかし、
その左手に蓮華を持っていることから
すると観音菩薩の可能性も出てまいり
ます。
 右側の立像は、左手に水瓶(破損)を
持っておりますので弥勒菩薩でしょう。
 全体図は舎衛城と思われる建築物と
なっております。


   千仏化現・化仏を発する禅定仏


   千仏化現・化仏を発する禅定仏

  蓮華座に座し禅定印の仏陀の両側に、蓮華座上の仏立像を3体ずつ放射状に表して
おります。これも千仏化現でありとにかく千仏化現の多いことは事実です。

 

  双神変(そうじんぺん)

       
        
双 神 変

 

 

 「双神変」はインド、ガンダーラでは少ないで
す。双神変とは身体の上部と足元から交互に炎
と水が噴き出す現象のことです。画像は身体の
上部から炎、足元から水が出ておりますがその
水力たるや身体を浮き上がらせるくらいの勢い
があります。この逆の足元から炎が出て肩から
水が出る像はなさそうです。
 火と水は日常生活に欠かせないものだけにこ
の双神変が創作されたのでしょう。

 

   燃肩仏


      燃 肩 仏

 禅定印を結び結跏趺坐した仏陀の両肩から
火炎が立ち上っておりますので燃肩仏と言い
ます。双神変と違って肩からの炎だけで水は
噴き出しません。

 手が異常に大きいのと真丸の光背が印象的
です。 
 仏陀の左右には蓮茎から伸びた蓮華座に化
仏があり千仏化現の簡略版でしょうか。
 左右の上方には傘蓋を持ったインドラとブ
ラフマーが飛天の如く描かれていますのが変
わっております。

 

     

 

 

 この作品も舎衛城の奇跡であるとの
説もありますが違うとの説もあり見解
がわかれております。
 しかしいずれにしても、これ程の大
型作品(幅98p、高さ120p、厚さ26p)
が完全な姿で残ったということは奇跡
としか言いようがありません。

 

   「従三十三天降下」はインド、パキスタンともに数多く造られております。三道宝
階降下(さんどうほうかいこうげ)とも呼ばれており雨安居の三か月の間、仏陀は天界
の三十三天(忉利天)に昇って忉利天で再生された亡き母のため説法をして聖地サーン
カーシャに帰ってくるところを表したものです。


       従三十三天降下


     従三十三天降下


  従三十三天降下

 三十三天(忉利天)とは須弥山の頂上にあり、中央に
インドラ、頂きの四方に各八人づつの天が居りますの
で計三十三天となるところからの命名です。
 仏堂の須弥壇を守っているのは四天王ですので須弥
山全体を守るのは四天王だけだと思っておりましたが、
どうも間違いのようであります。忉利天の上には兜率
天があります。
 これら3図とも仏陀の表現に仏足跡(青矢印)か菩提
樹が使われている仏伝図です。仏足跡は履物のように
見えますが仏足跡には千輻輪相が刻まれております。

 天界と地上界が結ばれた階段はインドラが造らせた
金、水精、白銀製の三階段で中央の階段を仏陀、左右
の階段はインドラ、ブラフマーが使用したといわれて
おります。階段が一つしかないものがありますが三つ

の階段の表現はスペース的に難しかったからでしょう。

 合掌して迎えるのはブラフマー、インドラです。仏足跡のところで跪いているのは
比丘尼(赤矢印)とのことです。

 

   優填(ウダヤナ)王の造像


            
優填王の造像


 釈迦如来立像(清涼寺)

 「優填王の造像」とは仏陀が誰にも告げず三十三天に
行かれたので人々は仏陀が居なくなったことで悲しみ
にくれました。その中でも優填(ウダヤナ)王の傷心ぶ
りは異常で憔悴し切っており、見かねた臣下が王を慰
めるために栴檀で仏陀の像を造りました。その仏像を
優填王が三十三天から降下された仏陀に披露している

ところです。この「釈迦如来像」を中国僧が故国に持ち帰りましたのを、東大寺の僧
「「然(ちょうねん)」が模刻してわが国へ持ち帰り、京都・「清涼寺」に本尊として祀
られております。異国情緒溢れる「清涼寺式釈迦像」は大変な評判を生み全国各地で
清涼寺式釈迦像として摸刻されました。     


仏陀の生涯ー4へ続く