仏陀の生涯−1
 

  「法隆寺について」はガイドで多くの方にお話しいたましたのでホームページに掲載す
る積りはなかったのですがガイドに同行しておりました家内から是非記載すべきと忠告
を受け急きょ掲載しました。その法隆寺の説明を作成中に大乗仏教、仏像の故郷とはど
んなところかを知りたくなりインド、パキスタンの仏教美術を訪ねることにいたしまし
た。
 インドでは同胞をボードガヤといい、タージマハルでは見かけましたがそれ以外の地
域ではパキスタンと同様に見かけることはありませんでした。そこでインド・パキスタ
ンの仏教美術について拙い文章ですが皆さんが訪れるきっかけになればいいなあと考え
記載を思い立ったのであります。しかし何分、インド・パキスタンの知識は零に等しい
ものですから予想外に手間取りました。さらに、前回パキスタンを訪れた際天候不順で
飛行機が飛ばずパキスタン最大の博物館「ラホール」に寄れませんでした。ところが、パ
キスタンのことについて調べれば調べるほどラホール博物館を抜きにしては語れないこ
とに気がつき先月急遽パキスタンを訪れましたが最高気温が48度で死者が20数名出る暑
さには驚くとともに貴重な経験をして参りました。

  インド、パキスタン共に博物館では展示品のカタログが販売されていないうえに展示
品の説明は目次程度のもので、しかも博物館によってまちまちの説明です。それと、イ
ンドのマトゥラー博物館は展示館が二つに分かれており通常はその一つのみを開放して
いますので全ての展示物を見るには2回訪れる必要があります。それと残念なのはニュ
ーデリー博物館を再度訪ねた時、海外出展のため展示品が少なくなっていたことです。

 1947年、インドが独立する際にパキスタンがインドから分離し今日に至っております。
インドではヒンズー教徒が、パキスタンではイスラム教徒が大半であることが影響して
の分離となったのでしょう。
 われわれ日本人には理解できないくらい宗教的な繋がりが強く個人もの土地問題でも
宗教的な争いになることがあるらしいです。カシミール紛争にしても宗教戦争でありま
す。わが国ではいまだかつて宗教戦争はなく強いて挙げれば「島原の乱」ぐらいでありま
しょう。わが国の戦いは序列の戦いであって真の宗教戦争ではありませんでした。
 ヒンズー教は火葬して墓は造りませんが偶像崇拝であります。インドではドライブイ
ンでも多くの仏像の販売しておりますが当然ヒンズー教の仏像です。一方イスラム教は
火葬ではなく土葬で偶像崇拝は禁止されております。また、イスラム教は禁酒を強いて
おり先月、猛暑のパキスタンで世界一汗かきの私にとって冷たいビールが飲めなかった
のは修行そのものでした。
  ガンダーラの石工はお土産用の仏像を造る程度で主に墓標の装飾板の製作に携わって
おります。

 
 「仏陀」というよりわが国ではお釈迦さんという方が通じやすいでしょう。成道された
後の呼び名は釈迦牟尼、仏、仏陀、如来、世尊、釈尊などがあります。
 成道されるまでは釈迦菩薩とか太子と呼ばれておりますが今回は成道までは太子、成
道以後を仏陀と呼称することにいたします。
 太子は釈迦族の王子として浄飯王(じょうぼんのう・シュッドーダナー)と、その妃摩
耶夫人(まやぶにん・マーヤー夫人)の間に誕生され恵まれた日々を過ごしておられまし
た。
 太子は29歳で出家され35歳で成道の境地に達せられ80歳で涅槃に入られたという当時
としては長寿を全うされました。誕生年についてはいろんな説がありますが今より
2500年くらい前に実在されていたことは間違いありません。
 太子時代は王侯貴族の身なりでターバンの前に冠、臂釧、腕釧などの装身具を付けて
いてこれが現在の菩薩の姿の原型であります。成道以降は宝冠や一切の装身具を付けて
いないのですが、仏陀だけは成道以前でも如来の姿で表現されることがありややこしい
です。宝冠ですが髪を束ねた前面に冠を付けたものでターバン冠飾とか呼ばれており私
もその呼称を使いました。「衣服の交換」で修行僧らしい質素な服装に変身されますが、
仏像が造られるようになった時、太子には王侯貴族の姿が相応しいと考えられ採用され
たのでしょう。
 出家されて剃髪されたとのことですが剃髪の太子を見ることはできませんでした。仏
像が仏陀入滅後5世紀もの長い間を経て造像されましたが入滅後直ちに造像されていれ
ば剃髪の太子が存在したかも知れません。

 入滅後の5世紀は仏陀不表現で仏陀の象徴として聖樹、聖壇、法輪、仏足跡、経行石
(きんひんせき)、聖樹と聖壇、傘蓋と払子がありますが経行石は今回初めて知りました。
 

 太子は現世に生を受ける前は兜率天で菩薩として修行されておりました。現在は弥勒
菩薩が兜率天で修行されております。
 仏陀は29歳で出家して35歳で成道されたのではなく過去の前世、前前世にわたって数
々の自己犠牲による善行の積み重ねの結果成道されたというのを表したのがジャータカ
と呼ばれ、わが国では「本生譚」「本生経」などと訳されております。本生譚は古代インド
に存在した人々に親しまれた民話や寓話の筋書きを素材にしておりますので分かりやす
く理解し易くなっております。釈迦の前世は国王、僧、女、動物などに姿を代えて自己
犠牲の布施行を説くものです。本生譚は547話と多くあります。
 一方、仏伝図とは仏陀の生涯における様々な出来事を浮彫、絵画で表したものですが
ガンダーラに多くあり逆に、ガンダーラでは本生譚はあまり好まれなかったようです。
仏伝図は絵画の遺構が少ないです。
 本生譚は遠い過去からの仏陀の伝記を浮彫、絵画で表したものですが仏伝図と同じく
絵画の遺構は少ないようです。

 本生譚、仏伝図ともにわが国の絵巻物と違うのは絵巻物は捲きながら閲覧いたします
ので元に戻ることは出来ずしかも空白が多いのですが本生譚、仏伝図は人物、動物、植
物を充填して空白をなくしているのと物語が上にまたは逆に下に進行したり、または、
反転して左に行ったり右に行ったりと煩瑣すぎる感じがいたしますが、いろいろな出来
事の発見が出来る楽しみがあります。ただ、その作品を眺めても何を表現しているのか
分らないものも多くあることも事実です。

 仏陀の生涯で大きな出来事を四つ、八つに分けまして釈迦四相、釈迦八相と言い、釈
迦四相には誕生、成道、初転法輪、涅槃があり釈迦八相は先の四相に獼猴奉蜜(みこう
ほうみつ)、従三十三天降下(じゅうさんじゅうさんてんこうげ)、舎衛城の奇跡(千仏化
現(せんぶつけげん))、酔象調伏(すいぞうちょうぶく)が加わりますが釈迦四相は変わ
りませんが釈迦八相には色んな説があります。

 

 太子、仏陀の時代とも常にガードマンとして 付き
添っているのが「ヴァジラパーニ」でわが国では「執金
剛神」と呼ばれております。手には強力な武器「金剛
杵」を持っております。
 それと、バラモン教の最高神である「インドラ」と
「ブラフマー」が仏陀の脇侍として従えております。
インドラもヴァジラパーニと同じく金剛杵を持って
おりますが本来、金剛杵はインドラの持物でした。
 わが国ではインドラは「帝釈天」、ブラフマーは
「梵天」と呼ばれております。


  ヴァジラパーニ

 

 

 例えとして適当かどうかは分かりませ
んが図のように仏堂の飾りに浮彫の石像
が嵌めこまれておりました。インド、パ
キスタンともに建物の外壁や階段の周り
に仏陀の象徴(後には仏像)、本生譚や仏
伝が所狭しと貼り付けられてその数は膨
大なものだったことでしょう。

 

  「燃燈仏授記(ねんとうぶつじゅき)」はガンダーラで多く見られます。これは仏陀の
前世の物語で、仏陀は前世、バラモンの修行僧メーガでありましたが燃燈仏から将来
には仏陀になることを授記(予言)されたという話です。


              燃 燈 仏 本 生

 


        


           燃 燈 仏 本 生

  メーガは過去仏の燃燈仏が近く都に来られることを知り是非お会いしたいと出向き
ますが燃燈仏に散華する蓮華は、王が買占めて入手出来ない状態となっておりました。

 左から進みます。
 1 右手に花、左手で水瓶を持っている花売り娘で来世のメーガ妃となる方です。
 2 右手に金袋、左手に水瓶をもっているのがメーガで、メーガはもう売る花はな
      いという花売り娘に強引に頼み有り金全部で5茎の蓮華を買い求めることが出
      来ましたが、買い求めた蓮華を散華しようにも人込みで燃燈仏に近づくことが
   できません。だが幸いなことに、降雨があり人込みも解け燃燈仏の前に進むこ
   とができました。
 3 メーガが燃燈仏の頭上に蓮華を散華するとメーガの蓮華だけが燃燈仏の頭上で
      留まったのであります。そこで、燃燈仏よりメーガに来世は仏陀になるだろう
      との授記(予言)を賜りました。
 4 燃燈仏から将来仏陀になることを予言されるとメーガは空中に舞い上がり燃燈
      仏に合掌礼拝いたしました 。
 5 降雨によるぬかるみに燃燈仏が差し掛かるのを見てメーガは髻を解きほぐして
      ひれ伏し髪をぬかるみに敷き燃燈仏の足許が汚れないようにしました。  
 

 


                過去七仏と弥勒菩薩

   上図は「過去七仏と弥勒菩薩図」ですが右の一仏が破損して六仏となっております。
左端は未来仏の弥勒菩薩です。過去七仏とは
毘婆尸仏(びばしぶつ)・尸棄仏(しきぶ
)・毘舎浮仏(びしゃふぶつ)・拘留孫仏(くるそんぶつ)・拘那含牟尼仏(くなごんむ
ぶつ
)・迦葉仏(かしょうぶつ)・釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)のことです。釈迦牟尼
仏以前の遠い過去に六仏が居られたということですがそれでは燃燈仏はどうなってい
たのでしょうか。

 

 「六牙象本生」は仏陀の前世の物語です。

 


               六牙象本生  全体図


      部分図


        部分図

  仏陀が前世で六本の牙がある象王(青矢印)だった時の話で、象王が一人の王妃に贈
り物をしたのをもう一人の王妃が見て嫉妬狂い死してしまいます。その亡くなった王
妃はある国の王妃として生まれ変わりました。そこで王妃は前世の恨みをはらすべく
王に六牙の象を殺して牙を取ってきてほしいと懇願いたしました。王は猟師を集め六
牙の象退治に行かせます。猟師(赤矢印)は身をひそめ隠れ待って目的の象を仕留め牙
を切り取り王の許に持ち帰りました。持ち帰った牙を王から見せられた王妃は希望が
叶いましたが前世での夫だった象王を殺害するという自分の犯した罪の深さに苛まれ
てショック死してしまうという話です。六牙の象王には傘蓋があります。
  六牙の白象の話は後述の
托胎霊夢でも出てまいります が同じ白象だったのかは分
かりません。

 

  大猿本生

  仏陀は前世で動物であったといいその動物には象・猿・鵞鳥などがありますが我が
国ではあまり好まれませんでした。 


      
大 猿 本 生


       
大 猿 本 生

  ある国の王は川に流れるマンゴを拾って食すると美味しかったので王は川上の木に
生ったマンゴを取りに行きますが猿たちがマンゴを守っていて取ることが出来ません
でした。そこで王は邪魔する猿たちを退治するため兵士に攻撃を命じました。攻撃を
受けては大変と猿王は一族の猿を安全な向こう岸に逃がすため自己犠牲の精神に則り

両岸の木の枝を手と足で掴み
両岸を繫ぐ橋となったのであります。王は猿を排除して
マンゴを取りに来たのですが猿王の危険極まりない行為に感動いたしまして直ちに兵
士に攻撃を中止させると同時に万が一猿王が落ちても大丈夫なように兵士に救助幕を
はらして猿王を逆に守ったという話です。

  1はマンゴが流れる河、2は矢を引いてまさに猿を撃とうする兵士、3は橋代わり
となった猿王、4は猿王の落下に備えての救助幕を張る兵士、5は猿王と歓談する王
です。

  他の本生譚は後述いたします。

 

  托胎霊夢(たくたいれいむ)
 「托胎霊夢」とはマーヤー夫人が白象が右脇から胎内に入り込む夢を見て太子を懐妊
したという話です。白象は太子が変身したものです。


        托胎霊夢


        托胎霊夢

   白象ですがインドでは象(青矢印)はそのまま表されますがガンダーラでは象(赤矢
)は円盤内に表されます。これはインドでは夢の中でなく現実に象が兜率天から降下
したと考えられたのではないかとも言われておりますが定かではありません。
 ガンダーラの円盤は、マーヤー夫人の夢の中での象ですよということなのかそれと
も、白象は太子そのものですから光背として付けたのでしょうか。それというのも誕
生直後の太子に光背がある物もあるからです。
 通常、マーヤー夫人は左脇を下にして横たわっておりますが左図のように右脇を下
にしているのは珍しくこれでは象が胎内に入り込むのに苦労したことでしょう。

 

  占 夢


       占 夢

 「占夢」とは仏陀の生母となる王妃の
マーヤー夫人から白象が右脇から胎内
に入り懐妊したという托胎霊夢の話を
聞いた王が、早速バラモンに不思議な
夢を占わせたところ生まれてくるのは
太子で将来は転輪聖王か仏陀になられ
るであろうと予言いたしました。
 中央の玉座に座るのが王で左側で椅
子に腰を掛けているのが王妃で、右が
占い師でありましょう。

 

  誕 生

 
                 誕 生


 ヤクシー

  マーヤー夫人は里帰りして散歩中、ルンビニ園で急に産気づき無優樹の樹枝を右手
で掴むと右脇腹から太子が誕生いたしました。夫人の右脇腹ではなく右腹からの誕生
と見えますが。太子をうやうやしく受け取るのはインドラで、その後ろで合掌礼拝す
るのはブラフマーでしょう。マーヤー夫人の右隣で介添えする女性は夫人の妹君で太
子の継母となるマハープラジャーパティーでしょう。
 マーヤー夫人は太子そのものである白象が右脇から胎内に入り同じ右脇から太子が
誕生されたのは処女懐胎を表現しているのでしょうか。
 マーヤー夫人のポーズはインド古来の樹神ヤクシーのポーズを真似られたものでし
ょう。腰のくびれによりバスト、ヒップの豊満さが一層強調されておりますが我が国
ではあまり眼にかかれない女性像であります。

 

 

   誕生の後、7歩歩かれた「七歩行」と「灌水」ですが誕生するや否や七歩行された後
灌水されたという説とそうではなく灌水の後の七歩行という説があります。
 七歩行で歩かれた足跡には蓮の花が咲いたとの説が出来、後代には蓮の花の上を七
歩行されたという説が出てまいります。

 

  「灌水」はインドとガンダーラでは違いがありガンダーラでは誕生直後の太子に産湯
(温・冷の浄水)をかけるのはブラフマー、インドラでありますがインドでは龍が行う
という違いがあり灌水の場合の龍は人間の姿で表されます。


     灌 水


           灌  水
  パキスタンでは灌水を取り仕切るのはインドラ、
ブラフマーです。左右の端にいますのがインドラ、
ブラフマーでしょう。

  一方、インドでは竜蓋を着けた2龍が灌水しております。図では太子の誕生を2龍
(ナーガ)が合掌礼拝しておりますが灌水の状況を表したものです。この時の灌水は虚
空より降り注いだといわれるものであったのかも知れません。

 
  誕生するな否や独り立ちして7歩歩んで「天上
天下唯我独尊」と獅子吼(宣言)されたということ
で、当然生まれ立ての裸の筈ですがわが国では袴
を着けております。また、インド、パキスタンで
は両手を下げているか右手を施無畏印のような形
で左手を下すのですが我が国では図のように右手
が天を左手が大地を指し獅子吼されます。
 太子の誕生日が4月8日だと言われることから
我が国ではこの日に「花まつり」が行われ花まつり
の本尊に甘茶(甘露)をかけて誕生を祝います。白
象の上に太子を乗せた像もあります。


   誕生仏像(東大寺)

 

  御者と愛馬の誕生


     御者と愛馬の誕生


    黒駒(法隆寺)

  太子が誕生すると同時に後の御者のチャンダカ、愛馬のカンタカが誕生したとのこ
とです。画像は不鮮明ですが青矢印が御者のチャンダカで赤矢印が乳を飲んでいる愛
馬のカンタカです。太子が誕生した日に多くの人間並びに馬が生まれたとのことでそ
の中で最優秀な人間が御者のチャンダカであり駿馬が愛馬のカンタカだったというこ
とです。背景の馬は多くの馬が生まれたことを物語っているのでしょう。
 黒駒は聖徳太子の愛馬でした。

 

  勉 学

  太子は勉学、武芸に優れた才能を示されたということです。特に、相撲、弓術が抜
群と言われております。太子は教室内ではなく戸外で学ばれたことでしょう。

 
       通 学

 
           勉 学

  太子は羊に乗って学友と一緒に学問所に
通学されておりました。傘蓋を持っている
のは御者でないようです。太子と御者は同
年齢で図では少し年長者に見えます。右端
は先生のヴィシヴァーミトラでしょうか。

 筆記用具には木板か石板を使用したと
思いますが筆記しやすいような材質のも
のが選ばれたことでしょう。学んだこと
を書き留める太子と先生のヴィシヴァー
ミトラです。

  競 技

 


        レスリング




     レスリング・弓術

 レスリングは相手が死ぬかギブアッ
プするまで勝負したことでしょう。わ
が国の相撲も同じで昔は相手が亡くな
るまで勝負をしたようであります。

  下段はレスリング・弓術ですが上段はい
 かなるスポーツをしているのか不明です。
 太子は弓技では鉄製の的を打ち抜いたとも
 言われております。  


      象 投 げ

 太子は右手で象を持ち上げ今まさに投
げようとしております。
 他の人物は象の尻尾を掴み嫌がる象を
引っ張ったり右手で象を叩いている者も
おります。
  なぜ聖獣の象を投擲したり苛めたりす
るのが理解出来ませんが何か深い意味が
あることでしょう。

 


        
儀 式


            
儀 式   

  この儀式はお見合でしょうか結婚式でしょうか。

 

  樹下観耕


     樹下観耕

 「樹下観耕」の代表的な彫像で、堀辰夫の名作『大和路
・信濃路』の中に「あのいかにも古拙なガンダラの樹下
思惟像――仏伝のなかの、太子が樹下で思惟三昧の境に
はいられると、その樹がおのずから枝を曲げて、その
太子のうえに蔭をつくったという奇蹟を示す像・・・」
と紹介されております。
 
閻浮樹の木の下で瞑想されている太子です。宮廷生活
では何不自由のない恵まれた生活だったので苦しみとい
うことを知れなかったことでしょう。がしかし、今のあ
まりにも恵まれた生活に疑問を持ち始め、思いにふける
日常生活を送るようになりました。その原因の一つには
実の母親を生後たった7日目に亡くすという運命の悲し
みもあったことでしょう。
 太子がある農業祭に出席された時農地を耕すのに苦労
する農夫とこぶ牛、耕された土の中から現れた虫は小鳥
に啄まれ、ついには、小鳥も巨鳥に食べられるという強
食弱肉の現実を見て世の中の無情に衝撃を受け心を痛め

ました。
 太子がますます物思いに沈むようになり父王は心配して季節ごとに快適に過ごせる
三時殿を造営したり太子が出家しないように気を遣いました。
 閻浮樹は枝を曲げ、太子に陽が当たらないように影を造ってしかも太陽が動こうが
影は変わることがなかったと言われております。

 
台座の右側に犂を引くこぶ牛(青矢印)が描かれており左端で合掌するのは太子の瞑
想の姿を見て驚嘆した父王(赤矢印)です。中央に火の祭壇があります。


         
      樹下観耕

 2頭のこぶ牛を棒で追い立てながら犂を引かして耕作しているの
で牛は苦しそうであります。
 太子は
樹下で瞑想しますが悩みは解決することなくついには出家
へと繋がってまいります。

 

  宮廷生活 


                    全 体 図


         部 分 図


      部 分 図

  父王は太子に絶世の美女に囲まれたわが国の江戸城の大奥のような生活を過ごさせ
出家を思い留まらせようとするのですが、太子は虚しさが募るばかりで気が重くなっ
ていきます。
 全体図は男女の愛の交歓像がある区切りで七つの場面に分かれております。各場面
は王子が美女に囲まれて歓楽の時間を楽しむものでありますがこんな生活も長くは続
かずますます太子は深く悩むようになっていきました。取り巻きの女性たちは歌い楽
しんでいますが王子はここから抜け出そうとしております。

 

  四門出遊

 太子は城内の者が見守る中で城を
出ようとしております。東門を出れ
ば哀れな老人、南門を出れば病人、
西門を出れば死者と遭遇して老病死
の苦しみを知り、どうすることも出
来ず悩みますが、北門を出てみます
と修行者が見えその安らかな顔に衝
撃を受け出家を決意します。
まだ、
出家の出城でないので2階の官女た
ちも機嫌よく見送っていますが左上
の父王だけは心配げに見送っており
ます。
  太子の進むべき将来が決まる重大
な出来事です。


       
四門出遊

                  

  南門を出れば腹が異常に膨れた病人(青矢印)に会うという場面でしょうか。ただ
まだ城内に太子は居られるようにも見えます。

 

 出城前夜 
      出 城 前 夜 

 出家決意   
        出 家 決 意

  太子は昼間音楽とともに踊り狂っていた官女たちのだらしなく醜い寝姿を見て宮廷
生活に嫌気がさし出家を決意します。
中央で寝台に身を横たえて寝むりこけているの
は太子妃です。右図で起き上がっているのは太子で、ついに出家を決意します。太子
には左手を腰に当てる特徴があります。
  

 

  出家踰城(しゅっけゆじょう)


        出 城


           出 城

  太子が迎えにきた御者と愛馬で城を出ようとするところです。
 妃や城内の人々を起こさないよう馬には声を立てさせないために轡を嵌めしかも4
人のヤクシー(四天王か?)が馬の脚を支えて馬の足音がしないように進んで行きます。
傘蓋をささげているのは御者です。太子まさに御齢29歳。
 眠りに入っている妃を残して愛馬に乗って城を出ていきますが父王や妃に気づかれ
ないように出ていくためになぜ寝室にまで愛馬を入れ乗っていかれるのか理解できな
いことです。このことを出家踰城と言います。

 


                  出家踰城 全体図


               出家踰城 右半分

  居城から馬の蹄の音で妃が目を覚まさないようにヤクシャが馬の脚を支え馬を持ち
上げて進んでいます。
 左側の居城から出ていく太子を馬上の傘蓋で表しております。太子は4回にわたっ
て表わされております。
 中央の樹木は樹下観耕のジャンプ樹ではないかと言われておりますがその樹木を通
り過ぎても愛馬の足を支え愛馬を持ち上げ進んでおります。
 太子が愛馬から降りられたので馬上にありました傘蓋が太子の象徴である仏足跡に
掲げられております。仏足跡の太子に跪いて別れを悲しむ御者と茫然とたたずむ愛馬
です。
 右側で下段に反転し、太子の行かれた方向にうなだれ振り返る御者と愛馬。太子が
降りられたので帰りの馬上には傘蓋がありません。御者は手に太子から妃ヘ托された
太子が身に着けていた装飾品などを持っております。

 

 御者、愛馬の別れ

 御者と愛馬の帰城


 
    御者・愛馬との別れ


     御者、カンタカの帰城

  愛馬が太子の足をなめ別れを惜しんでおります。

 御者と愛馬は帰城しましたが太子の姿は見えず、太子の傘蓋と装身具だけが妃に届
けられ妃は悲しみにくれております。右端の人物は侍女でしょう。継母はどこに居ら
れるのでしょうか。

 

 仏陀の生涯−2へ続く