仏像の誕生−2


   
カニシカ王立像


                銘  記

 カニシカ王立像」は仏像が制作され始めた頃に造像
されました。なぜここに持ってきたかと言いますと仏像
制作以前に肖像彫刻は行われていたと考えるからです。
 この像がカニシカ王の像であることの確かな証拠は

青矢印
の所に銘記されている上記の文字で、
「大王、諸
王の王、天子、カニシュカ」と書かれているからです。
  スカートに長い外套をはおり大きな長靴を履いており
ます。インドではヤクシャ像は足を開いておりますがこ
れほど極端に開けば逆に不安定になるのに、王としての

威厳を示すためのポーズでしょう。衣の折り目は板を重ねたようになっておりますが
法隆寺の金堂本尊の裳も同じような形状になっております。
 右手で「マカラ」が刻まれた棍棒を上から押えて倒れるのを支えております。左手で
大きな剣を握っております。マトゥラーでは仏像は薄着ですが本像は厚着です。
 我が国の古代では仏像は制作いたしましたが天皇、皇族の肖像彫刻は制作されませ
んでした。ただ、僧侶の肖像彫刻は存在いたします。


       マ カ ラ 


     マ カ ラ

  インドには「マカラ」が建造物の魔除けとして活躍しております。頭は鰐、胴体は魚
という
空想上の海獣です。我が国の「鴟尾」も空想上の魚(鳥とも言われます)と言われ
ておりその原型はマカラではないかとの説があります。ただ、鴟尾の形は沓型に変わ
っていきます。それと、鴟尾が変化して「鯱(しゃち)」になったという説もありますが
どちらかと言えばマカラは鯱の祖先かも知れませんね。
 我が国では建造物の魔除けは鬼瓦一辺倒で鴟尾の使用は短期間で鯱も一部の仏堂の
みで使用するだけで主に城郭で用いられております。いずれにしても鴟尾も鯱も中国
から請来したものです。


 マカラ(大雄宝殿・萬福寺)


  宝珠(大雄宝殿・萬福寺)


 マカラ(開山堂・萬福寺)

  京都の「萬福寺」は黄檗宗の大本山で名僧「隠元禅師」が開創されました。寺伝により
ますと隠元禅師が中国福建省から来られる際に隠元豆・西瓜・蓮根・孟宗竹・木魚な
どを持って来られたということです。
 図のマカラ(摩伽羅)と宝珠(火焔付き二重宝珠)は、「大雄宝殿」の大棟の、左右に
マカラ、真中に宝珠が挙げられております。右のマカラは開山堂ものです。
 大雄宝殿の「大雄」とは「仏陀・釈迦」のことですから本尊は仏陀であります。ただ、
黄檗宗では「だいゆうほうでん」ではなく「だいおうほうでん」と称します。
 寺院での主要な建物は我が国では金堂、本堂ですが中国、韓国では大雄宝殿です。
 宝珠はマカラの脳から出たものとの伝説がありますが萬福寺はいかなる理由で宝珠
とマカラを用いられたのでしょうか。

 

 

   「仏像の誕生」はガンダーラで起こり次いで間もなくマトゥラーだと言われており
ます。が、仏像制作はガンダーラ、マトゥラー共にほぼ同時期に起こったとの説もあ
りそれらの根拠は仏像の様式が全然違うからです。しかし、ガンダーラ誕生説が多数
派であることは事実です。
  仏陀像がガンダーラで考え造り出されたことは画期的とも言え、もし仏像が制作さ
れなかったら仏教がこれほど世界的に広まらなかったことでしょう。大乗仏教が拡大
発展したのも仏像があればこそでしょう。ガンダーラ仏は我が国の仏像にも大きな影
響を与えております。
 仏像待望論が起きたのは当然の成り行きで、文字が読めない人々に仏伝や本生譚の
「絵解き」を行い、ストゥーパを始め聖樹、聖台、仏足跡などの仏陀の象徴を仏陀その
ものと思えと吹き込んだことでしょう。そう言われても、聖壇の上に透明人間の仏陀
が居られるとは想像できなかったことでしょう。
 比丘たちにおいても仏陀像を待ち焦がれていたのではないでしょうか。

 仏陀入滅後直ちに超人的な仏陀像を制作しようとしても、仏陀は人生の大半を布教
に費やされ多くの人々に会って居られたため、仏陀には光背、肉髻、縵綱相などは無
かったと見破られてしまうので出来なかったのでありましょう。
 しかし、仏陀入滅後5世紀を経て仏陀のことを知る人は居なくなったとはいえ、当
時の工人たちは創意工夫しながら仏陀像を制作したことでしょう。これらの出来事は
すべて我が国で言えば弥生時代のことです。
 その工人たちの仕事量は、王侯貴族とか豪商という富裕層の男女が上座部仏教であ
りながら仏陀への功徳によって来世に浄土に生まれ変われることを願って寄進を多く
しておりますので多かったことでしょう。

 パキスタンでは大乗仏教、密教が起こり多くの種類の仏像が考案され、それが砂漠、
大都市、大海原を超え、はるばると我が国にやってきて、国民の大多数が仏教徒とい
う現状を生み出したのであります。
 仏教ほど他の宗教の神々を取り入れているのは異例と言え、それだけに仏像の数は
半端なものではありません。
 密教の発祥地はパキスタンのスワートです。
 パキスタンのガンダーラという地名は現在ありませんが一方のインドのマトゥラー
は現在も地名が残っております。マトゥラーの近くには最近(2007.07.07)「新・世界
七不思議」に選ばれた「タージ・マハル」があり観光客はこのタージ・マハルには必ず
と言っていいくらい寄られますがマトゥラー博物館は見学コースには入っていないの
は惜しい気がいたします。

 

 ガンダーラの仏像は硬い緑泥片岩製であるため黒っぽいのに比べてマトゥラーの仏
像は黄白班のある赤色砂岩製で赤っぽいのですぐに見分けがつきます。ガンダーラで
は厚着で衣の襞は大きく表現されますがマトゥラーでは薄着で襞を表現するのを避け
ようとしております。
 仏像の素材の関係でガンダーラ仏は硬い感じでマトゥラー仏は柔らかい感じがいた
します。
  
 仏の優れた容姿に32の大きな特徴と80の細かい特徴がありそれらのことを
三十二相八十種好(さんじゅうにそう・はちじつしゅごう)と言います。これらの総称
を三十二の相と八十種の好を取って「相好(そうごう)」と言います。日常生活で使
われる相好の語源であります。

 

  我が国の仏像の故郷であるガンダーラ仏の特徴ですが、


     頭光に文様あり

 
     頭光に2筋の文様あり

 「光背」はガンダーラの初期は頭光のみで形状は円形で文様なし無装飾です。この
円形の頭光はガンダーラでは長く続きました。上図は装飾文様がある光背で珍しく
右図は菩薩の光背です。

 「顔」はやや面長であり、我が国では当初はやや面長でしたが間もなく丸顔に変わり
ます。

 三十二相の肉髻相(にっけいそう)とは、仏陀の頭頂の肉か頭頂の骨が隆起してい
て肉が髻のようになっているので肉髻とい います。ですから頭頂の骨ではなく肉と言
うことになりますがそんなことは関係ないことでしょう。
 ふさふさとしたウェーブ状の長髪を頭上で図のように頭頂の髪を束ねそれを紐(
矢印
)で結んで出来た髪の盛り上がり髻となったもの ですが三十二相の肉髻とする際
に髪を束ねたものでは特徴にもならないので頭頂の肉の盛り上がりと変更されたので
しょう。仏陀は巻いていたターバンを外してから剃髪をされましたが比丘と同じ剃髪
ではあまりにも怖れ多いということで考えられたのが肉髻となったのでしょう。肉髻
は当初、肉の隆起ではなくウェーブ状の髪でしたから思い思いの形に作られました。
後述の「清涼寺の釈迦如来立像」の髪型はガンダーラでも変わったものと言えるくらい
ユニークなものです。

 図の左からみると髪の毛は自然なウェーブ状が螺髪に変わりつつあるのが理解でき
ます。我々が見慣れた如来像の頭上に螺髪が付いたものしか知りません。

 眉毛は浮彫りではなく線で表しております。

 
白亳も一石から彫り出しておりますがよく残っていたと感心しております。白亳
は白い毛ではなく吹き出物のようであります。我が国では仏像の素材は石材ではなく
木材で白亳の位置を彫り込み水晶など嵌めております。ガンダーラにも水晶など嵌め
こんだ白亳もあります。
 
 
は人間本来の眼で自然な形です。
 
鼻筋が通り西欧人の鼻にそっくりです。鼻は高いですが鼻の下が短いです。
 
口許はアルカイックスマイルのように見えます。  

 

  「耳朶」は我々の耳と変わらないですが時代とともに
耳朶は長く垂れ下りついには肩まで届くものまで現れ
ます。
我が国では耳朶が長いのがお馴染みです。

 「は彫りが深く真ん丸いこの眼こそ杏仁形の眼で
しょう。我が国での眼は杏仁形ではなくアーモンド形
であります。間もなく瞑想的な半眼となっていきます。


 「口髭」は浮彫りの立派な髭でありわが国の仏像にも
口髭のあるものがあります。我が国の
口髭は筆で書い
たものが多く今では退色して
識別出来なっております。

 口髭はガンダーラ仏の特徴であり後述のマトゥラー
仏には口髭はありません。

 ギリシャ、ローマの神像には顎鬚がありますが仏像
には顎鬚はありません。しかし図の苦行像には顎鬚が
あります。
 口髭は仏陀の偉大さを表すために付けられたのでし
ょう。
 口は小さいようにみえます。


   苦 行 像

  

 「衣文線の襞」ですが首元は放射状ですが右肩か
ら左腋かけて緩い曲線を描く並行する襞が左腋で
急に反転(緑矢印)いたします。
 臍の下あたりから身体の中心を並行する襞は曲
線ではなく直線に近くしかも折り返しは鋭角的と
なっております。
 襞は大波(青矢印)、小波(赤矢印)の繰り返しの
翻波式衣文であります。我が国ではこの翻波式衣
文は平安時代の始め弘仁・貞観時代に流行し
「新薬師寺本尊・薬師如来坐像」が有名です。
また、「室生寺本尊・薬師如来立像」は複翻波式衣
文(漣波式衣文)で名高いものです。

 口髭と言いこの翻波式衣文など我が国の仏像の
様式の根源はガンダーラにあると言えましょう。 


      右 手  


    左 手  

  「縵綱相(まんもうそ
う)」とは指と指の間に水
鳥の水搔きのような膜が
あることを言います。
 図の右手首はよく残っ
た方です。ガンダーラの
場合右手はほとんど破損
しております。
 右手には縵綱相があり
ますが左手には縵綱相が

がありません。このことはそもそもの発端が破損し易い指を保護するために彫り残し
たものだからです。左手は衣の端を握っていて補強が要らないから縵綱相がないので
しょう。しかし、衣の端を握った左手にも経典に忠実に縵綱相がある場合もあります。
 三十二相の一つである縵綱相ですが我が国でも同じように縵綱相についてはあまり
関心がなかったように思われます。
 ガンダーラでは手首は別材で造られ後に取り付けられております。

 ギリシャ彫刻の遊脚である片足に身体の重心を掛けもう一方の足を浮かせいかにも
歩き出そうとする瞬間を表したものであります。しかしこのことは脚を見ただけでは
判断が付きませんが左膝が前に出て大衣に膨らみが出来ておりますことから判断でき
ます。この膝の膨らみが黒光りしておりますのは膝の悪い方が膝の快方を願っての撫
ぜ仏だったのでしょう。本来四足の人間が二足歩行では膝が悪くならざるを得なく室
生寺の釈迦如来坐像も撫ぜ仏だったのか膝が光って居ります。
 青矢印
の所の色は彩色に使われた色ではないでしょうか。 

 ガンダーラ仏は壁などに取り付けられていたようで背面は扁平で奥行きがありませ
んが高浮彫のため正面、横から見ても丸彫のように見えます。これらの仏像は礼拝像
であって、荘厳のためのものではないでしょう。 
   
 制作年代は不明なものがほとんどで書籍によっては年代幅が5世紀に及ぶものもあ
ります。
 ガンダーラ仏は青黒色の片岩製で
両肩を覆う通肩で厚手の大衣を着用し肉体は表現
されませんが量感は感じられます。ギリシャ・ローマの貴族・神像の衣の襞のようで
自然なものとなっております。

 ガンダーラでは仏像の制作にはギリシャ人が参画しておりましたがギリシャの人体
表現に近づけることに抵抗を示し、仏陀に備わった
超人間的な特徴として頭光、肉髻、
白亳、縵綱相、長い耳朶、施無畏印や説法印の印相などを加えたのでしょう。最近に
なってガンダーラ仏はギリシャではくローマの影響が大ではないかという説も出てお
ります。
 

 厚手重々しい衣となっているのはパキスタンはインドと違って国土は標高があり冬
は冷え、街頭では毛布を巻いた人をよく見かけることから仏像も厚手の衣となったと
みられ、インドのマトゥラーの薄着とは大きな違いがあります。
 
 立像の様相はこころもちなで肩で右手は施無畏印、左手は衣の一端を握っておりま
す。


      仏陀立像


     仏陀立像


     仏陀立像

 上図の立像は仏像が制作開始された頃のもので頭の髪は螺髪ではなくウェーブ状の
髪型です。立派な口髭をつけておりますが台座がありません。
 左側の仏陀立像は2.6mもある巨像で保存状態も最高でガンダーラ仏では代表作と
されております。施無畏印の右手、衣の端を握っている左手の両手が揃って奇跡的に
残っております。それと、光背は本体との一石造のため光背が破損すれば補修は不可
能です。ですから、光背が残っておれば貴重な遺品といえます。我が国では光背は本
体と別材で制作されておりますので補修可能という違いがあります。

 

 

 これより頭髪が螺髪となっていきます。中には螺髪が規則的にきれいに並んでいる
像も出てきます。


   仏陀立像


  仏陀立像


  仏陀立像


  仏陀立像


  仏陀立像


  仏陀立像


  仏陀立像

  仏陀立像

 仏陀の生涯の「優填王の造像」を模刻して持ち帰った像が「清涼寺本尊・釈迦如来立
像」と言われるだけに清涼寺像には口髭があり、頭髪は長髪から螺髪に移る過渡期の
渦巻状の縄のような螺髪、翻波式衣文、大衣が頸まである通肩、大衣は放射状に波紋
を描くような流水文で、大衣の裾が短くなっておりガンダーラ、マトゥラーの様式を
引き継いだ魅力ある像です。近くでの拝見が許されますのでじっくりとご覧ください。


    仏陀立像

 金色相の金箔が所々に残った貴重な仏陀像です。
 三十二相の「金色相(こんじきそう)」で片岩に金箔を貼る
漆箔で当初の像は全身が金色に輝いていていたことでしょ
う。それと、彩色像もあったらしく赤色などで彩られてい
たらしいです。先述の台座の色がそれではないかと考えま
す。
 我が国での金色相ですがインド、パキスタンと違うのは
我が国ではブロンズ像に金メッキを掛けた金銅像でありま
す。インド、パキスタンで金銅像の話は聞けませんでした
が金銅像も存在したが何か別物に流用されたのでしょう。

  

 

 

 
      仏陀坐像

 「仏陀坐像」は頭光、手首も残るガンダーラ仏の
中でも傑作の一つです。
 頭光は無装飾の時代の作です。
 頭髪はウェーブ状の髪を頭頂で紐で束ねて肉髻
としております。
 耳朶はまだ短く、白亳は小さい突起物です。
 浮彫りの口髭で威厳さが加わりましたが日本人
好みの理知的な顔ですね。
 偏袒右肩はガンダーラ仏では坐像に多いです。
 転法輪印(説法印)は大日如来の智挙印によく似
ており智挙印の先駆けでしょうか。転法輪印の仏
陀はマトゥラーには存在いたしません。
 足裏には千輻輪相がなくガンダーラ仏にはない
ことが多いです。
 結跏趺坐で坐し、足首を表した場合裙が足下か
らU字型となって台座に掛かっているのは裳懸座
の原型でしょう。 

 台座は獅子座で両脇に正面向きで沖縄のシーサに似た獅子(青矢印)がおりますが獅
子は簡略化されて頭と足だけで胴は省略されております。

 

 


       仏陀坐像


      仏陀坐像

 左側の「仏陀坐像」の頭髪は、ウェーブ状の髪と肉髻部は螺髪と珍しい髪型です。
 
 右側の「仏陀坐像」は螺髪ですが螺髪となるのが遅れたのは三十二相の螺髪が決まる
のが遅れたためでしょう。
 俯き加減の顔のため瞑想する情感を強く感じられます。深い瞑想に浸っておられる
ことでしょう。
 台座は獅子座で中央に禅定印の仏陀を礼拝する供養者が刻まれております。

  


    仏陀坐像


     仏陀坐像


    仏陀坐像

 

 

  4.5世紀になるとストゥッコ(スタッコ)という塑像が多くなります。塑像は個性
の表現に適しているのと顔の表情が柔和になります。ストゥッコとは篩い土に石灰を
混ぜた漆喰像のことです。
 ストゥッコは修正が限りなく出来るので優れた表現の像が造れます。
壁面に張り付
けられた浮彫像で彩色されておりましたが現在は剥落しております。
顔の表現が清楚
ですがすがしく感じるのは澄んだ瞳だからでしょう。 


    仏陀立像


      仏陀立像


   仏陀立像

 


   仏陀坐像


     仏陀坐像


    仏陀坐像

 


    仏陀坐像


   仏陀坐像


    仏陀坐像

  
 
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