仏塔のお話-2

日 本

  
    五重塔(法隆寺・北面)


   三重塔(薬師寺・西面)

  我が国の仏塔ですが先述で塔婆から塔になったと言いましたが塔婆はお彼岸やお盆
などに祀られる木製の「角塔婆」、「板塔婆」があり先祖供養で用いられます。この塔婆
は五輪塔にもなっておりますのでわが国独特のものと言えましょう。我が家は浄土宗
ですから板塔婆を祀りますが宗派によっては行われておりません。五輪塔は我が国で
考案されましたが五輪の思想は中国から伝わったものです。
五輪とは天地万物を形づ
くっております地、水、火、風、空を表しております。
 
 我々日本人に愛される建物のナンバーワンは色褪せた「仏塔」でしょう。中国のよう
に階上へ上がれる構造ではなくあくまでも礼拝するための仏塔だけに見栄え良く造ら
れておりますので素晴らしい眺めであります。
現在もそうですが我が国では仏塔を宗
教的建築物としてではなく風景の一部分として眺める傾向があります。確かに、遠く
から眺める仏塔は魅力的であります。二層以上には床もなく実用的な構造になってい
ないのに
高欄が設けられておりますのは装飾のためであります。

 
我が国と中国の大きな違いは中国では仏塔が宗教的な施設のみではなく階段が設置
され最上階まで登れる
展望台としての目的がありましたが、我が国では仏塔そのもの
が寺院であって仏塔内には僧侶といえども立ち入ることは許されませんでした。
イン
ドで仏塔が造られた時は仏陀の象徴として仏塔が崇められ
、我が国でも古代はインド
と同じ考えで
したがそれが現在では仏塔は境内を荘厳する装飾的な役割となってしま
い、寺院の中心的な建造物に戻ることはありませんでした。
 古代の仏塔は聖なる建築である例えとしては先年法隆寺でガイドをしていた時のこ
とですが、ある方が五重塔の基壇に腰を掛けていたため厳しく叱責を受けていたこと
がありました。
 中国式仏塔が伝わって来たにも関わらず釈迦のお墓の精神を尊重して2階以上には
床を設けない1階建の三重塔、五重塔を釈迦塔として造立いたしました。百済からの
渡来人が造立に関わって建設された当時の飛鳥寺塔が、我が国で多く見られる木造塔
の原形と考えると、我が国最古の飛鳥寺は韓国で考案された木造塔が源流かも知れま
せん。ただ、中国、韓国ともに古代の木造塔が一つも残っていないだけに結論付けは
できません。その点、我が国には古代の木造建築が多く残されていることは幸せです。
我が国でも19世紀になると人が上れる五重塔が建立されており「興福寺五重塔」は室町
時代の再建ですが最近まで上らせて貰えたそうです。

 古代の仏塔は心柱を守る建物です。五重塔でも三重塔でも構いませんが見栄えが良
い建物でないと有難がられることがなく、礼拝の対象としても相応しくありません。
古代の我が国では舎利を崇拝するより塔を崇拝する方が好まれたのではないでしょう
か。それというのも神木信仰があったことと当時は土葬であって火葬の習慣もなく現
在のように遺骨を礼拝の対象とは考えもしなかったと思われます。  

 平安時代の我が国では仏塔が流行いたしまして「浄瑠璃寺」辺りを現在は「当尾」です
がその昔は数多くの塔があったらしく「塔尾」と書かれておりましたのと京の都でも仏
塔が多く造立され「百塔参り」が盛んに行われたとのことです。

大官大寺跡 

  木造塔は三重塔から十三重塔まで建立
され、「大官大寺」には九重塔、東大寺や
諸国の国分寺には
七重塔が建立されまし
た。現在残っているのは三重塔と五重塔
ですが
「十三重塔」では先述の談山神社が
唯一の遺構です。
 大官大寺は
天皇の寺院ということで
明日香ではずば抜けて大規模を誇ってお
りましたが今はその面影もなく、金堂と
講堂のあった辺りは畑になっており周囲
はのどかな田園風景です。


      大官大寺跡

  飛鳥時代の寺院は国家鎮護の寺院ではなく私寺でしたので仏塔は仏陀そのものとし
て崇めました。次の時代となると国家鎮護の寺院となり建立された仏塔は崇めるとい
うより権威の象徴に重きが置かれ七重塔、九重塔などの高い仏塔が建立されました。

 我々がよく目にする三重塔、五重塔は先述の多檐塔に対して多重塔とか多層塔と呼
ばれます。
 多重塔は難しい建造物であり基本的な構造は変わらない保守的な建物です。金堂・
仏塔に用いられた木組の「三手先」は金堂、本堂では使われなくなりましたが仏塔だけ
は現在まで用いられております。我が国は、中国に比べ降雨量の多く、また中国のよ
うに雨に強いレンガや塼造りと違って木材と土壁で造られております。これらを風雨
から守るためにも深い屋根でなければならず、その深い屋根を支えるには三手先が必
要とされました。ただ、我が国の特徴である屋根の出が深いことは機能的な面だけで
なく視覚上の美しさの表現をも兼ね備えております。 
 屋根の反りとしても中国のような大きな軒反りではなく吹き込む雨から土壁を守る
ため優しい軒の反りとなります。が、兵庫県の「浄土寺浄土堂」は軒反りがなく軒は一
直線となる屋根となっておりますがそれはそれで男性的な厳しさがあり見応えがあり
ました。
 保守的な建物、仏塔とはいえ建築上不利であるにもかかわらず今だ平行垂木を使用
しております。 

 多重塔は一層ごとに積み重ね式で建築されますので一体化した建築ではありません。
本来、各重ごとに柱がなければならないのですが裳階には柱が無いので一重として計
算されないのです。多重塔の二層以上には床がありませんので何階建てというのは間
違いですが日常、何の疑念もなく階の言葉が使われております。ですから、仏塔にお
いて
通し柱は一本もなく唯一の通し柱は後述の心柱だけです。

 我が国は地震列島といわれ、頻発に地震が起きておりますが仏塔の倒壊はただ1塔
のみでしかも毎年訪れる台風での倒壊も数塔です。
 仏塔が何故地震に強いのかはっきりとしたことは分かりませんが仏塔の各層がヤジ
ロベイのように左右交互に揺れるので倒壊しない、とか重心の最高点と最低点は不動
でその間が左右に湾曲するので倒壊しないや心柱が仏塔の揺れを抑えるなどの説があ
りますが近い将来決定的な答えが出ることに期待いたしましょう。
 仏塔の建築では釘の使用は最小限に止めております。更にその釘は日本刀を同じ工
法で造られた千年くらいの長期に耐えられるものです。余談ですが日本家屋の寿命は
30年とか40年とか言われているのは釘の寿命から割り出したものとも言われておりま
す。釘を使わない仏塔といえば後述の「西明寺三重塔」で、通常古代の建築は最小限の
釘しか使わず、しかも建築の木組は積み木のように組んでいますので損傷した部材の
取り替えも簡単に出来、長期保存が可能なのです。このように、古代の建造物は積み
木のように簡単にばらして移築が出来ますので古代の建造物は不動産ではなく動産と
言うべきでしょう。後述の「切幡寺大塔」は住吉大社神宮寺から解体移築されました。
 底面積に比較してのっぽの仏塔が倒れずに生き永らえてきた雄姿には驚かされます。
しかし、何分背の高い仏塔だけに雷が苦手で被害は結構あり670年の法隆寺の火災も
五重塔に落ちた雷が原因でした。  


 連子窓が盲連子となっておりますのは塔内の壁画を守るためでしょう。仏堂の堂内
に壁画を描くことが段々と薄れていきますが塔内に壁画を描く伝統は続いているため
です。

 仏塔の中備として中の間には間斗束か蟇股、脇の間には間斗束か蓑束だったのが近
世になると「東照宮五重塔」のように初重の四面すべての中の間、脇の間に蟇股を入れ
ております。その十二個の蟇股には十二支の動物の彫刻が施されております。禅宗様
式の仏塔は詰組ですので何も入りません。
 
 平安時代ともなると仏堂の和様化が起こり建物の周りに縁が設けられ堂内の床も土
間から板張りとなりました。この傾向は仏塔にも及んでまいります。床下には「亀腹」
を築き、柱は亀腹に設置した礎石の上に立てます。
 「四天柱」は平安時代になると三重塔では省略されますが五重塔では常に設けられて
おります。
 室町時代から屋根の最上層だけを禅宗様の扇垂木とするものが現れて参ります。こ
のように和様に禅宗様の一部を取り入れた仏塔がほとんであるため和様とは言わず
「折衷様」にひとくくりにした方が理解し易いと思われます。禅宗様とは中国から請来
した様式で仏殿内は昔のままの土間床です。禅宗様の仏塔内は土間床でしかも仏塔の
周りには縁を設けたりはいたしません。

  古代の仏塔では正面性を示さず四面が正面ですが、舎利崇拝から仏像崇拝へと変わ
りますと祀られるのが仏舎利から仏像となり仏像の安置状態で正面が決まってまいり
ます。その場合塔内に祀られる仏像は顕教の四方仏か密教の四方仏が多いです。この
ことは仏塔が仏殿に変わったことを意味します。

 釈迦のシンボルの舎利ですが舎利と言えば釈迦の遺骨を指しますが東南アジア全域
で釈迦の舎利と言われるものが数えきれないくらい多くあり真偽のほどが疑われます。
さらには、釈迦の髪の毛、歯や釈迦が身に着けていたものまでが舎利と扱われました。
ついには、これ以上釈迦の舎利とは言えなくなりそこで考えられたのが釈迦の舎利よ
り釈迦の教えである経典の方が重要という解釈をして経典を納める法舎利が出て参り
ます。
 
 古代の仏塔は寺院のシンボルで絶対になければならなかったものですが中世になり
ますと浄土宗と浄土真宗では仏塔を建立することをせず、曹洞宗系寺院でも仏塔の建
立は多くありません。
  

相 輪


  サーンチー第一塔 


     サーンチー第一塔

 モラモラドゥ

 「相輪」についてですが「傘蓋」は日差しが強いインドでは釈迦
が暑かろうということで日よけ傘を奉納したのが傘蓋の起こり
です。本来は傘の形をしていなければなりません。また、傘蓋
は貴人のシンボルで傘の数で位を表わしております。
 左図のように何本かの傘蓋を並べ立てたり右図のように重ね
る形式がありました。現在我々が目にするのは傘蓋が九輪で積
み重ねる方式です。
 「相輪の輪(傘蓋)」を九重に重ねたのが通例であったので
「九輪」と呼ばれるようになりましたが九輪の輪の数は「当麻寺
東塔、西塔」はともに8輪、「長保寺の多宝塔」も同じく8輪で、
「談山神社の十三重塔」は7輪と珍しくこれらは九輪と呼ばれる
前の話でしょうか。
 九輪の「九」は大日如来、阿弥陀、阿閦、宝生、不空成就の五
如来と観世音、弥勒、普賢、文殊の四菩薩を合わせた9仏を表
す、または阿弥陀の極楽浄土の九品仏を表しているとか言われ
ますが確たる証拠はありません。
 
 優雅で格調ある様式美を誇る「水煙」のデザインは我が国独自
のものでしょう。それから、水煙の文様は火焔でありましたの
で火焔とも呼ばれておりましたが火という字を嫌い水煙といた
しました。火焔そのものの水煙は後述の「明王院五重塔」に記載
しております。
 仏教伝来当初は相輪全体を露盤と呼んでおりましたが現在で


 相輪(法隆寺五重塔)

は露盤とは最下部にある四角形のものを指し相輪全体を「九輪」や「相輪」と呼んだりし
ております。本来は最高部にある宝珠に仏舎利を納めるものですが我が国では宝珠以
外に納めたケースの方が多いです。
 「東大寺の東西塔」の高さは約100メートルということで相輪だけでも27メートルも
ありました。東大寺大仏殿を出た所に原寸大の模作が設置されておりますのでご覧く
ださい。天平当時、仏塔の高さは50メートルくらいが平均でした。

心 柱 

 「心柱」の役割ですがあくまでも相輪を支えるものであり構造的には建築とは関係な
く独立して建っております。
 心柱が高いものでなければならないのは、中国では高い所に神が宿る思想があるよ
うに我が国でも神籬(ひもろぎ)
、神の依代などと言われる高い垂直物(木)は神と人間
とを結びつける桟(かけはし)でありまた、高い神木には神が宿るという思想によるの
ではないでしょうか。
 我が国の巨木信仰は仏教伝来以前の縄文時代に遡るらしいです。柱とは建築の構造
材というより天上と地上を繋ぐものと考えられておりましたから
神を一(ひと)柱、二
(ふた)柱と数えるのでしょう。その昔、塔を刹柱と言っていたのは柱が重要視されて
いたからでしょう。それと、心柱も刹柱と呼ぶこともあります。
 聖なる心柱は塔そのものですから塔屋は心柱を保護する中尊寺金堂の鞘堂、覆堂の
ようなもので形状に関係なくどんな建物でもよいのですが仏陀の象徴として見られる
塔だけに見栄えが重要で我が国では塔身のほうが目立つ存在となっております。

 
 
我が国の神道では祭礼の際仮設の祭場を造り決まった社殿はありませんでしたので
固定した神木が選ばれたのでしょう。
 
 「
伊勢神宮の正殿(しょうでん)の床下にある心御柱(しんのみはしら)は御神体とい
う信仰を手本にして心柱を掘立式にしたのでしょうか。伊勢神宮では心御柱が最初に
掘立式で建立され式年遷宮後も心御柱は覆屋で保存されております。
 しかし、掘立式の心柱は間もなく基壇上の心礎
に立てられます。その訳は、我が
国では宮殿、神社などの建築は短期間で建て替える習慣に対し寺院建築は礎石を用い
永続性の建物を目指しているのに掘立式の心柱では耐用年数が短く不適格だからです。
 その心柱も平安時代になりますと初重の天井上に立てるようになりなります。
それ
は、仏塔に納められるものが仏舎利から仏像舎利へと変革したので心柱を初重の天井
上に揚げ初重内に仏像を祀るスペースを確保する必要があったからです。この方式は
五重塔でも採用されるようになりました。初重内に釈迦如来以外の仏像が祀られるよ
うになりますと仏塔は仏陀の象徴ではなくなり仏堂的仏塔となりました。  
 心柱が初重天井上に建てられたのは後述の「
一乗寺、浄瑠璃寺の三重塔」と海住山
寺五重塔
」が早く浄瑠璃寺塔にいたっては4天柱も省略されていて初重内はすっきり
したものになり初重内に薬師如来が祀られております。

 心柱は2本繋ぎか3本繋ぎとなっているのが通例です。その訳は重量のある相輪を
支えるには太い木材を必要とするため一本の原木ではどうしても先が細くなるので太
さが要求される心柱は繋がざるを得ないからです。

 心柱と塔屋とが連結されていないとはいえ塔屋の最上層では露盤と密着させて雨仕
舞いをしております。そこで起きる問題ですが、仏塔の組物の接合部は現在のように
少しの隙間もなくがっちりとなっていないので組み合わせが食い込んでいくことと木
材の乾燥、収縮などが重なり塔屋が下がってきます。一方、縦の方向(繊維方向)の収
縮はほどんどない心柱のため、年数を経ると塔屋が下ることによって心柱が五重目の
屋根を突き破り屋根と露盤の間に隙間が生じ、雨漏りが起きます。そうなると心柱を
塔屋の下がった分だけ切り落とさなければならない難問題が起きます。
 心柱は当初、掘立形式であったのが耐久性を考えて基壇の心礎上に建てられるよう
になりついには東照宮五重塔のように四重目から吊り下げる心柱が考案されました。
こうすれば心柱を切り落とす手間がなくなりしかも心礎は不要となりましたが心柱が
相輪を支えるという本来の役目は果たせなくなりました。 

心 礎 

 
   地中式・五重塔の心礎(橘寺・飛鳥時代)

  「橘寺五重塔」の心礎は
掘立式で
基壇の1.2mほど
掘った地下に埋められて
おります。直径90p 深さ
10cmの孔が穿ってあり、
その孔に心柱を入れます。
周囲にある三ヶ所を穿っ
た半円孔は心柱を支える
「添木孔(青矢印)」です。
地下の心礎は初めて目に
する珍しいものでした。

           基壇上式・心礎(野中寺・白鳳時代?)

 心柱を立てる場合、掘立式では心柱の根元が腐食して長持ちしないので長期的な保
存を考え礎石、心礎は
基壇上に設置するようになりました。
 基壇上の礎石群の中でも心礎は大きめの石が使われております。
 「野中寺塔」では舎利を納めた舎利容器を心礎に穴(赤矢印)を開けそこに安置されて
おりました。舎利容器を納める穴と添木を立てる穴がある心礎は珍しいと言えるでし
ょう。


   礎 石(本薬師寺東塔・白鳳時代)


   塔心礎(秋篠寺・天平時代)
   柱を自然石上に立てていましたが、
 礎石に枘を造り柱がずれるのを防ぎ
 ました。心礎も舎利が心柱か相輪内
 に安置されるようになりますと図の
 ように枘を造りました。

 基壇上に礎石、心礎が設けられたのは「本薬師寺」が最初ではないかと言われており
ます。その心礎には水と落葉がたまっており心礎内は確認できませんでした。
 本薬師寺は礎石を残すのみとなっております。

多 宝 塔

  我が国で仏塔と言えば多層塔(多重塔)
か多宝塔です。
 「多宝塔」は平安時代、我が国で考案さ
れた独特のもので先述の韓国仏国寺の多
宝塔とは建立の趣旨が違うようですが韓
国の多宝塔についての知識は持っており
ませんので不明です。
 多宝塔は密教と共に普及しました。
保守的な仏塔の中でこんな装飾的な塔が
誕生したのは美術を重んじる密教だから
でしょう。  
 昔、外壁が漆喰仕上げの「宝塔」という
ものがありましたがその外壁の漆喰が風
雨で損傷するため、漆喰の被害を防ぐ


  根本大塔(金剛峰寺・昭和12年再建)

解決策として裳階が付けられたのが多宝塔と言われております。多宝塔の一階頂部の
白色亀腹は宝塔外壁の漆喰の名残でしょう。
 多宝塔は一重の建物に裳階が付いたもので二重塔ではありません。平面では下層の
裳階部分が方形で上層が円形と独特の形状をしております。屋根は上下層とも方形で
下層屋根に白色漆喰の亀腹が載ります。上層屋根を通例、扇垂木するため難事業だっ
たことでしょう。
 下層の両脇間を連子窓にすることが多いです。板敷き床で周りに縁を設けます。 
  多宝塔は上層は円形で屋根が方形のため屋根の四隅では軒の出が大きくなりますの
で木組は「四手先」となっております。 
 下層の裳階が方三間のものが多宝塔、方五間のものを大塔といいますが大塔も多宝
塔の一種です。大塔といえば後述の「根来寺大塔」しか残っておりません。

 密教系寺院でも天台宗系の寺院は三重塔が多く、真言宗系の寺院でも多宝塔だけで
なく三重塔、五重塔も建立されております。
 神仏習合になると多宝塔は神社にも建立されました。それは、単層の神社の境内で
は多宝塔とバランスがとれて雰囲気的にマッチするからであり、五重塔では塔だけが
目立ち過ぎて恰好がつかないからでしょう。

 「多宝如来」の多宝塔に「釈迦如来」を招き入れた2如来が並座で祀られました。それ
がいつの間にか多宝塔は大日如来の三昧耶形(象徴)と変わっていきました。真言宗で
は最初から大日如来を祀りました。 
 
 多宝塔は当初から仏舎利を奉安せず仏像を祀りましたので初重内部をすっきりした
空間にするために心柱を初重天井の上に立てました。
 多宝塔は仏塔の四面が正面というものとは違い当初から仏像を安置したため正面を
持つことになります。しかし、仏塔も舎利崇拝から仏像崇拝に変わると正面を持つこ
とになります。

切幡寺大塔 


       四手先(上層)   


       切幡寺大塔(二重塔)

        上層の間口は3間

  初重の間口5間(2,3,4は出入口)

  「切幡寺(きりはたじ)」は徳島県阿波市に所在し四国八十八個所の十番札所です。
ただ、本堂までは333段の階段を登るうえ、大塔は本堂の左後方の山腹を切り開いた
高台にありますのでさらに数10段登らなければなりません。
 「切幡寺大塔」は廃仏毀釈の際「大阪の住吉大社神宮寺の西塔」を買受け、解体移築さ
れたものです。二重塔の唯一の遺構という価値ある塔が残ったのは当時の住職さんの
決断があらばこそでその功績は大きいです。
 「二重方形大塔」の出入口は正面は3戸ですが他の3面は1戸です。
 柱は層塔ということで初重と上層ともに丸柱です。多宝塔は初層の裳階部分の柱は
角柱であるのに後述の「慈眼院多宝塔」のように室町時代頃から裳階部分の柱が丸柱と
いうのが出て参ります。これは裳階は従属的な建物ではなく二重塔と考えて裳階部分
も丸柱となっていったのでしょう。
 初重は方5間ですので大塔ですが何故か上層が方3間となっております。通常、仏
塔と言えば方3間で稀に後に出て参ります上層が方2間というのもあります。
 初重が方5間ならば上層も柱間を縮めて方5間にせねばならないのに上層が方3間
というのは多宝塔が下層に比べ上層が細くなっていることを意識されてのことでしょう。
また、上層の組物は四手先で、通例、仏塔は三手先ですが多宝塔の上層が四手先にな
っていることを意識して設計されたのでしょう。
 相輪は最頂部に宝珠を置き、九輪の上にある四、六、八葉から多くの風鐸を吊るし
た宝鎖を吊り上げておりこれは多宝塔の相輪形式です。仏塔では四、六、八葉が水煙、
竜車となります。興味尽きない大塔でした。
 天台系寺院での多宝塔は二重塔形式で建立されたことがあるそうです。