天平時代 

天平時代は710〜784年で、長岡京遷都までのわずか74年間でありました。
 小野老朝臣が「青丹によし 奈良の都は咲く花の 薫うがごとく いま盛りなり 」と
詠んだように、律令体制による中央集権国家も確立され、重要政策の一つに、東大
寺、薬師寺などの建設には臨時の大組織の役所を設立して対応するほどの力の入れ方
だったのであります。
 国家権力が頂点であっただけに、絢爛たる仏教美術が花開き、わが国が大躍進を遂
げた明るく活気に満ちた時代でありました。
 

天平時代の大寺とは官寺という意味で、官寺が多く建設されました。これら官寺は
勅命の僧綱達によって監督されていました。時代は降りますが、法隆寺にある綱封蔵
の名称の由来は、僧綱によって開閉の管轄をされたからであります。それからよく間
違われるのは唐招提寺で、唐招提寺は鑑真和上が開山された私寺であるので、唐招大
寺ではありません。   
 天平時代は平城京内に墓を作ることは禁止されていましたし、それと、当時に建立
された大寺は現在も葬式の法要は行っておりません。

わが国の女性の天皇は、東南アジアで最初の女帝 推古天皇に始まり、皇極天皇
(斉明天皇)・持統天皇・元明天皇・元正天皇・孝謙天皇(称徳天皇)・明正天皇・
後桜町天皇の8人であります。天平時代の70余年で元明天皇・元正天皇・孝謙天皇
(称徳天皇)の3人もの天皇がおられます。なお、()内は再度皇位につかれた天皇名で
あります。
元正天皇、孝謙天皇(称徳天皇)とも独身で、阿部内親王(孝謙天皇)は有史
以来唯一の女性の皇太子でもあります。
 
孝謙上皇は藤原仲麻呂(恵美押勝)の娘婿の淳仁天皇を快く思われなかったのか、天
皇即位時に改元されるしきたりであるのに改元されずに、淳仁天皇は自身の年号を持
たれなかったのであります。 

次に、律令制度の労役、税金から逃れるため、かってに出家して仏門に入る不届き
者を排除するため、正式な受戒を受けた僧には戒名を与えました。東大寺戒壇院で最
初の受戒者は聖武天皇で、戒名は「勝満」でありました。戒名は、後の空海、最澄と言
うように“2字”で今日まで続いております。当時の僧侶といえば国家公務員のエリ
ートでありました。

  余談ですが、一般に戒名といわれるものには「真言宗、天台宗、浄土宗、禅宗は戒
名」「浄土真宗は法名」「日蓮宗は法号」で、その戒名に「浄土宗は“誉”」「浄土宗西山派
は“空”」「浄土真宗は“釈”」「日蓮宗は“日”」という号の字を入ります。
 
  現在、わが国以外の仏教国で、在家の者には戒名を与える習慣はありません。   
 それと、
わが国の年号は、唐の模倣である天平時代の天平感宝、天平勝宝、天平宝
字、天平神護、神護景雲の4字年号以外は2字が決まりであります。
  最近までは女性の名前も2字でした。例えば、とら、くま、たかなどでその名前の
前に「お」、うしろに「さん」を付けたりして呼んでいました。
 

それから、仏像を訪ねる旅なら古都奈良でしょう。天平時代は、仏像の表現で、理
想的人体にあふれる写実性を完成させた時代でありました。その影には、多くの渡来
人の活躍も目立ち、造仏技術の向上に大変貢献いたしました。官営造仏所では、巨像、
大量の像が制作された時代で、ただ不思議なことに優れた仏像が多数残されているの
に、制作者は殆ど記録されておりません。  その訳は多分仏像の制作が官営造仏所だ
ったからでしょう。

天平時代の伽藍配置は、塔は伽藍内に設けず、金堂も東大寺の金堂のように回廊の
正面奥に移動いたしました。ただ、薬師寺は天平時代の建立ですが、白鳳時代の本薬
師寺(旧寺)の伽藍様式に倣って建てられております。塔が伽藍外に設けられたのは、
釈迦の骨即ち塔崇拝から、大乗仏教の偶像崇拝(仏像崇拝)に移ったことを意味いたし
ます。
 

 仏教界を君臨した道鏡などのように政治に関与し、権力をもつ僧がのさばる弊害も
目立ってきたうえに経済の破綻もあって、長岡京への遷都となったのでしょう。
  その後の南都奈良はどうなったかといえば、僧兵を所有した興福寺などの一部の寺
院を除いて、他の寺院は時の政争に加わらなかったので、寺院の焼失を免れたのであ
ります。しかも、京都のような応仁の乱などで町全体が灰燼に帰するという不幸の出
来事にも遭遇しなかったのと、先人達が大切な国の宝を守り続ける努力のお陰で、今
日までの気の遠くなるような悠久の歴史が、連綿と続いているのであります。