古都寧楽(なら)の匠たち

  建築にしろ彫刻にしろ,限られた道具しかない飛鳥、白鳳、天平時代に、いくら朝鮮
から優秀な指導者や工人たちが渡来していたとはいえ、よくもあれだけの素晴らしい作
品ができたなぁと感心させられます。

  大化改新の舞台となった飛鳥板葺宮は、それまでの宮殿には地名を付けていたのに、
屋根の構造が、それ以前の茅葺きから板敷きになったことが珍しかったために、その名
が付けられたのでありましょう。何故かと言いますと、当時は製材用の縦挽きの鋸がま
だなくて、建物と言えば、掘っ建て柱、茅葺きの屋根であった時代でしたから、薄い板
は斧、楔などで割って作られています。当然、屋根板材は目の通った良質の材木でない
と駄目で、製材は相当な造作であったと想像されます。いわば薄い板は貴重品扱いだっ
たことから、宮殿の名称となったゆえんだと思われます。

  板一枚作るのに苦労した時代に,五重塔をはじめ堂塔伽藍までも完成させた匠たちの
技能には驚嘆するばかりで、質素な竪穴式住居に住んでいた庶民にとっては、それらの
堂塔伽藍は異国の世界を見るような出来栄えであったことでしょう。

 それには優れた技能だけでなく、良質の材木がふんだんに得られたからでもありまし
ょう。例えば吉野赤杉の割り箸を作るのに、今から
40年ほど前までは、赤杉の板を刃物
で割れば出来ていたのですが、最近では、真っ直ぐに割れる立派な赤杉が得られず、仕
方なく鋸を使用しているとのことであります。

  少し余談ですが、五重塔の柔構造を学んで現在の高層建築が生まれたと言われており
ます。しかし、高層建築の接合部はリベットでしっかりと固定されており、そのため揺
れる場合は躯体そのものが揺れるのであります。五重塔の場合は、材料の木を嵌め込み
式として、釘の使用量を最小限に押さえているので、揺れるのは木組みの接合部のずれ
によるものであります。

  一方仏像においても、平等院鳳凰堂の阿弥陀如来像などの秀作もありますが、奈良の
仏像を拝観しておりますと、他の仏像はつまらなく見えてしまうのは、私の偏見でしょ
うか。

  他の時代は完成の像を描き、制作するのに対して、天平時代迄の塑像などは、土の裸
形像を造り上げ、次にそれに土の下襦袢を着せていくという我々が衣装を整えるような
手間暇をかけて制作したのでありますから、出来上がった像は迫真せまる仕上がりとな
っているのは当然の結果といえましょう。

  このような優れた作品が生まれた背景には、仏教美術の制作が, 国の重要政策であっ
たからで、東大寺の大仏にしても、中国に追いつけ追い越せのスローガンで国造りが行
われているなか、中国では石像の大仏しかなかったのに、我が国は金銅像の大仏さんを
作ったのであります。

 仏像の材質にしていも、木、土、金と同じくらい価値があると言われた漆、銅など、
東南アジアでも考えられないほどの種類を、しかも自由に使えたのであります。そのうえ、匠の思い通りの作品を作ることが出来、匠たちにとっては大変恵まれた時代であり
ました。

  匠たちの待遇はと言えば、国家公務員のエリートで官の位が貰え、昇格して貴族にで
もなれば破天荒な待遇を約束されたのです。しかも一番下のランクの匠でも他の時代で
は考えられないほどの待遇でしたから、匠たちが頑張ったことは申すまでもありません。

  まあこれだけ優遇されれば、寧楽の匠たちも張り切って仕事に打ち込まざるを得ず、
その結果、優れた作品が生まれ、仏教美術の黄金時代が築かれたのでした。それだけに
この制度にはいろいろな弊害も出始め,次の平安時代からは、匠たちも官の位は授けら
れなくなり、その代わり、お寺に所属し僧の位が授けられるようになったのであります。