色(色)のお話

 先般 奈良明日香のキトラ古墳で、玄武が見えたといって大変な騒ぎでしたね。
そこで今回は、色(色)についてお話いたします。            

 玄武とは、北の方を鎮護する空想上の神獣で、東方を青竜、南方を朱雀、西方を白虎の四神が、四方を受け持っています。古代中国では、色や四季も四神に配しています。

 色については、東は青竜の青、南は朱雀の赤、西は白虎の白、北は玄武の黒です。それに中央の皇帝は黄です。昔は黒の字より玄の方がよく使われました。

(余談:昔 中国ではお坊さんのことを玄人、それ以外の人を素人といった。)

 古代中国の正色は五色で青、赤、黒、黄とし、聖人君子が使用する色とされていました。ただ中央の黄色は中国では皇帝しか使えず、北京の紫禁城の屋根瓦が黄色になっているのは、皇帝の宮殿だからです。しかし、日本では黄色は貴重な色として扱われなかったようです。
  皇帝の名称も黄帝の時がありました。
また、黄河は黄色く濁っているからでなく、文明の母なる大河という意味の黄河です。

 四神の四色だけが形容詞、青い、赤い、白い、黒いとなっているのを見ると、不思議な気がします。

 色と四季が合わさって出来た言葉が、青春、朱夏、白秋、玄冬です。
  中国から来たマージャンの東南西北(とんなんしゃぺー)では春夏秋冬となり、辻褄(つじつま)は合います。しかし、我が国の東西南北では、春秋夏冬となってしまい不具合となります。

   四神 ・ 色

  四季    

   “青丹によし 寧楽の京師は 咲く花の 匂うが如く 今盛りなり”

 青丹とは、奈良で塗料の原料である青丹が産出したからという説と、建物の青い瓦と赤い柱という説があります。が,私は、屋根の青い瓦の建物はほんの限られたものであったと思われます。当時、伊勢神宮などのような神道的な建物も、無彩色の素木造、一般の住宅が掘建て柱に茅葺であっただけに、青い連子窓と赤い柱が強烈な印象でなかったかと考えます。 

 江戸五色不動は、目青不動尊、目赤不動尊、目白不動尊、目黒不動尊、目黄不動尊で、現在目白駅、目黒区の由来となっております。

  
喪に黒を着用するのは、近代、西洋の影響で、それまでは、お遍路さんが着用する白い衣が死に装束などで分かるように、白を喪色としていました。
  また,お遍路さんが手にする金剛杖には五輪の梵字が刻まれており墓標そのものです。遍路はこの身支度から分かりますように、昔は辺鄙の地を巡る道、即ち「辺路」で、死を覚悟した厳しい修行だったのでしょうね。
   和歌山県には、歴史の道熊野古道「中辺路(なかへじ)」があります。

 
   喪に服した後,精進落としを行い、通常の衣装に着替えます。お色直しとは白を直
すという意味で、白を直すという忌み言葉を避けて、色を直すと言い換えたのであり
ます。
 白の打ち掛けは死の装束であり、花嫁は生家を出るとき仮死し、それから嫁ぎ先の家で色直しの赤い着物を,着ることによって再び生き返るという儀式です。それが現在では、結婚式のあと披露宴で、花婿までお色直しを行うという様変わりであります。しかし現代若い女性達は、裁判官の黒い衣がいかなる色にも染まらないというのとは、逆に、白い打ち掛けは花婿さん好みのいかなる色にも染まりますよということですが、さて現実は?
  それと、白は純潔の象徴でもありますが。

  印刷する場合は、色の「三原色」で
ある「青」「黄」「赤」の適当な組み
合わせで種々の色が出来ます。この
「三原色」は交通信号の色と同じですね。 

 先述の古代の五色は、「青」「黄」
「赤」「黒」「白」でしたね。

 色の 「三原色」で、「三原色」を総て
混ぜますと「黒」になり、しかもこの
場合の背景は「白」が条件となっている
のを考えますと、古代の五色と何故か一
致するという、不思議な話ですね。
  色の「三原色」総てを混ぜなければ出
来ない「黒」を高貴な色としたため、結
婚式などの服装は黒色となっております。
 喪服が「白」から「黒」になったのは
明治時代です。とはいえ、巡礼姿が白装
束でなく黒装束では違和感を覚えますね。 

 色の三原色    

  

  皆さんがお使いの「カラープリンター」のインクは「シアン」「イエロー」「マゼ
ンダ」に変わっておりますが、三つの色を混ぜますと「黒」が出来ます。しかし、究
極の「黒」でないため「ブラック」が追加され「四色」となりました。

 
それ が現在では、上記の四色に「ライトシアン」「ライトマゼンタ」「グレー」の
三色が加わり七色となって、限りなく自然色に近い色の再現となりつつあります。

 古代中国に起源をもつ「陰陽五行説」
は、一切の万物が日、月の陰陽と木,火、土、金、水の五行によって生じるとされていました。

 日・月・木・火・土・金・水とは毎日目にかかるカレンダーの七曜と同じですが、直接関係はありません。

 方位については、土を中心に、東を木、南を火、西を金、北を水とされました。

 大相撲の土俵で、吊り屋根の四隅を飾る四色の房は、青房、赤房、白房、黒房の四房で、中央が土俵の土(黄)であります。

 十干(じっかん)十二支{干支(えと)}とは、木、火、土、金、水の五行を兄弟(えと)に分けると、10個の兄弟が出来ます。

 木・火・土・金・水の順で、兄(え)は子(ね)、戌(いぬ)、申(さる)、午(うま)、辰(たつ) 、寅(とら)で、弟(と)は丑(うし)、亥(い)、酉(とり)、未(ひつじ)、巳(み)、卯(う)を当てはめます。

 それに木兄(きのえ)を甲、木弟(きのと)を乙、火兄(ひのえ)を丙、火弟(ひのと)を丁、土兄(つちのえ)を戊、土弟(つちのと)を己、金兄(かのえ)を庚、金弟(かのと)を辛、水兄(みずのえ)を壬、水弟(みずのと)を癸の字を当てます。

 ですから始まりである木兄子(きのえね)は甲子となります。おなじみの甲子園球場は甲子の年に完成したので名づけられたのであります。 

  五   行

 

  十 二 支

 

 

 十干(10の兄弟)と十二支で、60の組み合わせが出来,61は再び甲子に戻りますので、還暦のの60歳は、ここからきています。しかし、10と12の組合せは120通り出来ますことから、将来は還暦祝も120歳となることでしょう。 

 十二支で、地球の南北のラインが子午線と言うのは、北の方向の「子」と南の方向の「午」からついた名称です。それと、長安城(中国)、平城宮の南の正門は朱雀門ですが、紫禁城(北京)の南の正門は「午」門(ごもん)と付けられております。
  また、船の航行で舵を左にきることを「取]舵といいますが、「酉」舵が変化、右の舵をきることを「面]舵といいますが、「卯」舵がうかじではいいずらいので、おもかじに変わったのであります。
 (余談:端午の節句で、端は初めという意味、すなわち 端午とは月の最初の午(うま)の日を指しました。
 それがのちに,午(ご)と五(ご)が同音から五月五日となりました。それと、「幡
(ばん)」から陰陽五行説の五色に染めた「吹流し」、さらに現在の「鯉幟(こいのぼり)」へと変化していきました。)

 虎で思い出すのは、昭和47年に日本絵画史上最大の発見といわれた高松塚古墳の壁画に、東の青竜、南の朱雀,北の玄武,西壁面の白い虎、白虎が描かれていたことです。

 その寅が十二支におりますのに、獅子たるライオンはおりません。しかし一方、星占いの星座には獅子座即ちライオン座があるのに、寅座は存在いたしません。
 これらの話はそれらの動物が、生息していた地域によるものと思われます。 

 その昔、仏・菩薩のトップである如来のなかで、唯一実在されたお釈迦さんは、釈迦族という部族の王子で、釈迦族の獅子と呼ばれておりました。
  それゆえ お釈迦さんの座る台を獅子座ともいいます。そして その台座の前には日本各地で見られる狛犬のように獅子がガードマンよろしく鎮座しております。
  これは人間界のスーパースターはお釈迦さんで、百獣の王は獅子という思想によるものです。

 中国に仏教の伝来と共にその思想が伝わったのですが、当時、中国では百獣の王は虎と決まっておりましたので、拒否反応が起きた結果、中国のユーモラスな獅子舞、皆さんもよく目にされるシーサとか狛犬などに変わっていったのであります。

 我が国でも中国と同様、百獣の王は虎であり、武家屋敷やお城などの襖や屏風に勇猛な虎の絵を描いたのであります。それと、会津では若獅子隊と呼ばずに白虎隊と呼んだのも、そのあらわれだと思われます。