色(色)のお話−2

  仏教美術で文様の彩色法に「繧繝(うんげん)彩色」
と言うものがあります。繧繝彩色とは同系色の色彩
の濃淡を暈(ぼか)しを入れず段階的に彩色すること
によって立体的効果を生み出す工夫です。それは、
外側の薄い色から内側(中心)に向かって濃い色にす
る彩色で、その逆に塗るのを「逆繧繝彩色」と言いま
す。
 右図は参考までに作成したもので実際は華麗な
「唐草文様」に繧繝彩色されております。

    繧 繝 彩 色

    逆 繧 繝 彩 色

  同系色ではないですが平安時代には十二単(じゅうにひとえ)の襲(かさね)の色目とい
うのがあります。これは衣を襲ね着するとき下の衣の衿元、裾などが少しずつ見えるよ
うにして華麗な配色のリズムを作り出すのです。

   

 「顔料」とは当時、顔や身体を飾る材料に使われたことから呼ばれたのでしょう。この
ことは古代人が身体に朱色を塗っていたと言われることからも理解出来ます。その名残
が彫物(後に刺青とも書く)でしょう。古代人の身体の加飾は呪術的効果を期待、後の時
代の彫物はいなせ衆が勇み肌の格好よさを競ってのものでした。一方、入れ墨とは江戸
時代に刑の一つで前科者のしるしとして左腕の肘の下に黒い2筋を入れたものです。黒
色だけを使用したので入れ墨でよいのですが彫物は多様な色を用いましたので入れ墨と
は言い難いです。その顔料を練り合わせて塗料が造り出されるのです。
 
 古代の「五色(ごしき)」は青、朱(赤)、白、黒、黄で、当時は黄色を除く四色が主に使
われており、しかも青の場合緑が多く使われております。その理由については「青」の項
でお話しします。
 五色は青、黄、赤、白、黒に並べるのが正式ですが分かりやすく時計回りの青、赤、白、黒、黄の順番で説明いたします。
 昔はそれぞれの身分によって許可される色が設定されていて、個人の好みで自由に色
は使えなかったため「禁色(きんじき)」と言われました。一方、誰もが自由に使ってよい
色を許色(うるしいろ)と言いました。上記の十二単の襲の色目にも禁色があったとのこ
とです。
 推古女帝時代に「聖徳太子」が定めた「冠位十二階の制度」の位色は上位から紫、青、赤、黄、白、黒の六色が配されそれぞれの色の濃淡で二段階に分け計十二階でした。同形色
の色では濃い方が高位になり、当然濃(き)紫が最上位になります。冠位とは冠と位のこ
とですが階級の色は冠だけでなく衣服にも用いられたので目立つこと甚だしく大いに競
争心を煽ったことでしょう。しかし、沓(くつ)だけは身分・階級に関係なく黒く塗った
沓でした。
 現在でもこのしきたりが残っていて、僧侶が法要のときなど僧の位に応じた色の法衣
を付けます。
 中国では黄色は皇帝の色で皇帝以外は禁色でしたが、わが国では「冠位十二階の制度」
でも下位のほう(7.8番目)であるのはあまり目立つ色を好まなかったからでしょう。

  我々の見える「虹」は赤、橙、黄、緑、青、藍、紫の七色ですが欧米では五色、
六色が多いです。
  太陽の光で波長は「赤」が一番長く、
反対に「紫」が一番短いです。
 「空」は日中で青色、夕暮れでは赤色
に見えます。それは大気中のチリや水
蒸気の影響で波長の短い光ほど散乱し
やすく、一番散乱しやすい紫は大気中
で拡散してしまい次の藍、青系が散乱
されて空が青く見えるのです。 

      

 一方、夕暮れは太陽光線が大気中を斜めに通過するので日中より長く通過することに
なり、一番散乱しにくい赤以外は散らばってしまうため赤だけの散乱で夕焼けが見える
のです。これらの条件は大気中のチリや水蒸気の状態で変化します。

 
 現在の石油から作られる「有機顔料」と違って古代の「天然の顔料」は「漆」で発色出来た
のは僅かに朱色、黄色、黒色、緑色くらいでした。「法隆寺の玉虫厨子の壁画」に使用さ
れている色は朱色、黄色、緑(青)色に限られておりますから顔料を「膠」で溶いたので
はなく「漆」で溶いた漆絵でしょう。

 花の色が華やかなのは鳥や虫が花の蜜を求めてくる際その色が目印になるからです。
そして花は蜜を求めた鳥や虫の身体に花粉を付け、その鳥や虫が他の花粉に受粉してく
れるので鳥媒花、虫媒花と言います。現在社会問題となっておりますスギ花粉のスギは
受粉の効率が悪いので風を利用して多くの花粉を巻き散らす風媒花です。将来、スギの
DNAを変えて鳥媒花の木に改良すればノーベル賞ものでしょう。

 現代人は食品を購入する場合おいしそうに見える色の食品を選ぶので、食品そのもの
を着色したり食品がきれいな色に見えるようショーケースの照明に工夫したりしてします。また、りんごなどは味が美味しくならないのを承知で袋を被せて育て収穫直前に袋
を外し赤色にして出荷します。最初からりんごに袋を被せず太陽光を十分吸収させたほ
うが蜜があって美味しいのですが、外観の色は汚いと言う欠点があります。それでは消
費者には見向きもされないからです。とはいえ、現在は手間の掛かるりんごの袋被せは
高級品しかやらないとのことです。

 散髪屋の看板ポールは、昔、散髪屋が外科手術の真似事をした名残で、ポールの赤、白、青の色は動脈,包帯,静脈を表わしていると教えられたものですが今ではそういう
話は聞かれません。しかし、このことは理容師の国家試験の問題に出るとのことです。

 格闘技の赤コーナー、青コーナーではないですが古代の仏像で二対像の彩色は青と赤
の組み合わせとなっております。古都奈良に訪れられましたら目を凝らしていただけれ
ば識別できる像も多いです。
 中国では青と赤は吉祥の色で、紫禁城の赤の赤壁と青の装飾品を見れば理解できます。世界の国旗を見ても青と赤の使用が多いです。わが国の古代寺院も赤と青(緑)の建物と
も言えます。 

 

   
                日   本

 
              韓   国

  彩色の寺院が時代とともに古びて脱色されたモノクロの情景がわが国では心惹かれるよ
うです。
それらの風景を称してセピア色したと言われますがセピア色とは黒がかりの色で、写真などでセピア色と言うのは間違いです。
 わが国では贅沢に桧の大木から垂木などを削り出すので極彩色にしなかったのに対し、
中国、韓国では同寸法の太さの木を使うため、表面の粗さをカバーするための極彩色だっ
たとも考えられます。仏教伝来以前から存在した古来神道の神社は白木造だったのですが
やがて寺院と同じ彩色の神社も造営されます。
 「法隆寺中門」の柱は塗装の朱色が剥落しており、木目模様の美しいことに歓声を上げら
れることでしょう。その柱に触れる幸せは法隆寺だけでしか経験出来ません。
 

 パソコンのモニターでカタログに最大表示色で1,677万色と記載されているのは、我々
が識別できる色が光の三原色の赤、青、緑のそれぞれで256(2の8乗)色で256×256×256
の1677万7216色であるからです。実際のところ1677万色を識別できても色名を付けるこ
とは不可能でしょう。
 印刷インキ、絵の具のように光がないと駄目な3原色、青と赤と黄を混ぜ合わせて色
調を作り出すものを減法混色と言い、カラーモニターのように自身で光を持っている場
合の3原色、青と朱と緑を混ぜる方法を加法混色と言います。最近のシアンは赤の補色、マゼンタは緑の補色、イエローは青の補色です。

 

           

                 

 

 上図の3原色に色名を挿入すると色が斑
になるので別図に記入しました。

   モニターのような光の場
   合は上図となります。

 使用中のプリンターはイエロー、シアン、ライトシアン、マゼンタ、ライトマゼンタ、ブラックの6色です。ところが、インクジェットで滲みの出る染料系インクに対抗して
普通紙でも滲みが少ない顔料系インクのプリンターが発売されました。耐水性、耐光性
に優れているのことです。その昔、染色は滲みが必要条件でその条件を満たすため鉱物
性顔料の粒子を細かくするのに大変手間が掛かりましたがその点植物性顔料ならその手
間も要らず重宝されました。

 

 
    「青」は青龍がいるところで、方角は東を示します、東宮(春宮)とは皇太子のことで
 現在、「皇太子」のお住まいが東宮御所と呼ばれる所以であります。
   信号で「進め」は青か緑かと議論になりましたが、今は青信号と呼称するのにランプ
 の色は緑です。これらは青の分類に緑があって青と緑の区別がなく一様だったからで
 す。目に青葉といって山の緑を守りましょうと言うように、未だに青と緑の区別が曖
 昧なのです。  
 
  古代で青と言えば銅の酸化によって出来る錆の「緑青」で銅青とも言われま した。
 私は厨房機器関係の仕事をしておりますが昔、熱効率の良い銅管は銅 から出る緑青
 が猛毒と言うことで使用禁止でした。しかし、現在は銅の緑青 の汚名も雪がれてお
 ります。
  仏像の髪色は群青です。群青は青を集めると出来る色で色を重ねていくと濃い色に
 なると言われるように美しく濃い青で、わが国で人気がある紺に近い色です。

 
  わが国では「赤」と言えば「朱」のことでした。朱夏、朱雀、朱鳥などや江戸時代には
 銭の単位に「朱」が使われていたことからも分かります。
   朱と言う字は木の上をシューと切ったら朱色が現れたからと言われますが「木彫像の
 お話」で記述したように桧、杉の「心材」が赤だからでしょう。
  「水銀を含む化合物」は朱を採取するだけでしたが仏教が興隆すると銅像の需要が多
 くなり銅像の金メッキにも多量に使われるようになりました。水銀朱は猛毒性による
 防腐効果があるので遺体の防腐に用いられたり、朱は悪霊を寄せ付けないので遺体を
 悪霊から守るための呪術的な意味もありました。
  古代の古墳や石室の内部が朱で塗装されているのは防腐、魔よけと、朱は赤い血を
 表わし生命そのもの象徴で再び生き返ることを願うことなどがあったと思われます。
  それらのことから今でも墓地に赤土を使い、遺骨を納めます。これらの行為は上記
 の事由と遺体を赤土に返すのが目的であります。遺体を土の自然に返すのであれば本
 来墓はいらない筈です。かくいう私も数年前黄泉(よみ)の国(「黄」の項を参照)へと旅
 立った父親のために母親と二人で分不相応の墓を建てました。 
  埴輪の「埴」は赤土のことで埴輪とは赤色をした彫刻のことです。
  女性の口紅の「赤」にもそれなりの意味があるのでしょう。しかし、現在は多様な色
 の口紅があります。 
  赤ぶどう酒はキリストの血として、宗教的儀式に用いられたので大いに普及しまし
 た。 

  如来、菩薩が安置された上にかざすのは
 「仏天蓋」と言い、高僧が法要される上にか
 ざすのは「人天蓋」と言います。
  インド、パキスタンなど高温で日差しが
 強いところでは日傘を必要とします。わが
 国では夏は別として一年中日傘を必要とし
 ないのですが、写真で後ろの人が差し掛け
 る朱傘は傘の下には高貴な方がおられると
 の一種のシンボルです。朱傘の上位にあた

 

 る紫傘もあるようですが今だ目にしたことはありません。

 

 
  「白」以上に全ての色を引き立てるものはありません。白は純潔、清浄無垢、神聖を
 象徴します。白無垢の花嫁は清清しいものです。しかし、白を喪にも使うのはわが国
 独特でしょう。
白の衣装は吉事にも凶事にもの両方に用いられる服装です。
  白の彩色では白土か胡粉を利用します。胡粉とは呉の国から来た粉のことで、その
 昔は白土を膠で溶いたものでしたが後の時代になると牡蠣や蛤などの貝殻を焼いて粉
 にした貝殻を膠で溶いたものを指すようになりました。
 
  泥棒は黒のイメージですが中国では泥棒のことを「白波」と呼称し、わが国でも中国
 の伝来を受けて白波(しらなみ)と呼びます。「白波五人男」は歌舞伎の催し物として著
 名です。法隆寺金堂の「阿弥陀如来像」の光背は平安時代に白波に遭って紛失したため、
 鎌倉時代に運慶の四男で大仏師「康勝」の作と記載されております。私は白波の白は自
 白の白かと考えておりましたが白波とは中国で泥棒の住んでいた地名のことだそうで
 す。
  
  白鳳時代に僧が鉛で作られた「白粉(おしろい)」を「持統天皇」に献上し、皇后はその
 白粉で化粧され使用第一号となりました。ですから白粉のことを鉛白粉とも言います。
  鉛白粉は大変優れた化粧品だったのか、鉛毒のことを分かりながら昭和になるまで
 使用されておりました。それなのに、今になって水道の鉛管が大きく社会問題になっ
 ております。今頃、なんでだろうという疑問が残ります。
  天平以前は朱を顔や身体に塗っていたのは美しく見せると言うより呪術的な目的で
 しょう。しかし、持統天皇の場合は顔を美しく見せるためで白粉が化粧のファンデー
 ションとなり他の色を引き立てるためのものとなりました。
  平安時代になると平安貴族が男女とも気味が悪いほど顔を白く塗りたくっているの
 は現在のような文明の明かりもなく自然光に頼るためそうならざるを得なかったので
 す。とくに、椅子、ベッドの生活から「座る」生活様式に変 わり落ち着きを得るため
 に天井高を低くしました。さらに建物の周囲に縁を廻らしその縁を覆うように屋根か
 軒を伸ばしましたのでますます自然光が差し込まなくなって薄暗い室内となったため
 顔を引き立たせるため白が用いられたのでしょう。
  以前、TVで顔を白く厚化粧した女性が現れたとき一瞬ドキッとしましたが多分平
 安貴族の男女もこのような顔貌だったことでしょう。「面白い」とは字の如く顔が白い
 ということですが醜く気味が悪いと言うのではなく魅力ある面立ちのことだったので
 しょう。大阪人はその仕事は面白いと言えば遣り甲斐のあるとか興味深いと良い意味
 に使われます。その昔、関東の方と商談中面白い仕事と言ったとき一瞬むっとされた
 ことを思い出します。現在ならそういう誤解はないでしょう。
  私は年寄りだからか素顔に近い薄化粧の方が健康的だと思いますが。古色蒼然の薄
 化粧で墨絵風の佇まいは古都奈良そのものです。 
 
  しかし、わが国では堂内が薄暗くなるのを避けるため屋根のうえに屋根を掛ける「野
 屋根」方式を発明しました。その現存最古の建物が 「法隆寺の大講堂」です。

  光の場合「白」は青と朱と緑が混ぜ合わさって出来る最高の色で、全ての色を反射し
 ます。

 

  「黒」は「玄」とも書きます。黒の方位は北、四季は冬です。シンボルの玄武は亀と蛇が
 絡まっていて変わっております。
  黒は3原色の青と朱と黄が混ぜ合わさって出来る、すなわち全ての色を混ぜて初めて
 出来るため高貴な最高の色として尊重されております。それは、おめでたい式での黒の
 紋付、黒のモーニングが証明しております。「冠位十二階の制度」では黒は最低位ですが
 時代が下ると黒は高位の位色と変わります。 

   建築、仏像で白木、黒木と言いますが白木と
 は木皮を剥いだ木のことで白色した木ではあり
 ません。一方、木皮がついたままの木を黒木と
 言います。天皇即位の儀式で一世一代の祭典を
 行うのが大嘗祭(だいじょうさい)で、その大嘗
 祭を執り行う祭場が大嘗宮です。その大嘗宮は
 古式のしきたりにのっとり黒木で造営されます。

  黒の顔料である「墨」は松材か植物製油を燃焼

    
           大 嘗 宮

  させ集めたすすを膠で練って固めて造ります。
  黒は白と逆で何色にも染まらぬ色、何事にも染まらぬことで裁判官の制服が黒色であ
 ります。僧の黒衣も煩悩に染まらぬ意思表示でもありましょう。

 
  「五色」の中で他の四色には方位、四季が与えられておりますが「黄色」には中央に位す
 る色とさせた以外四つの土用だけ与えられております。
  中国は世界の中心にあると言う中華思想があるので黄色は他の四色のように方角に関
 係なくただ中心に位置するのみです。ですから中華を統治するのは黄帝でなければなら
 ないのです。
  黄色は皇帝の象徴で皇帝を黄帝、王道を黄道と書いたこともありました。 

  控えめな日本人には好まれなかった
 のか黄色はわが国ではあまり用いられ
 ず古代の寺院建築での黄色は垂木の木
 口に彩色または金鍍金の銅透かし彫り
 を張り付けるだけでした。


   黄色の釉薬瓦(紫禁城)
   

  先月(2003.03)上映されてヒットした映画「黄泉(よみ)がえり」(草g 剛・竹内結子)
 の黄泉とは遺体が行く地下の国のことで中国での黄泉から来ています。 この黄とは土
 の色のことで例えば大相撲の土俵では青(房)、赤(房)、白(房)、黒(房)と土俵の土が
 黄で 「五色」となります。良くご覧なれば土俵の土が黄色であるのが分かります。し
 かし、青房は緑房です。
  中国には「天地玄黄」という天は玄(黒)で、地は黄という思想もあります。
    臨終の時、我々衆生を浄土に連れて行ってくださるため如来が観音菩薩をつれて山を
 越えて迎えに来てくださるのに地下の黄泉にいたのでは探してもらえない可能性があり
 ます。阿弥陀如来が迎えに来られることを「来迎」といいます。

   絵画で黄色と言えば画家の「ゴッホ」です。わが国では大変愛好者が多く、先々月 
 (2003.02)オークションで作者不詳の絵が2万程度で掛けられるところだったのがゴッ
 ホ作と分かり何と6,600万円で落札され話題になりましたね。超デフレの時代に景気良
 い話は久しぶりで一服の清涼剤となりました。

 
  「紫」は中国伝統の高貴な色です。それは吉祥の色、青と赤の間色であることと製法が
 洋の東西とわず大変手間が掛かり高価だったので誰彼とは作れなかったことも一因でし
 ょう。
  間色(かんじき)の紫は中国では最も高貴な色と言われますが正色(しょうしき)の「五
 色」でないため不思議な気がします。ただ、紫を分解すると吉祥の赤と青が誕生するか
 らでしょうか。
  北斗七星の北側にある「紫微星」が天帝の住まいで、紫微星は最も尊い星で天帝を象徴
 する星です。天帝の居住するところを紫微宮と呼ぶところから皇帝の住まいが紫城、そ
 の紫城には庶民が立入禁止だから紫禁城(北京)と付けられたのです。それならば、五色
 の黄と紫を入れ替えておけば良いのに、古代中国の最初の統率者が「黄帝」だったからか、
 それとも中国5千年の歴史でもう既に「色の三原色」を知っていてからでしょうか? 京
 都御所の紫宸殿も中国のしきたりを真似たのでしょう。
  
  平安時代に入ると紫はわが国でも天皇の着衣に用いられ当然禁色となり濃い紫ほど珍
 重されました。しかし、「冠位十二階の制度」では臣下の最高位の位色でしたのに。
  江戸時代に有名な紫衣勅許事件が起こります。事件とは天皇から賜る「紫の袈裟」は最
 高位の僧の証でそれは勅許がなければ着衣出来なかったのをあるとき徳川将軍が畏れ多
 くも勅許を取り消した事件です。
 
  紫といえば紫外線がありますが子供の頃はビタミンDの補給のため紫外線を良く浴び
 るように言われたものですが最近は逆で紫外線が人間の根源であるDNAを痛めつけるの
 で紫外線に当たるのはほどほどにとなりました。