仏像の四方山話

 我が国の場合 尊像が、「秘仏」だったり、扉の閉まった厨子内に納められたり、
さらには立入禁止の内陣の奥深くに安置されていたりして尊像の詳細を見る事が出
来ないことが多々あります。「四国八十八か所霊場」もすべてと言ってよいほど秘仏
がありますがお遍路さん達はそんなことは気に掛けずに、見えない仏に厚く信仰し、
心の中に理想の仏さんのお姿をそれぞれに描いて拝んでおられるようでした。それ
と我が国では仏像の種類がべらぼうにあり、本来なら崇拝される仏さんは一体か多
くても数体で良い筈ですが数多くの仏さんにお願いすることを良しとされる方が多
いことがお寺巡りを盛んにしているでしょう。なお、我が国民はお寺巡りが大好き
と言えるかというと、たとえば、禅宗寺院では仏殿を素通りして石庭のある「塔頭」
に赴きそこで庭を眺めながら懐石料理を頂き至福のひと時を楽しみにお寺を訪れる
方が多いことも事実です。
 他にも、仏像の美術的な評価は別として里の人たちで守り管理してきた相貌が少
し不明瞭になった仏さんを小さな祠に安置して厚く崇拝されておられるほほえまし
い情景が見られたり、仏像が恋しい人に似ているとか癒されるということでお参り
される独特の信仰形態もあります。
 慈悲の観音さんは母親のような優しい顔をしていて大変好まれます。逆にとって
も恐ろしい顔をした仏さんをも崇拝されるのは顔を眺めていると励ましてくれたり
叱咤激励されていると思いながら身の上相談をしているのでしょう。
 愛染堂(大阪市)の祀られている恐ろしい顔をした「愛染明王」をきれいどころがお
参りしているのを見ると何となく親しみを覚える顔に変わるのです。
 ただ、顕教である奈良の古社寺の仏像は目の当たりに見る事が出来ますのでどう
ぞ古都奈良に足繁くお通いください。 

  インドと我が国で信仰の違いによるものでないかと思
われるものに「ガネーシャ神」があります。
 象頭人身の神「ガネーシャ」はヒンズー教のシヴァ神と
その妻パールヴァティの間に生まれた子供でインドでは
どこでも見る事が出来ます。そのガネーシャが仏教に取
り入れられて「歓喜天(かんぎてん)」となり、双身の歓喜
天は「聖天(しょうでん)」さんと呼ばれ特に「生駒の聖天」
は有名です。この像は夫婦和合の姿をしており秘仏です。
 象の顔をした商売繁盛の神様ガネーシャが乗っている
動物は我が国では考えられない小動物の「鼠」です。
  インドでは大変信仰されているガネーシャですが財宝
の神というイメージがないだけに我が国ではあまり好ま
れない神様と言えるのではないでしょうか。それから、
象はインドでは神聖な動物ですが我が国では愛すべき動
物という違いもあるのでしょう。



   ガネーシャ神

  「釈迦」の姿は「三十二相、八十種好」に則っていなければならないと言うことでし
たが釈迦以外に多くの仏が誕生するに従って、区別するため三十二相、八十種好に
追加されていった仏教に関する基本が「経典と儀軌(ぎき)」であります。儀軌には造
像に際してきめ細く決めるだけでなく法要の場の飾り付け、法要のやり方など詳し
く書かれているらしいです。礼拝に関する作法などは難しくて理解できませんので
仏像の形式のみに限り一部ですが記載いたします。
 経典とはお経だけと思われますが造像の際しての決まりも書いてあります。経典
はインドだけでなく中国で制作されたものもあります。儀軌はインドで創作され中
国で脚色されたものが我が国にもたらされました。
 儀軌とは儀式と法則のことですが色々と詳細に定められており私など理解するど
ころか膨大な量の書物に圧倒されるだけで触れることも出来ないのが現状でした。
 儀軌、経典は時代とともに新しい規定も出て参りましたので同じ尊像でも色々な
形式の仏像が出て参ります。決まりを理解することによって造像の年代を知ること
ができますが例外もあります。
 例えば 「多聞天・毘沙門天(法隆寺)」の持物についですが


  クベーラ坐像(インド)


 多聞天像(法隆寺)


 毘沙門天像(法隆寺)


 多聞天像(法隆寺・講堂)

 「多聞天・毘沙門天」は右手に宝塔、左手に戟を持っていたのが、平安時代からは
経典に説くように右手に戟を、左手には宝塔を持つように変わります。宝塔を左手
で持っていれば平安時代以降の作品と見なすことが出来ます。ところが、「法隆寺
金堂の毘沙門天像」は平安時代の作ですが同じ金堂内の飛鳥時代作の「多聞天像」に
合わせたのか宝塔を右手で持っておりこのような例外もあります。講堂の多聞天像
は平安時代作のゆえ宝塔を左手で支えております。

 インドの「クベーラ」はヒンズー教の財宝神で、仏教に取り入れられて四天王の多
聞天となりました。多聞天が単独で祀られると毘沙門天と名前を変え「吉祥天」を妃
にいたします。なぜ、毘沙門天が財宝神でもあるのか理解できませんでしたが毘沙
門天の源がクベーラということで納得いたしました。毘沙門天が七福神の一神であ
るのはご承知通りです。四天王は二天で祀られることはあっても単独で祀られるの
は多聞天だけというのもその生まれがはっきりしているからでしょう。  

  ガンダーラの初期の如来像は人間の肖像彫刻そのもので、ギリシャ人のような感
じがしました。仏教は釈迦一仏であったのが多くの架空の仏教像が出て参りました。
想像上の神ならどんな表現でも偶像を造り得たのですが、人間の親から人間の子と
して誕生した釈迦という偉大な人の象徴を、尊厳ある高貴な姿に表現するのに苦労
したことでしょう。それが証拠にマトゥラーでは初期の如来像を菩薩像と断ってお
り如来を偶像であらわすことは神聖な釈迦を冒涜すると考えたからでしょう。

 三十二相、八十種好を決めるにあたっても人間の両親から誕生した釈迦を、超人
間の体型を創造するためにどんな議論がなされたのでしょうか。釈迦の身長は一丈
六尺(約4.8m)で現実にあり得ないことで、もしそうだとしても布教に回られた際、
巨人の釈迦を見て人々は恐れおののいて説法は出来なかったではないでしょうか。
釈迦の身長は常人の倍あり、立像で丈六(約4.8m)、坐像で半丈六(約2.4m)で、坐
像の半丈六仏は多くありますが立像の丈六仏は極めて少ないです。もっとも、当時、
普通人の身長が2.4mもあったとは人間離れしているしか考えられません。
 如来の手は長いのものと決められておりますが手の長いのは気に入らなかったの
か観世音菩薩像で見られるが如来像では見当たりません。
 私見ですが29才で出家して35才で悟りを開いたということは在家の者にとっては
それほど奥の深い悟りと理解できなかった、というよりも余り有り難く思わなかっ
たので、超越した人物だったことを知らしめるために当初釈迦像が肖像であったの
が偶像彫刻に変化していったのでしょう。ついには釈迦誕生以前にも後述の「過去
の七仏」が存在し、釈迦も過去仏のメンバーとして入って居たということです。
 東南アジアにおいて一番守られている決まりが「金色相」で如来は黄金色に輝いて
おりますが我が国では反対に金メッキや金箔が剥落したのが美しいと喜ばれる風潮
があります。

 いろんな仏の徳を信者に理解させるには、眼で見える物で表すのが最良の方法だ
ったことでしょう。その一つが「印相(いんぞう)」で印相とは手や指の表現で、
「印契(いんげい)」とも言います。
 大乗仏教の時代となると出家したものだけではなく、在家の者でも成道出来ると
いうことで上座部仏教(小乗仏教)の特権者と比べ識字率の低い一般大衆に大乗仏教
を理解させる手段としてジェスチャ(印相)か「持物(じもつ)・後述」で示すのが一番
手っ取り早い方法だったことでしょう。
 如来は薬師如来、大日如来は別として原則として持物を持たないためジェスチャ
の印相のみがシンボルとなり、手に何も持っていない「阿弥陀如来」が
「四十八の誓願」を成し遂げて如来となられたのです。誓願の中には衣服がほしい人
には与えましょうと言うのもあり、その中でも「十八番(おはこ)」の語源となった、
本願の「十八願」は阿弥陀の名号を唱えれば極楽浄土に導いてくださるというもので、「十九願」は阿弥陀を信じる者が亡くなれば浄土から多くの菩薩を引き連れて迎えに
来てくださると言うものです。仏自身に秘めたるご利益が多くありその中で重要な
ものをそれぞれの印相で理解させようとしたのでしょう。後述の薬師如来の薬壺も
同じでしょう。

 釈迦の宗教活動での時々のジェスチャーが「定印」、「説法印」、「降魔印」などに後
追い解釈をされたのでしょう。これらのジェスチャーですが、インド古典舞踊の手
や指の型(ムドラー)は多種多様で、そのムドラーで物語を観衆に伝えていることか
らそれらを参考にされたのではないでしょうか。しかも、このムドラーの起源はイ
ンドの古来宗教にあるとも言われており、印相の数多くの表現は、ヒンズー教には
多臂(手)神が多いことからもヒンズー教が起源かも知れません。
 余談ですがインド舞踊を鑑賞するためには顔の表情、手の形、脚の形などの相当
量の予備知識が必要とされるので奥の深い芸術と言えます。インドは多言語国家の
ため言葉以外での伝達が必要とされたからでしょう。他の国でも伝統、文化を文字
で伝える事が難しい場合は歌で伝える事が採用されたりしているようです。
 印相はインド古典舞踊の手や指の型をはるかに超える数がありますがほんの数点
の印相のみを掲載いたします。
 我が国では尊像の印相そのものより指の表現が注目されているように思えるのは
日本舞踊が指先の表現に力を置いていることからも理解出来ます。それと我が国で
は「阿吽の呼吸」とか「以心伝心」がコミュニケーションの手段であって、ジェスチャ
ーで伝えるのは近世に外国から学んだ結果です。  
 礼拝者は仏像の顔を眺めた後合掌礼拝される方が多く手の印相がどんな形がして
いるかはあまり興味を示されないのも事実です。

 印相には色々ありますが「釈迦の五印」である「降魔印」、「説法印」、「禅定印」、
「施無畏」、「与願印」のうち説法印、禅定印、施無畏・与願印に加えて阿弥陀如来の
専用である「来迎印」が主なものでしょう。
  地蔵菩薩といえば錫杖と宝珠を持っているのが通例ですが「法隆寺地蔵菩薩立像」
のように片手は持物を持たず印相を結ぶものもあります。

 


           
降 魔 浄 土

 印相と言えばまず最初は「降魔
印(ごうまいん)」です。釈迦が悟
りを開くのを邪魔立てする魔王は、
我が三人娘による色仕掛けの攻撃
に失敗をしたので武力攻撃に切り
替えました。
太子はそれらに対抗すべく右手を
大地に触れ大地の神を呼び出して
から戦いは太子に有利となりまし
た。その大地に触れた印相が
降魔
印と言われるものです。釈迦の右
手の状態をそのまま表して触地印
(そくちいん・しょくちいん)とも
言われます。

  息子が魔王を戦から手を引かそうとしており台座前には戦い敗れて恐れ入りまし
たとひれ伏す悪魔たちが見えます。 

 
降魔印は東南アジアではよく見受けられますが我が国では滅多にお目に掛かれま
せん。
 降魔座かどうかは足が隠れていて分からないのですがパキスタンでは両足を隠し
たポーズが多かったです。降魔座とは右足の上に左足を持ってくる座位ですなわち、
清浄な右足を不浄の左足が抑える座り方でその逆が吉祥座の座り方です。禅宗の座
禅は降魔座で行われます。 
 台座には吉祥草(後述)が敷かれております。解脱されましたのは仏陀35歳の時で
した。

 

 「定印(じょういん)」とは深い瞑想している姿で、下図のように左手を下に右手を
上にする場合は説法をする者の印で、説法される者はこの逆で右手が下にくる印と
なります。一般の方が坐禅を組む時はこの手の組み方となります。
 禅宗寺院には禅定印の釈迦如来像が祀られております。
 与謝野晶子さんが「鎌倉大仏」は阿弥陀如来であるのに釈迦牟尼と表現されて話題
になりましたが印相について厳しく言われるのは僧侶と仏師ぐらいで一般大衆では
現在でもそうですが気にされない方が殆どと言えましょう。阿弥陀如来の「弥陀定
印」だけが他の如来と違いますのでこれを機会に頭に入れて置いてください。
 胎蔵界の大日如来は「法界定印」で、金剛界の大日如来は「智挙印(ちけんいん)」を
結びます。智挙印を見て猿飛佐助(さるとびさすけ)を懐かしく思い出される方も居
られることでしょう。



    禅定印(釈迦、薬師、大日如来)


 智挙印(大日如来・円成寺)


      弥陀定印(鎌倉大仏)

 

 「施無畏(せむい)・与願印」ですがインド、パキスタンでも当初の釈迦如来像は形
として施無畏印、与願印らしきものが殆どでした。施無畏・与願印は初期の釈迦如
来から生まれたとも言えるでしょう。それが今では如来だけでなく菩薩にも使われ
るようになりました。施無畏・与願印は仏像の姿としては安定感があり据わりも良
く見栄えのする姿と言えましょう。
 怖れ苦しみを取り除く施無畏印、いかなる望みをも叶える与願印は現世利益を求
める衆生の心を捉えた仏の印相と言えます。その結果、施無畏・与願印は通印とい
われるくらい普及しました。その施無畏印は右手が圧倒的ですが逆の左手の施無畏
印もあります。
 ただし、施無畏・与願印の仏は2臂(手)仏に限られているのは多臂仏のように多
くの持物で万能の働きを表した魅力ある仏に対抗して最少の2臂で最大の効果を狙
ったからでしょう。それとは反対に多臂仏の観世音菩薩の場合は真手が合掌印と定
印となるのは他の手が捧げる持物が重要視されるからでしょう。

 

 インド、パキスタンの「如来像」は施無畏・与願印らしき印相でした。左手が衣の
一端を握るのは指先の破損防止を考えてのことでしょう。右側の如来ですが右手の
指が補強されているのが後の「縵綱相(まんもうそう)」となったことでしょう。余談
ですが左手を腰に当てているので釈迦如来ではなく「釈迦菩薩」です。


    施無畏・与願印
  (薬師如来坐像・法隆寺) 

 
  施無畏・与願印
 (薬師如来立像・室生寺)


  逆施無畏・与願印
(聖観音立像・薬師寺)

 


      初 転 法 輪

 「説法印」ですがインドのサルナート(鹿野
苑・ろくやおん)(釈迦の四大聖地の一つ)で
釈迦が初説法を行いました時の印相です。そ
の初説法のことを初転法輪と言います。一般
的に初転法輪を表す場合は台座に法輪と2頭
の鹿が描かれています。写真はサルナートで
の初転法輪を表現したもので、今まさに
、法
輪を転がして初転法輪を行おうとするところ
です。法輪をもって釈迦の教えが大きく広が
ることと信仰者の煩悩を打ち砕いて浄土へ導
いてくださるのでしょう。
 説法印は法輪を転がすことから転法輪印
(てんぽうりんいん)とも言われる所以です。
まさに転法輪印そのものですね。我が国では
見られない印相です。

 説法印(転法輪印)はいろんな形がありややこしいです。下の写真のように胸前で
両手を合わせてあれば説法印と言うくらいの理解でよいと思います。指を捩じるし
ぐさには関係なさそうです。
 パキスタンには説法印の釈迦如来像が多くありました。


   説法印(パキスタン)


       説法印(パキスタン)


  説法印(塼仏五尊像・法隆寺)

 
    説法印(鎚鍱五尊像・法隆寺)

 説法印の「法隆寺尊像」ですが制作方法に違いがあり、塼仏(せんぶつ)」、「押出仏
(おしだしぶつ)」ともに中国から渡来した技法で素材は粘土です。
 「押出仏」は「鎚鍱(ついちょう)仏」とも言い素材は銅板です。塼仏、押出仏共に我
が国では飛鳥時代に始まり天平時代で終わりを遂げます。
 「五尊像」すなわち「三尊像および比丘像」の様式は中国で多く見られます。我が国
では如来と十代弟子の像はあまり見当たりませんが後の鎌倉時代の禅宗寺院で見る
ことが出来ます。
 説法印とは手振り身振りで説法された釈迦の一瞬を捕らえたポーズでしょう。説
法印は我が国では阿弥陀如来像で多く見られ阿弥陀如来専用みたいになっておりま
す。 
 ただ、法隆寺の本五尊像は阿弥陀三尊像であるのに何故釈迦の弟子が加わってい
るのか分かりません。比丘像は十大弟子とは関係ないのでしょうか。  
 余談ですが後述の 「薬師寺の本尊薬師如来坐像の右手」は説法印のように見えま
す。

  

 阿弥陀如来には「九品(くぼん)」の印相があり、その中の「来迎印」は施無畏・与願
印と同じ印相です。ただ、来迎印の場合は親指と他の指で輪を造るのであって天平
時代までの阿弥陀如来の指は、釈迦如来のごとくすべての指を伸ばして輪を作らな
いのが施無畏・与願印であるとの説もあります。そうなると、九品の中には指を伸
ばした印相がないため施無畏・与願印がないことになります。
 来迎印は九品では「下品上生(げぼんじょうしょう)」と言われるものですが通常は
「上品下生(じょうぼんげしょう)」と称されます。と言うのも上品、下品は我々が日
常使う「上品(じょうひん)」、「下品(げひん)」の語源で、住職、信徒の人たちにとっ
て本尊の吾が阿弥陀さんの読み方が分からない者に「げひん」と読まれるのは耐え難
く、下品上生印の仏とは思いたくないからです。ですから、書籍などでは下品上生
と記されておりますが我々は上品下生印の尊像であると解釈するのが無難でしょう 。
来迎印の阿弥陀如来像を見たならば上品下生印の来迎印と思えば間違いないでしょ
う。浄土教の寺院では来迎印の阿弥陀如来像が一般的に多く安置されております。
 
 阿弥陀如来は坐像であったのが時代を経ると少しでも早く亡くなった人を迎えに
行くために立像が通例となり一番早い乗り物は雲であることから来迎印の阿弥陀如
来の台座は雲座となります。
 阿弥陀如来の説法印は白鳳、天平時代に限られます。阿弥陀如来坐像は弥陀定印
・上品上生、立像は来迎印(施無畏・与願印)の上品下生が殆どです。
 阿弥陀如来が指で輪を作るのは親指は人差し指だけが多く、親指と中指、薬指で
輪を作るのは滅多にないことから阿弥陀如来の印相は上品上生、上品中生、上品下
生しか見られないと言うことになります。 
 来迎印は施無畏・与願印と同じようですが、下図のように左右の手は親指と人差
し指とで輪を作る上品下生の印相が殆どです。 

 
   来迎印(浄瑠璃寺)


    来迎印(阿弥陀如来坐像・三千院)


 来迎印(西方寺)

  

 仏像の「持物(じもつ)」については多臂(手)の仏像が多くなりましたので、印相を
表す以外に持物をもって仏の威厳を高めていきました。しかし、その持物も破損、
紛失したものの補作だったり、どんな持物だったか不明となっているものもありま
す。2臂仏だったのがついには千臂(千手観音)仏まで発展していきます。仏の威厳
や効力の説明を理解しやすくするため持物を増やしていったと思われますが後述の
「唐招提寺金堂の千手観音立像」で記載しました持物の解釈は難しいものでした。
 七福神の中の紅一点である「弁財天」は2臂である場合はおしとやかに琵琶を持っ
ておりますが一般的となる8臂の弁財天となりますと矛・弓・矢・刀・羂索などの
武器を持ち、弁財天には似つかわしくない持物です。8臂の弁財天は八手すべてに
持物を持っているため印相がありません。また、弁財天は効能によって名前が変わ
る珍しい仏さんで財宝の神は弁財天、才能の神は弁才天となります。

 薬師如来は薬壺、観音菩薩は蓮華と水瓶、地蔵菩薩は宝珠と錫杖、文殊菩薩は理
剣、如意輪観音は宝珠と法輪、毘沙門天は宝塔、吉祥天は宝珠など数多くの持物が
ありその持物にはそれなりの意味があります。如来は持物を持たないのが通例です
が薬師如来だけが例外です。大阪の「獅子吼寺」の薬師如来像は与願印の掌に薬壺で
はなく宝珠を持っておりますが当初は薬師如来の持物は薬壺でなくて宝珠ではなか
ったかという説もあります。それから、仏舎利が転じて宝珠になったとも言われて
います。この薬師如来も天平時代までの古い像は左手を与願印、右手を施無畏印と
するだけで薬壺を持っておりませんでしたが薬師如来念誦儀軌が適用される平安時
代から薬壺を持つようになります。

 世界には同じ宗教であるのに宗派が違うだけで殺戮を行うこともありますが仏教
はその点穏やかなものであるのに持物には物騒な武器が多いことに驚かされます。
武器を持っていることは関係なく、慈愛あふれる観音菩薩、地蔵菩薩に親しみを覚
え好まれるだけでなく凄い憤怒相の不動明王が祀られた寺院を訪れる人も多いのは
事実です。恐ろしい表情でも気にならないのは顔の表情より御利益の方に参拝の重
点が置かれるからでしょう。
  観音菩薩では2臂像より多臂像の方が多くなり印相より持物の方に重点が置かれ
ます。しかし、持物には武器や髑髏など観音菩薩に相応しくないと思われる物も多
いですが武器は煩悩を打ち負かしたり悪魔を降伏(ごうぶく)させたりするものでむ
やみやたらに人を殺戮するものではありません。 

 「唐招提寺の金堂」に安置された「千手観音立像」の持物について記述いたします。
唐招提寺の千手観音像は間近に見る事が出来ますので是非お訪ねください。千手観
音立像は通常我々は正面からしか礼拝出来ないことを考慮して正面から持物が眺め
られるように配置されています。今秋(2009年秋)、金堂平成大修理が完成すれば千
手観音立像が拝観できるようになりますのでどんな持物があるか是非じっくりと眺
めてご確認ください。千手観音は千手千眼観世音菩薩が正式名です。
 千手観音は大悲観音とも呼ばれます。ただ、大悲観音は観世音菩薩の総称として
も使われ、観世音菩薩を祀ってある堂は大悲閣、大悲殿などとも呼ばれます。
  一つひとつの手にする持物には効能書きがありますが難しく理解できませんが、
要するに千手観音は観世音菩薩の持つすべての願いに対応していただけるというこ
とでしょう。 

20.錫杖 
21.化仏
22.月精摩尼
23.宝印
24.五鈷杵
25.法輪(金輪)
26.宝経
27.青連
28.白蓮
29.宝鏡
30.宝剣
31.宝箭
32.鉄鈎
33.葡萄
34.鉄斧
35.宝鐸
36.胡瓶
37.数珠 
38.施無畏印


    千手観音像(唐招提寺) 

 1.三叉戟(戟鞘)
 2.化仏
 3.日精摩尼
 4.宮殿
 5.宝珠
 6.独鈷杵
 7.宝篋
 8.紅蓮
 9.紫蓮
10.五色雲
11.宝螺
12.宝弓
13.髑髏
14.傍棑
15.白払(払子)
16.楊柳
17.玉環
18.軍持
19.羂索

 千手観音は大脇手が42手、小脇手が958手の筈ですが平安時代以降は大脇手42手
だけとなります。42の大脇手のうち中央の大脇手4手は観音本来の胸前の「合掌印」
とその下にある禅定印の上に「宝鉢」を持っており、残りは38の大脇手に持物を持た
せてあります。現存する唐招提寺像と葛井寺の千手観音像では大脇手と小脇手と足
しますと唐招提寺像は千手には少し足らず、逆に葛井寺像は千手以上あります。つ
まり千手とは千本の手と言うことではなく広大無辺の功徳があると言うことでしょ
う。 

 中央の「合掌印」ですがインドでは合掌して「ナマステ」という挨拶がありますが我
々の日常語の「今日は」ではなく、あなたを敬いご挨拶を申し上げますと言う意味ら
しいです。それから、仏教の「南無」とは 「ナマス」からきているとのことです。
「テ」はあなたにと言う意味で、ですから南無仏、南無阿弥陀仏というようになるの
です。
 テレビでチベット仏教の住職が「ナマス」と挨拶するシーンがありました。
 合掌印にしても手の皴を合わせて「幸せ(皴あせ)」という両手に隙間ないほどしっ
かりと合わせたものと、手の指(し)と合わせた「幸せ(指あわせ)」という両手の手の
ひらに少し隙間を作ったものなどあります。この幸せは語呂合わせですが実際に幸
せを願っての合掌礼拝であることも間違いないでしょう。合掌印だけでも12種あ
ります。
 合掌の掌(たなごころ)とは手のひらのことで手のひらをぴったり合わせる本来の
合掌ですが、多くの方に愛されております「東大寺の月光菩薩像」の合掌の場合指先
は合わせていますが手のひらは空いていて衆生が日常行う合掌礼拝の形と同じです
のが親しみが湧いてくるのでしょう。それと、右手は仏、左手は人間と言うことで
合掌は礼拝者が月光菩薩と円で結ばれると言う感動があるからでしょう。 

  中央の「宝鉢印(ほうはついん)」ですが「宝鉢」は禅宗の托鉢行脚をされる雲水が持
っておられる托鉢用の鉢として皆さんお馴染みです。


       四天王奉鉢

 「四天王奉鉢」とは四天王が釈迦に鉢
を奉献したということです。
 釈迦は悟りを得られた場所で落ち着
いた生活をされ喜びに浸っていました
が何も食していませんでした。そこへ
通りかかった2商人が釈迦に供物を差
し上げようとしましたが、供物を入れ
る鉢が無く途方に暮れておりましたと
ころへ四天王が鉢を持って現れます。
各天王が鉢を差し上げようとしました
が鉢は一つで充分だと釈迦は神通力で
各天王が差し出した4つの鉢を1つの

鉢に纏められたのが釈迦の左手にある鉢です。僧侶の持ち物である「三衣一鉢(さん
ねいっぱつ)」の一鉢はここからきているのでしょう。

  釈迦が悟りを開かれた降魔座には当然吉祥草が敷かれておりますがそれ以外でも
吉祥草の台座は少なくありません。この四天王奉鉢の台座も吉祥草座です。

 四天王奉鉢は重要な出来事ですが、鉢は現在、乞食(こつじき)行脚を行う禅宗の
托鉢でしか見られません。

 千手観音に向かって右上の持物から説明いたします。

 1.三叉戟(さんさげき)・・槍と違って穂先が三叉の形状になっているもので仏法
   の敵、煩悩を打ち砕く武器でありハーリティー像が握っております。


 槍を持つ女神(パキスタン)  


 槍を持つヤクシャ像(インド)

 
 三叉戟を持つハーリティー像

  我が国では槍でなく三叉戟を持つ武将像が多いですがパキスタンには槍を持つ女
神像がありました。インドの槍を持つヤクシャ像は守門神としての役目が主となっ
ていき我が国の四天王の源流となりました。ただ、甲冑を身に着けず武人像らしく
ありません。足を開き気味にして立っているのは魔物の進入を防護する姿勢を示し
ているのでしょう。中国では武将像に変化してまいります。
  右のハーリティー像は恐ろしい姿をしておりますが我が国では「訶梨帝母(かりて
いも)とか「鬼子母神(きしもじん)」と呼ばれ穏やかな多産と育児の神となっており
ます。
 我が国の「恐れいりやの鬼子母神」像はどんなお姿か一度拝んでみたいものです。
 仏教には槍もありますがあまり目に掛かれません。ハーリティー像が持つ三叉戟
は三叉槍(さんさそう)とも言われます。

 2.化仏(けぶつ)・・仏が姿を変え衆生を救済します。
 3.日輪・・太陽には三本足の烏が住んでいたことでしょう。三本足の烏と言えば
  サッカー日本代表選手の左胸に輝いております。
 4.化宮殿(けくうでん)・・唐招提寺の化宮殿は当初のものと言われており創建当
  初の金堂の屋根勾配はこの化宮殿のように穏やかな屋根勾配だったのではない
  かと議論された貴重なものとなっております。寄棟造の化宮殿です。
 5.宝珠・・如意宝珠のことで意のままに願い事がかなうと言う「打ち出の小槌」の
  ようなものです。その宝珠は龍の体内からではなくマカラの脳から取り出した
  ものとも言われております。蓮華の台座の上に乗せられております。地蔵菩薩
  の持物として著名です。孫悟空が持っていた武器の如意棒はよく知られており
  ます。 

 6.独鈷杵(どっこしょ)・・金剛杵とも言います。しかし、金剛杵は杵全部を差す
  との意見もあります。木を炊いての護摩などの儀式に用いられるのは三鈷杵
  です。 
 東大寺像は貴重な執金剛神立像です。パキスタンでは打ちのめすため用の初歩的
武器の時代ですので鎧を着用しておりません。我が国では突き刺す武器の時代を迎
え鎧を身に着け重装備をしております。
 「ヴァジラパーニ(執金剛神)」は仏陀の涅槃までボディガードとして金剛杵を持っ
て仕えましたが我が国では仏陀に付き添う執金剛神像そのものは無く単独像でしか
造られておりません。それよりも、我が国では執金剛神が2体となって須弥壇や門
の左右を守護する二王(仁王)に興味が向いております。仁王さんと親しみを込めて
呼んでいるくらいです。仁王は上半身が裸体で重装備しておりませんので手に握る
金剛杵はヴァジラパーニと同じ形式の方が似合っていると言えるのではないでしょ
うか。
 何故か、ヴァジラパーニだけは若きヴァジラパーニと熟年のヴァジラパーニが表
現されます。右側の若きヴァジラパーニが右手に払子(後述)を持っておりますのは
仏陀に纏わり付く虫やちりを追い払うためでしょう。


 熟年のヴァジラパーニ


青年のヴァジラパーニ


 執金剛神立像(東大寺三月堂)

 7.宝篋(ほうきょう)・・梵篋(ぼんきょう)とも言います。経典を納めた聖なる箱で
  す。
 8.紅蓮(ぐれん)・・赤色した蓮華です。 
 9.紫蓮・・紫色した蓮華です。
 10.五色雲(ごしきうん)・・手鏡のような雲がデザインされております。雲と言えば
   阿弥陀如来の来迎図でしょう。
 11.宝螺・・法螺貝のこと。仏の説法が法螺貝の音の如く広く響き渡ったとのことで
   す。
 12.宝弓・・弓のことで31の宝箭は矢のことです。
 13.髑髏・・気味の悪い持物ですが釈迦の一番重要なシンボルである釈迦の舎利を表
   しているのでしょう。髑髏杖を持っております。昔、我が国は土葬時代だったの
   に今では世界では例を見ないほど遺骨崇拝国となっております。
 14.傍牌(ぼうぱい)・・仏法の敵を防御する盾のようなものではないかと思います。
   表面は龍の顔を表現したと言われますが髑髏のように見えます。
 15.払子・・獣毛の毛などを束ね柄を付けたもので僧が使う法具です。当初はほこり
   やごみを払う道具であったのが煩悩を払う法具となりました。パキスタンでは払
   子を持つ仏があり先述のヴァジラパーニもそうです。
 16.楊柳・・先を叩き潰して歯ブラシ、爪楊枝として使われたのでしょう。
 
17.玉環・・円環が二つ繋がっているだけで効能はわかりません。
 18.澡瓶(そうびょう)・・「軍持(ぐんじ)」とも言います。口が細くなった水差しで
   す。
 19.羂索(けんさく)・・縄と網で助けを求める衆生を漏れなく救済するものです。

 これより千手観音に向かって左側の持物を上から説明します。
 20.錫杖・・錫とは金属の錫ではなく材料は銅製で鋳造仕上げです。 錫杖といえば
   地蔵菩薩ですが托鉢に回る僧侶が持っていて馴染みです。
 千手観音の左右にある前述の三叉戟と錫杖とで左右対称を強調するとともに像全体
に安定感が加わっております。
 21.化仏(けぶつ)・・仏が姿を変えて衆生を救済される。
 22.月輪・・月精摩尼(がっしょうまに)とも言う。月には兎が住んでいたことでし
   ょう。中国では月のことを玉兎(ぎょくと)とも言います。
 23.宝印・・角印をもっており中に卍が刻まれております。
 24.五鈷杵・・独鈷杵(一鈷杵)、三鈷杵、五鈷杵があり穂先が分かれている数のこと
   です。

 25.金輪(きんりん)・・持物の多い中で
「金輪」が最高の持物でしょう。金輪は釈
迦如来が太陽のように我々の日常生活に
無くてはならない存在でしたので、太陽
を図案化してシンボルとしたものです。
法輪・宝輪・輪宝とも言います。
 法輪のデザインはインド国旗にも、そ
の白い中央部に採り入れられております。
 また一説には武器が法輪となったとも
言われます。法輪の輻すなわちスポーク                


       インドの国旗

が千本ある「千輻輪」が最高、最強の法輪でありますが現実には制作上不可能で彫刻、
図にもありません。法輪には周囲に鋭い凶器が付けられておりこれを忍者が使う手
利剣の如く投げて使うものです。仏教では法輪が煩悩を打ち負かして進むとか仏法
の敵を破って進むとか言われます。 

 26.宝経・・経篋とも言います。経典のことですが経典を箱に納めずに手で直に握
   っています。 
 27.青蓮・・紅、紫、青、白の蓮華があります。青蓮華は仏教では尊重されており
   ますが目にすることはありません。
 28.白蓮・・白色した蓮華です。
 29.宝鏡・・鏡と言えば我が国では天皇即位の際に必要な「皇室の三種の神器」の一
   つです。「法隆寺の西円堂」は鏡を奉納することで知られております。
 30.宝剣・・煩悩を断ち切る武器です。
 31.宝箭(ほうせん)・・箭とは矢のことです。 
 32.鉄鈎(鉤)・・かぎ形の武器と三鈷杵の武器が組み合わさったものです。
 33.葡萄・・葡萄は粒が多くあるので多産の象徴でしょう。多産の象徴といえば鬼
   子母神は石榴を握っております。
 34.鉞斧(えっぷ)・・斧、鉞(まさかり)のことです。
 35.宝鐸・・鈴であって演奏に使われたのでしょうかそれとも読経の際使われたの
   でしょうか。
 36.胡瓶(こびょう)・・上部に霊鳥カルラの頭が付いた水差しで西域から伝えられ
   たデザインなのでしょう。
 37.数珠・・お経を唱えるときの回数を数えるのに使います。現在では意味が大き
   く変わっております。
 38.施無畏印・・先述したものです。  

 しかし、これら持物も時代とともにアクセサリー的な要素も加わってきております。

 「蓮華」ですが観音菩薩の左の与願印には蓮華を持つ観音像が多く、「妙法蓮華経」
という経典は天台宗と日蓮宗で採用されており略して「法華経」となります。
 飛鳥時代作の「百済観音像」がしなやかな左手の親指と中指で挟む妖しげな持ち方
をする水瓶には蓋が設けられております。
 天平時代作の十一面観音像ともなると蓮華を活けた花瓶を持っております。花は
水瓶に入れた貴重な香水(こうずい)で、宝物などにほこりが入らないよう密封する
蓋代わりだと言う説があります。
 次の時代になると儀軌では花だけを持つようになります。インドの観音菩薩像は
与願印の左手に大地から生え伸びる青蓮華の茎を握っております。が、我が国では
切り取られた長い茎の蓮華を握っております。持物も時代とともに変わっていく例
です。インドの観音菩薩立像は我が国で言えば平安初期に造られたインドでは新し
いものですが我が国の観音菩薩と比べても下半身の衣以外は違和感はないですね。
 インド、パキスタンでは水瓶を持っていれば弥勒菩薩で観音菩薩は水瓶をもって
おりませんでした。

  
 百済観音立像(法隆寺)

  
 十一面観音立像(聖林寺)

 
 観音菩薩立像(インド)

 

台座

 

 仏像を安置する「台座」は重要視されました。その証拠に台座がないことが「台な
し」と言う語源となっているくらいです。台座がないと仏像の尊厳が損なわれ仏像
としての価値が半減するので台座はなくてはならないものです。
しかし、残念なことに現在では台座がない仏像も数多く見られます。台座のない仏
像はそれだけ、古く貴重な仏像と言えるものでしょう。


    金剛宝座(ボードガヤー)


          
草刈り人の布施

 仏陀が成道されたということは仏陀の生涯の中でも一番重要な出来事であります。
 
成道されたのが「ボードガヤー」であることからインドではボードガヤーの大精舎
・大菩提寺が一番賑わっておりました。
 釈迦の初期の台座は簡素なものでした。草刈り人が差し出す吉祥草を受取り、ピ
ッパラ樹の下で吉祥草を敷き詰めた金剛宝座に結跏趺坐してこれから悟りを開くべ
き深い瞑想に入られました。ブッダが悟りを開いた地ブッダガヤにある金剛宝座で
は上に菩提樹が茂っております。釈迦が菩提された後にピッパラ樹が菩提樹と改称
されました。菩提樹は大木でわが国の菩提樹とは別木です。仏陀誕生の無優樹、菩
提樹、涅槃の沙羅樹は仏教の三大聖樹(木)であります。 
 金剛宝座上に吉祥草が敷かれた粗末な吉祥草座が台座の原型と言えるものです。
パキスタンでは吉祥草座に座った釈迦如来像が多く見られました。我が国ではその
ような吉祥草座は見掛けたことはありません。
 吉祥草は我が国で茅葺屋根材として使用されるススキやかやのようなものでしょ
うか。吉祥草とは釈迦が悟りを開かれた後の命名でインドにおける旧名は存じませ
ん。我が国では種類が違いますが吉祥草と言うものがあります。
 どんな粗末な台座でもダイヤモンドの金剛のようにいかなるものにも侵されるこ
とがないので金剛座、金剛宝座と呼ばれます。「草刈り人の布施」の右端で釈迦に付
添うのは先述のヴァジラパーニ(執金剛神)です。 

 


        仏 三 尊 像

 仏像が造り始められた頃の「台座」はただの台でしたが「仏三尊像」のような優れた
台座も出来ておりました。

 「仏三尊像」はマトゥラー仏の中でも傑作中の傑作と言われるもので仏師が創意工
夫をこらしながら精密な彫刻を施したものです。
 マトゥラーで産出される黄班文がある赤色砂岩で造られ、マトゥラー仏では最古
のものと言われております。
 教団側のしばりがあったのか仏陀であるのに菩薩と銘記されております。
 獅子座上に置かれた吉祥草座に結跏趺坐しております。仏陀は釈迦族の獅子と称
されましたので仏陀が坐る座は獅子座と言われ獅子が居なくても獅子座と称されま
す。台座の両側には横向きの獅子、中央は正面向きの獅子の三頭が表わされており
ます。古くは左右に横向きの獅子が配置されておりましたが時代とともに正面向き
の獅子に変わります。
 台座に表現されていた獅子が独り立ちをして「狛犬」へと変化していったのでしょ
う。

 獅子座は仏陀だけでなく弥勒菩薩にも用いられます。我が国では獅子座の呼称は
あっても獅子が表わされた台座はありません。
 獅子座といっても文殊菩薩のように獅子そのものに坐るのではありません。

 獅子の表現ですが中国では当初、獅子の姿だったらしいのですが時代を経ると虎
と犬に近い唐獅子となります。
 我が国では
平安時代、狛犬と唐獅子の違いは角のあるのが狛犬と決まっておりま
した。
 「東照宮表門の狛犬」は一方の狛犬にしか角がないため角のある方が雄の狛犬とい
うことで阿形の獅子、吽形の狛犬となるのでしょうか。寺院建築にある鬼瓦で左右
の鬼で角があるのとないものがあれば角のある方が雄鬼です。
 唐獅子も狛犬も元を
辿ればインドの獅子にたどり着きます。

    
    吽形の狛犬(東照宮)

 
  阿形の狛犬(獅子?・東照宮)

 

 我が国の台座は飛鳥時代から「方形座(宣字座)」、「裳懸座」、「蓮華座」と続きます
がその中でも蓮華座が盛行します。
方形座は外観が宣の字に似ているところから
「宣字座」と称されました。
 宣字座で著名なものは「法隆寺金堂の釈迦三尊像の台座」で、
法隆寺の宣字座は
「竜門石窟の賓陽中洞の台座」に比べはるかに高く、台座があまりにも高いため台座
全体が入った画像は少ないです。
その台座が据えられております「法隆寺金堂の須
弥壇」の修復工事も2008年12月に無事終わりました。法隆寺の須弥壇は漆喰仕上げ
ですが平安時代ともなると木製の須弥壇が殆どです。
 
裳の裾を台座に垂らしたものを裳懸座といい「薬師寺金堂の薬師如来の台座」が
著名です。
 


  宣字座・裳懸座(釈迦如来・
                  賓陽中洞)


  宣字座・裳懸座(釈迦如来・
       法隆寺・光背は想像図)


 蓮華座(阿弥陀如来・平等院)

 

「蓮華座」についてですが


      花 托

 
      蓮華(竜門石窟・中国)

 「蓮」はインド原産の花でインドの国花です。花の中央部分の花びらなどを付ける
花托(かたく)が蜂の巣に似ているところから「はちす、はす」となったようで、万葉
名では「はちす」とのことです。
 
蓮・蓮華は仏教との関わりもあり、台座の中では「蓮華座」が最多であります。
 
「一蓮托生」とは極楽浄土の神聖な花、蓮の上に生まれ変わると言うことで字の意
味通りですが悪行を働いた一味が一網打尽に捕まった場合に一蓮托生が使われるの
は間違いと言いたいです。 
 「竜門石窟の窟頂」にある蓮華は直径は3.6mもある大蓮華です。
 蓮は16弁の花びらを持つものと解釈し
て、飛鳥時代では蓮は16弁で表現しており
ましたが16弁では菊の花びらと勘違いすると言うことで8弁の蓮の表現に変わった
そうです。それと、八葉蓮華座と言いますが八葉とは8弁のことで八弁蓮華座と言
う方が万人に分かりやすいと思います。蓮は葉が立派だからでしょう。それとも葉
書のように薄いものの数え方を採用したのでしょうか。
 蓮華といえば紅白ですが仏教では紅・白・青・紫の蓮華があります。先述の唐招
提寺千手観音立像がこの四種類の蓮華を持っております。

 蓮華座は蓮華を図案化した重要な台座で、インド、パキスタンでも蓮華座は多く
見られました

 我が国では飛鳥時代に蓮華座が存在しましたが法隆寺の「救世観音像」や「百済観
音像」のように簡単な様式の
反花のみで受花は薄い台座となっております。簡単な
蓮華座といえば大仏さんが座っております台座は、受花と反花だけの大仏座であり
ます。
 蓮華座はシンプルな形から九重蓮華座より大きい蓮華座もありますが形よく残っ
ている大きいものと言えば九重蓮華座でしょう。ただ、九重蓮華座の前には色んな
祀り用具が置かれているため完全に見える事は少ないです。
 七重、九重蓮華座ともなれば坐像で利用され、立像は段数が少なく五重蓮華座が
決まりとなるようです。
 
九重蓮華座とは(蓮肉)、連弁(蓮華)、上敷茄子、華盤、下敷茄子、受座、反花、
蛤座、上框、下框という構成で最も豪華な蓮華座と言えます。これらの形状、組み
合わせの規定はないようです。

 
蓮華座は菩薩にも用いられます。ただ、前述の愛染明王は明王ですが如来、菩薩
用である蓮華座に坐って居られますし秋篠寺の伎芸天は天部なのに蓮華座上に立っ
ておられます。

 蓮の台座といえば踏割蓮華座、荷葉座というものもあります。

 

 


蓮華座(救世観音像)
   (法隆寺)   


  魚鱗葺(盧舎邦仏坐像)
        (唐招提寺)

 
 葺寄式(阿弥陀如来坐像)
       (鳳凰堂)

 蓮華座の連弁が何重にも並ぶ葺き方ですが、天平時代までは「魚鱗葺(ぎょりんぶ
き)」で、平安時代以降は「葺寄式(ふきよせしき)」となります。連弁が段数毎に違え
ているのが魚鱗葺で、蓮弁が各段縦に一列に配置されたのが葺寄式です。後の時代
には魚鱗葺も復活します。「平等院本尊・阿弥陀如来の蓮華座」は最高傑作の一つと
して有名です。   

 「雲座」は阿弥陀如来が脇侍、二十五菩薩を引き連れて高速度の雲に乗り亡くなっ
た人を迎えに来てくださる我が国では大変好まれた台座です。

 「岩や鳥獣」などを表した台座と言えば、不動明王専用の台座「瑟瑟座」、天部像な
どの岩座「州浜座」で、鳥獣座と言えば普賢菩薩の「獅子」、文殊菩薩の「象」などがあ
ります。
 
  台座と言えるかどうかと思えるものに邪鬼があります。「法隆寺金堂四天王像の
邪鬼」は従順な従者のごとく仕えておりますが時代を経ると逃げ出そうと悶え苦し
む邪鬼に変わります。これは仏法の興隆を邪魔する者はこんな仕打ちを受けると言
う見せしめではないでしょうか。法隆寺の四天王像では邪鬼の下に岩座らしきもの
がありますが邪鬼と合わせて岩座と言う場合もあります。  

 

 「光背」ですが古い形式は円相、無文の頭光ですが、大きく発展して参ります。ガン
ダーラでは仏本体と厚い頭光が一体で彫られております。写真のように破損をすると
修理は叶いませんので頭光が完全なものはなかったと言える状態でした。
  カジュラホ(インド)の寺院といえば外壁の彫刻が官能的なミトゥナ像が有名です。
頭光の後ろに蝋燭を灯しておりました。


   頭光(パキスタン)


 頭光(パキスタン)


 頭光(カジュラホ・インド)

  「光背」とは仏像の背後から発する光が後光でこの後光を象徴的な形にしたのが光
背と言われるものです。日常使われる「後光が差す」はこの光背が語源です。三十二
相の丈六光相で如来は一丈(3m)の光を四方に放つ、すなわち、光り輝くところに
如来が居られるということです。
 「頭光」は頭から発する光の表現ですがギリシャのマリア像彫刻の影響でキリスト
教のマリアの光背を真似たものでしょう。
 我が国では「宝珠光背」が飛鳥時代から多く、ガンダーラで見られる「円光」と言わ
れる単純な丸の頭光のみは「法隆寺金堂の四天王」などで見られます。
 頭光の取り付け方は我が国でもガンダーラと同じように後頭部に直接取り付けて
おりましたが仏に対して恐れ多いと感じたのか「法隆寺百済観音像」では後方に支柱
を立ててその支柱に取り付けております。
 身体から発する光を「身光」と言います。頭光と身光とが一対となって身体全体よ
り発する光輝く光背を「挙身光」と言いその代表的なものが「二重円光」ですが多く残
っているのは舟形をした「舟形光背」です。頭光だけの光背はありますが身光だけの
光背は存在しません。
 これら光背は後光・光明と言うイメージから離れ豪華・大型になり釈迦像を引き
立てるため華やかな形状の光背になっていきます。すなわち、多様なデザインが採
り入れられて、時代とともに装飾的な色彩が強くなり、仏を荘厳(しょうごん)する
ように変わっていきます。
 光背は手の込んだものから簡単なものまで千差万別でこれほど変化したものはな
く光背というイメージからかけ離れたものまであります。変わった光背では
「新薬師寺、法華寺
」など興味ある形状となっておりますが多くは木製のため補作さ
れており創建当時の光背のままと言うのは珍しいです。光背でも蓮華の文様が多い
です。 


 宝珠光(薬師如来坐像)
     (法隆寺) 


   挙 身 光(インド) 


 飛天光背(阿弥陀如来像)
       (平等院)

 法隆寺像の宝珠光は見事な作品です。飛鳥時代は前述の法隆寺金堂の釈迦三尊像
のように「一光三尊光背」で一つの光背に本尊と脇侍の3仏をカバーしております。
時代が進むと本尊と脇侍は別々の単独の光背を持つようになります。これは脇侍の
菩薩がもう既に如来の資格を持って居ると言うことですが現世で衆生の救済に当た
るため菩薩の位置に留まって活躍されているのです。 


 千仏光背(盧舎邦仏坐像)
       (唐招提寺)             


舟形光背(釈迦如来像)
        (清涼寺)


 二重円光(大日如来坐像)   
       (円成寺) 

 「千仏光背」とは小さな仏像を千体貼り付けた光背です。
 船の形をしているのが「舟形光背」で、飛天が取り付けられたのが「飛天光」です。
飛天光は阿弥陀如来に多いです。 
 密教の仏像光背は頭光、身光ともに円形の「二重円光」が標準です。


      燃 肩 仏

 我が国では見られない珍しい光背です。禅
定印を結び結跏趺坐した仏陀の両肩から火炎
が立ち上っておりますので「燃肩仏」と言いま
す。「双神変」と違って肩からの炎だけで水は
噴き出しません。
 手が異常に大きいのと真丸の光背が印象的
です。 
 仏陀の左右には蓮茎から伸びた蓮華座に化
仏があります。
 左右の上方には傘蓋を持ったインドラ(帝
釈天)とブラフマー(梵天)が飛天の如く描か
れていて変わっております。
 不動明王に用いられた炎をデザインした
「火焔光」の源でしょうか。

 

服装


      偏 袒 右 肩


     通 肩

 インド、パキスタンでの如来の着衣法には、両肩を覆う「通肩(つうけん)」と右肩
を露わにする「偏袒右肩(へんたんうけん)」があります。両国とも気候風土の影響で
そのような服装になったのかと考えておりましたが、インドの気候は暑いくらいで
すがパキスタンの冬は少し寒かったです。ところが、6月に訪れたパキスタンのラ
ホールは摂氏48度と灼熱地獄でした。
 偏袒右肩とは仏や自分より身分の高い人にお目通りをする時の服装で、釈迦は仏
教界の最高位にあるので通肩でなければならない筈なのになぜ偏袒右肩をされるの
か不思議です。一方、中国では偏袒右肩は逆に目上の者に対し片肌を脱ぐとは失礼
と感じたので「僧祗支(そうぎし)」と言う服装が生まれたのでしょう。後述の
「法隆寺金堂の本尊・釈迦如来像」が僧祗支の服装で有名ですがこの服装は中国の皇
帝の服装との説もあります。
 ガンダーラ(パキスタン)、マトゥラー(インド)ともに立像は通肩です。坐像は通
肩もありますが偏袒右肩の方が多いように見えました。

 

 
   偏袒右肩(薬師如来坐像)
      (薬師寺)


 通肩(薬師如来立像)
   (室生寺)


  通肩(薬師如来立像)
   (唐招提寺)

 上記の図で分かるように如来は通肩も偏袒右肩もあります。しかし、我が国では
偏袒右肩の如来の方が多いような感じがします。 ただ、偏袒右肩の場合インド、
パキスタンでは偏袒右肩の意味通り右肩を完全に露出しておりますが我が国では小
さな布を右肩に掛けております。
 通肩は托鉢に回る時や座禅の時の服装です。

 

  菩薩の服装ですが菩薩は釈迦の弟子でありその姿は釈迦の修業中の服装であるべ
きですがそれでは恐れ多いと言うことで釈迦の王子の時代の服装となっております。
貴人の豪華な衣裳を考える際、在家の人間がこの服装では修業の妨げとなり悟りを
開いて如来になり得ないだろうと考えはしないかと、服装を決定するのに大いに悩
んだことでしょう。
 余談ですが如来は質素でも僧侶は立派な装いであるのはいい身なりをした僧侶に
読経していただいたほうが霊験あらたかと考える人々が多くいるからでしょう。

 

弥勒菩薩

  「弥勒菩薩」についてですがインド、パキスタンの弥勒菩薩は水瓶を握っておりま
すので判別し易いです。
 
インドは暑熱の国であるうえ乾季には雨が振らないので大変乾燥しており喉が渇
きます。ですから、昔から、インド、パキスタンでは出かける際に水筒は必需品だ
ったのでしょう。
それと、弥勒菩薩であって弥勒如来は見ませんでした。
 インド、パキスタンでは
「弥勒菩薩像」は仏陀像に
次いで多い仏像でした。


                           過 去 七 仏

 「過去仏」は
我が国では見
かけないもの
ですがインド、
パキスタンで
は見る事が出
来ます。
 過去仏は通
肩と偏袒右肩
の組み合わせ
です。仏陀も
過去仏に入っ
ております。

 現在、未来の仏だけでなく過去の仏までが表現されるようになりました。
 
左端は瓔珞を着け左手に水瓶を持つ弥勒菩薩です。


      仏 三 尊 像
         (パキスタン)


  弥勒菩薩坐像
   (パキスタン)


  弥勒菩薩坐像
    (インド)

 「仏三尊像」の本尊は偏袒右肩、説法印、蓮華座に結跏趺坐しております。
 左脇侍は長髪を束ねて左手で水瓶(赤矢印)を持っているので弥勒菩薩です。
 我が国では釈迦の脇侍と言えば普賢菩薩、文殊菩薩ですが「法隆寺金堂本尊・釈
迦如来」の脇侍は「薬王、薬上菩薩」です。釈迦菩薩(左手を腰に当てている)と弥勒
菩薩という組み合わせの三尊像は拝見したことはありません。
我が国では菩薩は素
足でありサンダルを履きません。
 「弥勒菩薩坐像」で説法印(転法輪印
)を結ぶ場合は必需品である水瓶を持つことが
出来ませんので水瓶
(青矢印)は台座の前面中央に移動しております。それがさらに
宝冠の中央に移動して「勢至菩薩」となったのではないかとも言われております。
 右写真の禅定印の弥勒菩薩は水瓶を左手の指の間に挟んで持っております。 

 弥勒菩薩は中国では両脚を交差させる交脚像となり韓国では半跏思惟の弥勒菩薩
が制作され、その韓国の様式が我が国に伝わり飛鳥時代作の「中宮寺弥勒菩薩坐像」
となりました。椅子に座る倚像は我が国では少ないです。しかし、中宮寺の伝える
ところでは弥勒菩薩ではなく如意輪観音となっております。
 交脚像は我が国でお目にかかれません。

 弥勒菩薩は間違いなく釈迦のリリーフとなることが決まっていることから「弥勒如
来」と称されることがあり次の白鳳時代には弥勒菩薩ではなく弥勒如来が「当麻寺」で
誕生しております。  

  弥勒菩薩は仏陀入滅後56億7千万年後に兜率天から下生して、仏陀の救済に漏れた
者を含め救済を求める総ての人々のために働くと言われていますが、そんな気の遠く
なるような長期間待って居れないと、人々の不満を解消すべく兜率天での修行を中断
して現世に降りて人々の救済に当たっているということでインド、パキスタンでは
弥勒菩薩像が多く造像されたのでしょう。
 当麻寺の本尊は如来形となっておりますが、尊名は弥勒仏でまだ兜率天で修行中の
ため如来とせずに仏とされたのでしょう。しかし、後代には如来の尊称が付けられま
す。如来ともなると中宮寺弥勒菩薩像のあどけない愛くるしい顔立ちとは大分違って
参ります。


  交脚弥勒菩薩坐像(中国)


 弥勒菩薩坐像(韓国)


 弥勒菩薩坐像(中宮寺)


  弥勒仏坐像(当麻寺) 


    
弥勒如来坐像(興福寺)

 

 
 


 如意輪観音坐像(観心寺)

 

 先述の中宮寺像が寺伝では「如意輪観音」
となっておりますが如意輪観音の如意とは
宝珠、輪とは法輪のことで如意輪観音は如
意宝珠と法輪を持つことからの名称です。
ですから如意輪観音は如意宝珠と法輪は必
ず持っていなければならないのです。
 2臂の半跏思惟像で如意輪観音と言われ
るものが飛鳥から天平時代にまま見られま
すが弥勒菩薩ではないかと思われます。古
代は規定を重く考えなかったので如意輪観
音ではないとは断定できませんが如意輪観
音は平安時代に密教ととも請来したと言わ
れております。
 

 

 「飛鳥時代」は渡来人の技術者が仏像の制作に指導的な役割を果たしたと言うこと
ですが不思議なことに仏師が渡来していないのです。そこで馬の鞍造りだった「止
利仏師」が担当したとのことです。その止利仏師も蘇我家の引きもありましたので
蘇我家が滅びるとともに歴史上から消えていきました。

 

 「天平時代」までは仏教の制作については経典を参考にする程度で、仏師の考えに
基づきしかも好む材料で制作することが出来ましたのでびのびした作風が感じられ
ます。
 天平時代の仏師は国家公務員待遇で官の位が授けられただけプライドを持って制
作に励みましたので他の時代では見られない秀作揃いとなったのであります。
  古都奈良の仏像は天平時代までのものが多く、天平時代は決まりがさほど重要視
されなかったので次の平安時代以降とは大きな違いがあります。前述の印相などは
あまり気に掛けなかったようであります。

 

 「平安時代」ともなると多くの仏像が密教とともに請来しました。密教寺院に安置
される仏像の種類が多かったので仏像の種類を区別するためルールを重んじる事に
ならざるを得なかったのです。多くの礼拝者は多種多様の仏像を規定で調べ見比べ
ることはなく無頓着に見えます。顔の表現がはっきりしないのを眺めて憂いに富ん
だ表情とか自分自身に微笑みかけてくれているとか自分流に個性的な解釈して拝ん
でおられます。国家鎮護の任を密教が任されましたので従来の宗派を退けて飛躍発
展いたしました。
  平安時代になると仏師は天平時代の国家公務員から除外され籍を寺院に置き冠位
ではなく僧籍を取得し僧階が授けられておりました。密教関係の仏像では儀軌、経
典の解釈については僧と僧籍にある仏師とが議論し合ったことでしょう。  
 阿弥陀如来像は施主の希望が定朝様と言われる「平等院の阿弥陀如来像」と寸分違
わない像でしたので全く同じものが制作されましたが造形が似通っておりましても
顔の表現には違いがありました。しかし、顔の表現まで詳細に決めた仏師の工房も
あったようです。
 パキスタン(北インド)で密教が起こったと言われるのですが密教の仏像には触れ
る事が出来なかったのは残念でした。そのインドでも密教の尊像は多くあるため眼
で見分けるための儀軌が創作されたのでしょう。

 ただ、見応えのあるユニークな像として著名な「新薬師寺、神護寺などの薬師如
来像」が制作された平安時代初期の弘仁・貞観時代は、儀軌が無視された感があり
ますが社会現象が強く影響したのでしょう。 

 密教では儀軌は厳しく守ることとなっております。とはいえ密教に改宗する際既
に大日如来以外の本尊がある場合は柔軟な対応がされております。たとえば、「四国
八十八ヵ所霊場」は真言密教の寺院であるならば本尊は「大日如来」でなければならな
い筈ですがその大日如来を本尊とする寺院はたったの6ヵ寺です。

 四国八十八ヵ所霊場

 観 音 名

 件数

 観 音 名

 件数

 観 音 名

 件数

 薬師如来

 23

 釈迦如来

 5

 馬頭観音

 1

 千手観音

 13

 地蔵菩薩

 5

 弥勒菩薩

 1

 十一面観音

 11

 聖観音

 4

 文殊菩薩

 1

 阿弥陀如来

  9

 虚空蔵菩薩

 3

 大通智如来

 1

 大日如来

  6

 不動明王

 3

 毘沙門天

 1

   

                         87

 ※ 計87というのは「岩本寺」の本尊は阿弥陀如来・薬師如来・観音菩薩・地蔵菩薩
・不動明王の五尊のため加えておりません。

 

 「鎌倉時代」に盛んになる浄土宗、浄土真宗などの浄土教は阿弥陀如来一本ですか
ら儀軌、経典の理解は容易だったことでしょう。阿弥陀如来の秘仏はまれだけに施
主は一般大衆の礼拝者が見て安らぎを覚えるともに現世利益が期待できるような作
品を望んだのでないでしょうか。と言うことは、時代、施主の趣向は儀軌をも優先
することもあったということでしょう。私などは仏像を信仰の対象ではなく礼拝の
対象として眺めておる罰あたりかも知れません。この浄土宗は厳しい修行を求めら
れた従来の仏教に比べただ念仏を唱えるだけで浄土に往生できると言う画期的な改
革ゆえ、我が国では国民の殆どが仏教徒となったのですが本山すら知らない方が増
えていることも事実ですし阿弥陀如来以外の仏が祀られているのを気にも留めず南
無阿弥陀仏と唱えてお祈りするおおらかさもあります。神仏融合の影響か仏さんに
柏手を打って礼拝されても違和感を与えないのは我が国ならではでしょう。

 

 

                画  中西 雅子