仏像の誕生

 今回の「仏像の誕生」については予備知識もなく悪戦苦闘しながらなんとか纏めまし
たが満足する内容とはいえません。しかし仏像の誕生は素人の私のとって興味尽きな
い内容であることは事実です。
 少しストゥーパに触れた後に仏像について記載いたします。
 インド・パキスタンと我が国との仏教には大きな違いがありインド・パキスタンで
は仏教をささえたのは王侯貴族、豪商、比丘などでした。これらの関係者が没落する
と仏教も運命共同体として栄枯盛衰の理の通り両国の仏教は消滅していきました。
 ただ、インド・パキスタンでの仏教興隆時代は、仏教建築の寄進、既存の建築物の
改修、拡張に上流社会の男性のみならず女性までもがわれ競って驚くような寄進して
おりましたことは奉献塔の多いことと建築を荘厳する浮彫り彫刻の多さが物語ってお
ります。我が国でも功徳を求めて寄進を競う平安時代がありましたが寄進したのは一
部の特権階級だけだったのでインド・パキスタンとは比べようがありません。 
 これからの説明ではインドのマトゥラー、パキスタンのガンダーラと記載しますが
当時はインドのマトゥラー、インドのガンダーラだったことを念頭に置いといてくだ
さい。

          

 「ストゥーパ」の形状ですがインドでは円形基壇に半球状の伏鉢、平頭、その上に傘
蓋で構成されますがあまり高くそびえる塔は好まなかったようです。一方、ガンダー
ラでは方形基壇に複数の円形状の胴部に半球状の伏鉢を乗せその上に平頭、傘蓋を置
いております。両国では基壇の形状が大きく違います。 


        ストゥーパ 

  「ストゥーパ」は紀元前の作品
です。下の欄楯(らんじゅん)(
矢印
)(玉垣)の向こう側に下の繞
道(にょうどう)がありさらに上の
欄楯(緑矢印)の向こう側にも繞道
があります。
 後述のサーンチー第一塔をご参
照ください。
 ストゥーパの伏鉢に掌印(青矢
)が付いております。上の繞道
を3回の右回り礼拝をしたのでし
ょう。右手で仏陀の象徴たるスト
ゥーパに触れながら右繞礼拝する

ことによって来世には浄土に近づけることを願っていたのでしょう。

 

   
 南塔門 下の繞道(サーンチー第一塔)


   上の繞道(サーンチー第一塔)

  下の繞道にある階段を上がると右図
の上の繞道に出ます。
 この階段は南側しかないところから
現在は北側が正門となっておりますが
当初は南側が正門だったことでしょう。

 

 当初の伏鉢の表面は漆喰できれいな表
面に仕上げられておりました。現在もそ
の厚い漆喰塗りを所々で残されておりま
す(後述)。この繞道を伏鉢に触れながら
3回右回りで回ったことでしょう。

           

 「サーンチー」は前回書きましたように国立インド野外美術館と言えるところです。
巨大な伽藍配置だった面影はありませんが紀元前1世紀からの美術作品が見られる貴
重なサーンチーです。前回の「仏陀の生涯」の掲載写真にはサーンチーの作品が多数あ
りました。アジャンター石窟でのしつこいもの売りにはうんざりですがその点、サー
ンチーでは一切なくサーンチーの感激の余韻に浸ることが出来ます。
 サーンチーの巨大伽藍が廃墟の状態になりながらも第1塔、第2塔、第3塔が奇跡
的に残ったことは美術的価値においても素晴らしいことです。象牙職人の作品という
だけあって細部まで丹念に彫りあげた壮麗な作品を心ゆくまで満喫してください。
 仏教美術の起源は仏教建造物を荘厳するため本生譚、仏伝の浮彫彫刻でその集合体
がサーンチーです。 


        サーンチー第一塔(東門)

 「サーンチー第1塔」
の東門です。
 第一塔の基壇の
     直径は36.6m、
高さは16.46mです。
  「塔門」は東西南北
に四つあり、塔門の表
裏には精緻な浮彫り彫
刻で埋め尽くされてお
ります。


      平頭と傘蓋


    伏鉢(白い部分が漆喰)

 当初は舎利容器を納めた空間を反円形に土盛りで固めただけだったのがその上から
切石が組まれさらに漆喰仕上げといたしました。写真では漆喰が剥がれて石組みが露
出しております。それらと並行して円形基壇、平頭、傘蓋が追加され現在の姿になり
ました。これらの改造工事が完了いたしましたのが我が国の弥生時代でその当時の姿
を今に残すサーンチーです。それがじっくり拝観出来て写真撮影も自由という恵まれ
た所で私など2回目は長時間滞在しておりました。昨年までストゥーパの表面と彫刻
が黒くくすんで汚れておりましたが現在は写真のようにきれいに整備復元されており
ます。

  塔門、欄楯も木製から石製にグレードアップ出来ましたのは多くの供養者が功徳を
競ったからです。
 古代インドの貴人たちを埋葬した墳墓がストゥーパの淵源ということですが古代イ
ンドでは土葬の習慣だったのでしょうか。もし、火葬ならあとはガンジス河に流す筈
ですがそういえば仏陀もガンジス河に流していないのは何故でしょう。
 ストゥーパの丸い形は仏陀の円満な思想の表現でしょう。サーンチーは支配者の墓
ではなく仏陀という聖人の墓ですから豪華さはないですが周囲には欄楯と鳥居の元祖
のような塔門があります。
 インド、パキスタン共に野外のストゥーパが完全な形で残っているのはサーンチー
だけではないでしょうか。パキスタンでは完全どころか無残な姿のストゥーパしかあ
りませんでした。

 サーンチーは何時間いても見あきないほどの作品群ですが総てを紹介することはで
きませんので「聖樹礼拝」のそれも一部を掲載いたします。 

 

 


         サーンチー第一塔(北門)

 有名な「アシャーカ
王柱」が青矢印の所に
立っておりました。
この丁度反対側に折れ
た支柱が置かれており
ます。頂上の4頭の獅
子はサーンチー博物館
に展示されております。
 赤矢印は三叉標で
三叉標については後述
いたします。


  アシャーカ王柱の折れた支柱


    アシャーカ王柱の基部

 サーンチーのアシャーカ王柱の柱頭ですが背中あわせ4頭の獅子で構成されており
ます。図の
頭の獅子は黒色ですがサーンチーの現物は白色です。基壇には4聖獣、
獅子、象、牡牛(こぶ牛)、馬の順に法輪を挟んで彫刻されております。
 
両側の図のように獅子の頭上には法輪(青矢印)が挙げられていたのではないかとも
言われております。基壇に法輪がありますので不必要だったのかも知れません。

の獅子が
獅子吼して邪悪なものの進入を防いだことでしょう。

 柱頭彫刻の数々です。

 


 
獅子の柱頭


 
牡牛(こぶ牛)の柱頭

 


    背中合わせの獅子の柱頭

 

 


     
三叉標


    
        三宝標


 
        三宝標

  左端の「三叉標(さんさひょう)」がサーンチーのものです。三叉標とは蓮華座上にあ
る三叉が仏陀の象徴として崇敬されました。
  「三宝標(さんぽうひょう)」とは三叉の上に三つの法輪を載せたものです。三叉標は
仏陀のみでありますが三宝標は仏陀、法(仏陀の教え)、僧を象徴的に表すものです。
仏陀だけであったのが仏、法、僧の三宝が崇拝されるようになります。仏、法、僧の
成立で仏教教団が出来たことになります。 
 
台座は主に蓮華座が用いられておりますが右端の図は片膝を付いたヤクシャが法輪
を右手と頭で
支えております。両側には三宝標を礼拝する比丘たちがおります。 

 


          サーンチー第2塔

 「サーンチー第2塔」
は現存最古のストゥー
パではないかと言われ
ております。
 基壇の直径は
   14.33mです。
 第2塔には塔門、平
頭、傘蓋がなく欄楯の
みが存在いたします。    

  後述の第51番僧院跡の横を通り未整備の石段を下ったすぐの所にあり、石段は危険
が伴うようなものではありませんが2回目の方たちはパスされてしまわれました。下
記の装飾文様は第2塔の一部で制作年代は紀元前の気が遠くなるような古代です。是
非訪れて浮彫り文様をじっくりとご覧ください。仏伝図はありません。 

 


           第51番僧院跡

 「第51番僧院跡」は
第1塔とほんの近く
にあります。
 手前が東であるた
め東が正門となりま
す。第51番の僧院と
いうことはサーンチ
はいかに巨大な仏教
伽藍だったことが想
像されます。

 


      サーンチー第3塔


 南門(サーンチー第3塔)

 「サーンチー第3塔」の基壇の直径は15mです。南の塔門のみが残っております。
第1塔とは向かい合う近距離にあります。十大弟子の舎利仏、目犍連の遺骨を納めた
と思われる舎利容器が出てきたとのことです。十大弟子も仏扱いされていたというこ
とでしょう。

 
  サーンチーの3塔全ての彫刻は紀元前後に造られたものでよくぞ今日まで残ったも
のだと感心させられます。それよりも工人の技術力の高さと古代に硬い石を加工でき
る工具があったということは驚嘆に値します。

 

 


        ダーメーク仏塔 


   鼓胴部の装飾部分 
  グプタ時代の装飾で幾何学文様、
樹枝文様など美しい文様で荘厳さ
れておりました。

 「ダーメーク仏塔」はインド最大のストゥーパだと言われております。基壇の直径は
 28m、高さは43.6mを誇り、伏鉢鼓胴部は石積みで2段の円筒形となっております。
 8カ所の仏龕(青矢印)には仏像が残っておりません。 

 ダーメーク仏塔は仏教の四大聖地の一つ「サルナート」にあり仏陀が最初に説法した
場所として著名です。鹿の園ですが鹿の数は少ないです。 

 


             アジャンター石窟 全景

  アジャンター石窟」は巨大な仏教石窟寺院で今から約200年前にイギリス人によ
って発見されたとのことです。インドでは珍しい絵画が豊富に残っております。絵画
だけでなく彫刻も優れたものがふんだんにあります。百聞は一見にしかずです。自分
の目でご確認ください。ただ、もの売りには関わらないことです。断る積りで「あと
で」というと出てきたところで待っております。原石などを手渡すのでただでくれる
のかと思えばきちっと代金が請求されます。パンフレットが欲しい場合は要らないと
いう態度で歩いて行くとだんだんと価格が下がります。ある時など価格が半分以下に
下がり高い価格で購入された方は大変悔しがっておられました。
 石窟は手前から順次番号が付けられております。
 手前の川は「ワゴーラー川」ですが乾季の季節だったので水は流れておりません。


   アジャンター第10窟

 
       アジャンター第26窟

  「アジャンター第10窟のスト
ゥーパ」は紀元前の造立だけに
シンプルなスタイルです。2段
の基壇上に半球状の伏鉢を置き
その上に平頭、当然あった筈の
傘蓋が欠落しております。初期
の特徴である装飾彫刻、装飾画、
仏像は刻まれておりません。

 

 「アジャンター第26窟のストゥーパ」は仏像
崇拝に変わる過渡期に造営されたのでありま
しょう。龕の中に仏陀坐像を安置し舎利の代
わりに仏像を納めた仏像舎利となったのでし
ょう。
 高い基壇となったため伏鉢が上に押し上げ
られました。半球状から円球状に近づいた伏
鉢には男女の飛天などの装飾彫刻が施されて
おります。伏鉢に彫刻を入れることはストゥ
ーパが装飾的建造物に変わったということで
しょう。

 

 

    
            アジャンター第19窟

   
        エローラ第10窟 

 「アジャンター第19窟のストゥーパ」は高い基
壇上に円球状の伏鉢となりしかも平頭と傘蓋が
一体化しております。
 仏像を祀った基壇部分が大きくなり伏鉢は仏
像の傘蓋のようになっておりストゥーパから仏
像に主体性が移っております。
 我が国の塔の伏鉢は半球状でインドの古代の
しきたりを踏襲しておりますがその伏鉢は高い
層塔の屋根上にぽつんと乗っております。 

 

 「エローラ第10窟のストゥーパ」
は大きな仏龕となり基壇は分かり
ません。脇侍を従えた仏像を安置
した仏龕はストゥーパから前に張
り出た状態で構築されております。
仏像とストゥーパとは各々独立し
たものという考えでしょう。傘蓋
は欠落しております。

 

 これよりはパキスタンのストゥーパです。

 ダルマラージカー大塔

 


         ダルマラージカー大塔跡

 「ダルマラージカー大塔」は土饅頭型のストゥーパです。直径46m、高さ14mで周囲
には多くの奉献塔が祀られておりました。大伽藍の寺院だったらしいですがその面影
はありませんでした。


    アトラス(ダルマラージカー)


 薬師寺の本尊の台座(北面・玄武)

 基壇を支える「アトラス」については後述いたします。

 

 シルカップ遺跡

 


          シルカップ

 

 

 「シルカップ」は広大
な伽藍ですが見渡した
ところ建造物らしいも
のは下図の方形基壇し
か見えませんでした。


          方形基壇(シルカップ)

 

 5段の階段が設置さ
れた6.65mの方形基
壇です。この方形基
壇上に伏鉢が設置さ
れその上に下図の平
頭と傘蓋が乗ってお
りました。 

 それにしても方形基壇はよくぞ残ったもので基壇の装飾は建築的には貴重な遺構な
のでしょうが理解できませんでした。分ったのは丸柱と角柱が使われていたことと
双頭の鷲のレリーフくらいです。


    角柱と円柱・双頭の鷲(青矢印)(シルカップ)


   平頭・傘蓋

 

 

タフティ・バハイ山岳寺院


  タフティ・バハイ山岳寺院


  タフティ・バハイ山岳寺院

  「タフティ・バイ山岳寺院」は約150mの高台にありますが到着すると真っ先に上の
注意板が目に飛び込んできます。こんな遠隔地まで来て問題を起こす者がいるとは同
胞として恥ずかしい限りです。
 山の中腹を切り開いて伽藍が造られました。この辺りの山には今だ発掘されていな
いところが多くあるとのことで相当数の美術品が盗掘に会い海外に流出していること
でしょう。最近(2007.07.06)の新聞でも密輸仏像が約30点アメリカで摘発され、幸い
なことに押収された仏像はスワート美術館に返されたと報じております。その密輸品
の中には完全な頭光を付けた菩薩坐像がありました。今回気付いたことはガンダーラ
美術は個人蔵が多いことでした。

 


      全 貌(タフティ・バハイ山岳寺院)  

 ガンダーラ平野を見
降ろす素晴らしい景観
です。
 平地は幾らでもある
のに山地に造営された
のは神が宿る山として
選ばれたのでしょう。
 主塔院には方形基壇
(青矢印)のみ残ってお
ります。
 向こう側には僧院が
見えます。
 

 奉献塔区には仏像を祀る小祠堂が有りその小祠堂に祀られていたのが下図の仏像
(模作)です。
 発掘すればまだまだおびただしい仏教美術品が出てくるとのことです。ここでは簡
単なネットで仕切ったところに発掘品が無造作に置いてありました。これでは盗難に
会わないのかと心配になりました。


     奉献塔区(タフティ・バ
イ山岳寺院)  


  仏陀像(小祠堂)

  

 

 ブトカラ遺跡

 「ブトカラは」奉献塔が200基あったという広大な寺院跡です。ゆっくりと回れば
色々な発見があることでしょう。立ち寄る程度でしたので情報はありません。


         ブトカラ遺跡


  獅子(ブトカラ遺跡) 

 「狛犬」の元祖みたいな「獅子像」が寂しそうに佇んでおりました。


         ブトカラ遺跡


   ブトカラ遺跡

 モラモラドゥ僧院


     方形基壇(モラモラドゥ)

  「モラモラドゥ塔」は方形
の基壇とその上の円筒部が
少し残るだけとなり灰色の
瓦礫と化しておりました。
ガンダーラでは基壇が高く
なっていった影響で高い方
形基壇であります。欄楯、
塔門はありませんでした。
ただ、大塔を中心に200基
のストゥーパが並ぶ盛況な
伽藍だったようです。 


 小祠堂(モラモラドゥ)  


         内 庭(モラモラドゥ) 

 
 奉献小塔(モラモラドゥ)


  奉献小塔(模作)

 「奉献小塔」は僧院の祠堂内
に安置されております。素材
はストゥッコで彩色は剥落し
て白色の塔となっており清楚
な感じです。
 下から5段の鼓胴、伏鉢、
逆平頭、七重の傘蓋で伏鉢が
上へ上へと祀り上げられてお
ります。  
  高さ3.6mの奉献塔が寺院
址に残されております。博物
館にあるのがコピーで移動す
れば破損する恐れがあるため
現在も残されたままですが奉
献小塔がここまできれいに残
っているのは珍しく貴重な遺
構といえます。祠堂の左半分
には固定の防護壁があり開い

ている右半分に身体を入れての撮影でしたので一度には撮影できず写真は合成写真で
す。
  円柱部が何段にも重なりしかも相輪も高くなっておりますがバランスは取れており
ます。下から2,3段目の龕には小仏像が祀られております。伏鉢はストゥーパその
ものではなくなり上に祀り上げられ一部分となっております。 
 奉献塔が東南アジアにおいても多く建立されて中には千塔もの寺院がありますが我
が国での奉献小塔は少数しかありません。

 

 ジョーリアン山岳寺院


       ジョーリアン山岳寺院

 

 「ジョーリアン山岳
寺院」は高さ90mの中
腹にある山岳寺院で
見るべきものが多くあ
りました。下図の基壇
がいくつかありました
が一時保管というよう
な陳列で惜しい気がい
たしました。訪れる人
も少ないので整備費用
が出ないのでしょう。


   基壇(ジョーリアン山岳寺院)


      基 壇(模作)


  仏陀像(ジョーリアン山岳寺院) 


 仏陀像(ジョーリアン山岳寺院)

 スタッコ(ストゥッコ)製の仏像で粘土で荒型の像を造り漆喰で仕上げます。
4,5世紀に盛んに造像されました。ストゥッコは漆喰、石灰と同じ意味です。 

  
 瞑想する仏陀像(ジョーリアン山岳寺院) 


 仏陀像(ジョーリアン山岳寺院)   

 

 

 シャンカダール仏塔跡     

 


         シャンカダール仏塔

 

 

 「シャンカダール
仏塔」の表面を飾っ
ていたレリーフは
見当たらず誰かが
持っていったので
しょう。

 


   
カニシカ王立像


                銘  記

 カニシカ王立像」は仏像が制作され始めた頃に造像
されました。なぜここに持ってきたかと言いますと仏像
制作以前に肖像彫刻は行われていたと考えるからです。
 この像がカニシカ王の像であることの確かな証拠は

青矢印
の所に銘記されている上記の文字で、
「大王、諸
王の王、天子、カニシュカ」と書かれているからです。
  スカートに長い外套をはおり大きな長靴を履いており
ます。インドではヤクシャ像は足を開いておりますがこ
れほど極端に開けば逆に不安定になるのに、王としての

威厳を示すためのポーズでしょう。衣の折り目は板を重ねたようになっておりますが
法隆寺の金堂本尊の裳も同じような形状になっております。
 右手で「マカラ」が刻まれた棍棒を上から押えて倒れるのを支えております。左手で
大きな剣を握っております。マトゥラーでは仏像は薄着ですが本像は厚着です。
 我が国の古代では仏像は制作いたしましたが天皇、皇族の肖像彫刻は制作されませ
んでした。ただ、僧侶の肖像彫刻は存在いたします。


       マ カ ラ 


     マ カ ラ

  インドには「マカラ」が建造物の魔除けとして活躍しております。頭は鰐、胴体は魚
という
空想上の海獣です。我が国の「鴟尾」も空想上の魚(鳥とも言われます)と言われ
ておりその原型はマカラではないかとの説があります。ただ、鴟尾の形は沓型に変わ
っていきます。それと、鴟尾が変化して「鯱(しゃち)」になったという説もありますが
どちらかと言えばマカラは鯱の祖先かも知れませんね。
 我が国では建造物の魔除けは鬼瓦一辺倒で鴟尾の使用は短期間で鯱も一部の仏堂の
みで使用するだけで主に城郭で用いられております。いずれにしても鴟尾も鯱も中国
から請来したものです。


 マカラ(大雄宝殿・萬福寺)


  宝珠(大雄宝殿・萬福寺)


 マカラ(開山堂・萬福寺)

  京都の「萬福寺」は黄檗宗の大本山で名僧「隠元禅師」が開創されました。寺伝により
ますと隠元禅師が中国福建省から来られる際に隠元豆・西瓜・蓮根・孟宗竹・木魚な
どを持って来られたということです。
 図のマカラ(摩伽羅)と宝珠(火焔付き二重宝珠)は、「大雄宝殿」の大棟の、左右に
マカラ、真中に宝珠が挙げられております。右のマカラは開山堂ものです。
 大雄宝殿の「大雄」とは「仏陀・釈迦」のことですから本尊は仏陀であります。ただ、
黄檗宗では「だいゆうほうでん」ではなく「だいおうほうでん」と称します。
 寺院での主要な建物は我が国では金堂、本堂ですが中国、韓国では大雄宝殿です。
 宝珠はマカラの脳から出たものとの伝説がありますが萬福寺はいかなる理由で宝珠
とマカラを用いられたのでしょうか。

 

 

   「仏像の誕生」はガンダーラで起こり次いで間もなくマトゥラーだと言われており
ます。が、仏像制作はガンダーラ、マトゥラー共にほぼ同時期に起こったとの説もあ
りそれらの根拠は仏像の様式が全然違うからです。しかし、ガンダーラ誕生説が多数
派であることは事実です。
  仏陀像がガンダーラで考え造り出されたことは画期的とも言え、もし仏像が制作さ
れなかったら仏教がこれほど世界的に広まらなかったことでしょう。大乗仏教が拡大
発展したのも仏像があればこそでしょう。ガンダーラ仏は我が国の仏像にも大きな影
響を与えております。
 仏像待望論が起きたのは当然の成り行きで、文字が読めない人々に仏伝や本生譚の
「絵解き」を行い、ストゥーパを始め聖樹、聖台、仏足跡などの仏陀の象徴を仏陀その
ものと思えと吹き込んだことでしょう。そう言われても、聖壇の上に透明人間の仏陀
が居られるとは想像できなかったことでしょう。
 比丘たちにおいても仏陀像を待ち焦がれていたのではないでしょうか。

 仏陀入滅後直ちに超人的な仏陀像を制作しようとしても、仏陀は人生の大半を布教
に費やされ多くの人々に会って居られたため、仏陀には光背、肉髻、縵綱相などは無
かったと見破られてしまうので出来なかったのでありましょう。
 しかし、仏陀入滅後5世紀を経て仏陀のことを知る人は居なくなったとはいえ、当
時の工人たちは創意工夫しながら仏陀像を制作したことでしょう。これらの出来事は
すべて我が国で言えば弥生時代のことです。
 その工人たちの仕事量は、王侯貴族とか豪商という富裕層の男女が上座部仏教であ
りながら仏陀への功徳によって来世に浄土に生まれ変われることを願って寄進を多く
しておりますので多かったことでしょう。

 パキスタンでは大乗仏教、密教が起こり多くの種類の仏像が考案され、それが砂漠、
大都市、大海原を超え、はるばると我が国にやってきて、国民の大多数が仏教徒とい
う現状を生み出したのであります。
 仏教ほど他の宗教の神々を取り入れているのは異例と言え、それだけに仏像の数は
半端なものではありません。
 密教の発祥地はパキスタンのスワートです。
 パキスタンのガンダーラという地名は現在ありませんが一方のインドのマトゥラー
は現在も地名が残っております。マトゥラーの近くには最近(2007.07.07)「新・世界
七不思議」に選ばれた「タージ・マハル」があり観光客はこのタージ・マハルには必ず
と言っていいくらい寄られますがマトゥラー博物館は見学コースには入っていないの
は惜しい気がいたします。

 

 ガンダーラの仏像は硬い緑泥片岩製であるため黒っぽいのに比べてマトゥラーの仏
像は黄白班のある赤色砂岩製で赤っぽいのですぐに見分けがつきます。ガンダーラで
は厚着で衣の襞は大きく表現されますがマトゥラーでは薄着で襞を表現するのを避け
ようとしております。
 仏像の素材の関係でガンダーラ仏は硬い感じでマトゥラー仏は柔らかい感じがいた
します。
  
 仏の優れた容姿に32の大きな特徴と80の細かい特徴がありそれらのことを
三十二相八十種好(さんじゅうにそう・はちじつしゅごう)と言います。これらの総称
を三十二の相と八十種の好を取って「相好(そうごう)」と言います。日常生活で使
われる相好の語源であります。

 

  我が国の仏像の故郷であるガンダーラ仏の特徴ですが、


     頭光に文様あり

 
     頭光に2筋の文様あり

 「光背」はガンダーラの初期は頭光のみで形状は円形で文様なし無装飾です。この
円形の頭光はガンダーラでは長く続きました。上図は装飾文様がある光背で珍しく
右図は菩薩の光背です。

 「顔」はやや面長であり、我が国では当初はやや面長でしたが間もなく丸顔に変わり
ます。

 三十二相の肉髻相(にっけいそう)とは、仏陀の頭頂の肉か頭頂の骨が隆起してい
て肉が髻のようになっているので肉髻といいます。ですから頭頂の骨ではなく肉と言
うことになりますがそんなことは関係ないことでしょう。
 ふさふさとしたウェーブ状の長髪を頭上で図のように頭頂の髪を束ねそれを紐(
矢印
)で結んで出来た髪の盛り上がり髻となったものですが三十二相の肉髻とする際
に髪を束ねたものでは特徴にもならないので頭頂の肉の盛り上がりと変更されたので
しょう。仏陀は巻いていたターバンを外してから剃髪をされましたが比丘と同じ剃髪
ではあまりにも怖れ多いということで考えられたのが肉髻となったのでしょう。肉髻
は当初、肉の隆起ではなくウェーブ状の髪でしたから思い思いの形に作られました。
後述の「清涼寺の釈迦如来立像」の髪型はガンダーラでも変わったものと言えるくらい
ユニークなものです。

 図の左からみると髪の毛は自然なウェーブ状が螺髪に変わりつつあるのが理解でき
ます。我々が見慣れた如来像は頭上に螺髪が付いたものしか知りません。

 眉毛は浮彫りではなく線で表しております。

 
白亳も一石から彫り出しておりますがよく残っていたと感心しております。白亳
は白い毛ではなく吹き出物のようであります。我が国では仏像の素材は石材ではなく
木材で白亳の位置を彫り込み水晶など嵌めております。ガンダーラにも水晶など嵌め
こんだ白亳もあります。
 
 
は人間本来の眼で自然な形です。
 
鼻筋が通り西欧人の鼻にそっくりです。鼻は高いですが鼻の下が短いです。
 
口許はアルカイックスマイルのように見えます。  

 

  「耳朶」は我々の耳と変わらないですが時代とともに
耳朶は長く垂れ下りついには肩まで届くものまで現れ
ます。
我が国では耳朶が長いのがお馴染みです。

 「は彫りが深く真ん丸いこの眼こそ杏仁形の眼で
しょう。我が国での眼は杏仁形ではなくアーモンド形
であります。間もなく瞑想的な半眼となっていきます。


 「口髭」は浮彫りの立派な髭でありわが国の仏像にも
口髭のあるものがあります。我が国の
口髭は筆で書い
たものが多く今では退色して
識別出来なっております。

 口髭はガンダーラ仏の特徴であり後述のマトゥラー
仏には口髭はありません。

 ギリシャ、ローマの神像には顎鬚がありますが仏像
には顎鬚はありません。しかし図の苦行像には顎鬚が
あります。
 口髭は仏陀の偉大さを表すために付けられたのでし
ょう。
 口は小さいようにみえます。


   苦 行 像

  

 「衣文線の襞」ですが首元は放射状ですが右肩か
ら左腋かけて緩い曲線を描く並行する襞が左腋で
急に反転(緑矢印)いたします。
 臍の下あたりから身体の中心を並行する襞は曲
線ではなく直線に近くしかも折り返しは鋭角的と
なっております。
 襞は大波(青矢印)、小波(赤矢印)の繰り返しの
翻波式衣文であります。我が国ではこの翻波式衣
文は平安時代の始め弘仁・貞観時代に流行し
「新薬師寺本尊・薬師如来坐像」が有名です。
また、「室生寺本尊・薬師如来立像」は複翻波式衣
文(漣波式衣文)で名高いものです。

 口髭と言いこの翻波式衣文など我が国の仏像の
様式の根源はガンダーラにあると言えましょう。 


      右 手  


    左 手  

  「縵綱相(まんもうそ
う)」とは指と指の間に水
鳥の水搔きのような膜が
あることを言います。
 図の右手首はよく残っ
た方です。ガンダーラの
場合右手はほとんど破損
しております。
 右手には縵綱相があり
ますが左手には縵綱相が

がありません。このことはそもそもの発端が破損し易い指を保護するために彫り残し
たものだからです。左手は衣の端を握っていて補強が要らないから縵綱相がないので
しょう。しかし、衣の端を握った左手にも経典に忠実に縵綱相がある場合もあります。
 三十二相の一つである縵綱相ですが我が国でも同じように縵綱相についてはあまり
関心がなかったように思われます。
 ガンダーラでは手首は別材で造られ後に取り付けられております。

 ギリシャ彫刻の遊脚である片足に身体の重心を掛けもう一方の足を浮かせいかにも
歩き出そうとする瞬間を表したものであります。しかしこのことは脚を見ただけでは
判断が付きませんが左膝が前に出て大衣に膨らみが出来ておりますことから判断でき
ます。この膝の膨らみが黒光りしておりますのは膝の悪い方が膝の快方を願っての撫
ぜ仏だったのでしょう。本来四足の人間が二足歩行では膝が悪くならざるを得なく室
生寺の釈迦如来坐像も撫ぜ仏だったのか膝が光って居ります。
 青矢印
の所の色は彩色に使われた色ではないでしょうか。 

 ガンダーラ仏は壁などに取り付けられていたようで背面は扁平で奥行きがありませ
んが高浮彫のため正面、横から見ても丸彫のように見えます。これらの仏像は礼拝像
であって、荘厳のためのものではないでしょう。 
   
 制作年代は不明なものがほとんどで書籍によっては年代幅が5世紀に及ぶものもあ
ります。
 ガンダーラ仏は青黒色の片岩製で
両肩を覆う通肩で厚手の大衣を着用し肉体は表現
されませんが量感は感じられます。ギリシャ・ローマの貴族・神像の衣の襞のようで
自然なものとなっております。

 ガンダーラでは仏像の制作にはギリシャ人が参画しておりましたがギリシャの人体
表現に近づけることに抵抗を示し、仏陀に備わった
超人間的な特徴として頭光、肉髻、
白亳、縵綱相、長い耳朶、施無畏印や説法印の印相などを加えたのでしょう。最近に
なってガンダーラ仏はギリシャではくローマの影響が大ではないかという説も出てお
ります。
 

 厚手重々しい衣となっているのはパキスタンはインドと違って国土は標高があり冬
は冷え、街頭では毛布を巻いた人をよく見かけることから仏像も厚手の衣となったと
みられ、インドのマトゥラーの薄着とは大きな違いがあります。
 
 立像の様相はこころもちなで肩で右手は施無畏印、左手は衣の一端を握っておりま
す。


      仏陀立像


     仏陀立像


     仏陀立像

 上図の立像は仏像が制作開始された頃のもので頭の髪は螺髪ではなくウェーブ状の
髪型です。立派な口髭をつけておりますが台座がありません。
 左側の仏陀立像は2.6mもある巨像で保存状態も最高でガンダーラ仏では代表作と
されております。施無畏印の右手、衣の端を握っている左手の両手が揃って奇跡的に
残っております。それと、光背は本体との一石造のため光背が破損すれば補修は不可
能です。ですから、光背が残っておれば貴重な遺品といえます。我が国では光背は本
体と別材で制作されておりますので補修可能という違いがあります。

 

 

 これより頭髪が螺髪となっていきます。中には螺髪が規則的にきれいに並んでいる
像も出てきます。


   仏陀立像


  仏陀立像


  仏陀立像


  仏陀立像


  仏陀立像


  仏陀立像


  仏陀立像

  仏陀立像

 仏陀の生涯の「優填王の造像」を模刻して持ち帰った像が「清涼寺本尊・釈迦如来立
像」と言われるだけに清涼寺像には口髭があり、頭髪は長髪から螺髪に移る過渡期の
渦巻状の縄のような螺髪、翻波式衣文、大衣が頸まである通肩、大衣は放射状に波紋
を描くような流水文で、大衣の裾が短くなっておりガンダーラ、マトゥラーの様式を
引き継いだ魅力ある像です。近くでの拝見が許されますのでじっくりとご覧ください。


    仏陀立像

 金色相の金箔が所々に残った貴重な仏陀像です。
 三十二相の「金色相(こんじきそう)」で片岩に金箔を貼る
漆箔で当初の像は全身が金色に輝いていていたことでしょ
う。それと、彩色像もあったらしく赤色などで彩られてい
たらしいです。先述の台座の色がそれではないかと考えま
す。
 我が国での金色相ですがインド、パキスタンと違うのは
我が国ではブロンズ像に金メッキを掛けた金銅像でありま
す。インド、パキスタンで金銅像の話は聞けませんでした
が金銅像も存在したが何か別物に流用されたのでしょう。

  

 

 

 
      仏陀坐像

 「仏陀坐像」は頭光、手首も残るガンダーラ仏の
中でも傑作の一つです。
 頭光は無装飾の時代の作です。
 頭髪はウェーブ状の髪を頭頂で紐で束ねて肉髻
としております。
 耳朶はまだ短く、白亳は小さい突起物です。
 浮彫りの口髭で威厳さが加わりましたが日本人
好みの理知的な顔ですね。
 偏袒右肩はガンダーラ仏では坐像に多いです。
 転法輪印(説法印)は大日如来の智挙印によく似
ており智挙印の先駆けでしょうか。転法輪印の仏
陀はマトゥラーには存在いたしません。
 足裏には千輻輪相がなくガンダーラ仏にはない
ことが多いです。
 結跏趺坐で坐し、足首を表した場合裙が足下か
らU字型となって台座に掛かっているのは裳懸座
の原型でしょう。 

 台座は獅子座で両脇に正面向きで沖縄のシーサに似た獅子(青矢印)がおりますが獅
子は簡略化されて頭と足だけで胴は省略されております。

 

 


       仏陀坐像


      仏陀坐像

 左側の「仏陀坐像」の頭髪は、ウェーブ状の髪と肉髻部は螺髪と珍しい髪型です。
 
 右側の「仏陀坐像」は螺髪ですが螺髪となるのが遅れたのは三十二相の螺髪が決まる
のが遅れたためでしょう。
 俯き加減の顔のため瞑想する情感を強く感じられます。深い瞑想に浸っておられる
ことでしょう。
 台座は獅子座で中央に禅定印の仏陀を礼拝する供養者が刻まれております。

  


    仏陀坐像


     仏陀坐像


    仏陀坐像

 

 

  4.5世紀になるとストゥッコ(スタッコ)という塑像が多くなります。塑像は個性
の表現に適しているのと顔の表情が柔和になります。ストゥッコとは篩い土に石灰を
混ぜた漆喰像のことです。
 ストゥッコは修正が限りなく出来るので優れた表現の像が造れます。
壁面に張り付
けられた浮彫像で彩色されておりましたが現在は剥落しております。
顔の表現が清楚
ですがすがしく感じるのは澄んだ瞳だからでしょう。 


    仏陀立像


      仏陀立像


   仏陀立像

 


   仏陀坐像


     仏陀坐像


    仏陀坐像

 


    仏陀坐像


   仏陀坐像


    仏陀坐像

  
 

  ガンダーラ仏に対して「マトゥラー仏」ですがマトゥラー仏は黄班文がある赤色砂岩
だけに柔らかく温かい感じがいたします。
 マトゥラーでは仏陀でありながら菩薩と銘記されていることは仏陀が誕生してから
5世紀が過ぎても教団に対する気配りかそれとも仏陀を人間の形で表現することに抵
抗があったからでしょうか。
 マトゥラー仏は丸顔で溌剌とした青年の顔です。肩はいかり肩、右手は施無畏印、
左手は腰に当てるか膝に上に置きます。身体の重心を両足に均等に掛けて正面性を強
調しております。
 様相は薄い衣の偏袒右肩、襞の表現より肉体表現に力を入れております。薄い衣で
肉体表現に重点があるのは古代の神のヤクシャ、ヤクシー像に通じるものでしょう。
 
 ガンダーラでの髭がマトゥラーでは採用されなかったのは比丘は剃髪で髭を生やす
のがタブーだったのを尊重したのでしょう。

 マトゥラーの立像はもっぱら通肩でありますが坐像の場合は通肩と偏袒右肩とがあ
ります。

 

 


        仏 三 尊 像

 「仏三尊像」はマトゥラー仏の中でも傑作中
の傑作と言われるもので仏師が創意工夫をこ
らしながら精密な彫刻を施したものです。
 高さはたった69pで想像していたよりはる
かに小型でした   
 マトゥラーで産出される黄班文がある赤色
砂岩で造られ、マトゥラー仏では最古のもの
と言われております。
 教団側のしばりがあったのか仏陀であるの
に菩薩と銘記されております。
 頭髪と顔の容貌については後述いたします。
 いかり肩で左肘を強く張りいかにも活動的
なスタイルです。 
 右手は施無畏印、左手は膝の上に置きます。
獅子座上に置かれた吉祥草の草座に結跏趺坐
しております。仏陀は釈迦族の獅子と称され
ましたので仏陀が坐る座を獅子座と言われ獅
子が居なくても獅子座と称されます。台座の

両側には横向きの獅子、中央は正面向きの獅子の三頭が表わされております。古くは
横向きの獅子が配置されておりますが時代とともに正面向きの獅子に変わります。獅
子座は仏陀だけでなく弥勒菩薩にも用いられます。我が国では獅子座の呼称はあって
も獅子が表わされた現物はありません。
 肉体表現を強調する薄い衣の大衣であり襞は左肩、左臂から垂れる部分だけと膝小
僧辺りには裙の襞が表れております。
 右肩を露出する偏袒右肩でありますが偏袒右肩とは尊い人、高僧など目上の人の前
に出る時や仏陀を礼拝する時の正式な着衣法です。仏教界での最高位にある仏陀より
尊い人は居ないので仏陀は通肩でなければならない筈なのになぜ偏袒右肩をされるの
か不思議です。通肩は托鉢に回る時や座禅の時の服装です。
 図では見えませんが手に千輻輪相、足裏には千輻輪と三宝標が刻まれておりますが
ガンダーラではあまり刻まれませんでした。千輻輪相は後述いたします。
 左右背後に払子を手にする菩薩の脇侍が控えております。

 光背の周辺部には菩提樹がありその枝が仏陀に厳しい太陽光線が当たらないよう垂
れ下っております。
 天上には2飛天が散華供養しております。飛天は一般に足の片膝を曲げることによ
って飛翔していることを表しております。
 頭光には周辺部にのみ連弧の縁文様があります。   
 
 右手が残っているのは右手の裏に装飾物をいれて彫り残す工夫の結果です。



   仏三尊像の頭部

 若々しい青年の顔です。
 巻貝形・蝸牛殻のような特殊の髪型ですが地髪の中
央部の剃り残した髪を上に巻きあげたものでその証拠
に髻には横に毛筋がきざまれております。
 我が国でも地蔵菩薩像の場合頭は剃髪ですが髪の毛
の部分は僅かにこの仏陀と同じように脹らましてあり
ます。
 肉髻は珍しく前傾しております。
 長く引いた眉とぼつんと小さな白亳は浮彫りで表し
ております。
 ぱっちりと見開いた眼で人間らしい眼です。
 口は角で少し上がり微笑んでおります。
 ガンダーラ仏と違って口髭は付けません。
 耳朶は長くなっております。

 
     仏 足 跡

 三十二相の「足下安平立相(そっかあんぺいりっ
そう)」とは仏陀の足は扁平であるということゆえ
仏足跡が出来るのであって我々の足跡はこのよう
にはならないのは当然であります。
 仏足跡が考え出されたので仏陀の足は扁平だと
言われるようになったのでしょう。ただ、仏陀の
足の裏は真っ平らでありますが我々が普通扁平と
いうのは土ふまずの面積が少ないことも言います
ので仏陀は扁平以上といえます。
 仏足跡で指に卍花文相が印されておりますが何
故か薬指の卍の向きが違います。
 「手足千輻輪(しゅそくせんぷくりん)相」とは
手の掌や足の裏に千輻輪相(青矢印)(千本のスポ
ーク状の車輪)という文様があることです。輻を
千本刻むのは現実には難しいので制作の際には省
略されております。
 三叉標(赤矢印)の下には蓮華紋があります。

 


      仏 頭 


   山田寺仏頭(興福寺)

   「仏頭」は若々しく溌剌とした美少年の面影で見開いた眼の形は違いますがゴムま
りのような豊頬といい「興福寺の山田寺仏頭」を思い出しました。
 頭部に特徴があり地髪部を剃り上げ頭頂部を剃り残した髪を横に束ねたものを2段
に形成し肉髻としています。 肉髻らしくなってきております。
 口にはアルカイックスマイルのような笑みをたたえております。
 このような肉髻の髪型は先月(2007.08.23)発売の「ぴあ(関西版)」の表紙を飾った
「蒼井 優」さんの髪型によく似ているのには驚きました。 

 

 

  
    仏陀立像

 「仏陀立像」は偏袒右肩で肌が透けて見えるぐらいの薄衣
で右臂辺りと腰下部分のみに襞が見えます。
 やや撫で肩ですが肩幅は広いです。
 右手は多分施無畏印で左手は例によって腰に当てて威風
堂々と立っております。
 すらりとした体型で身体の重心は両足に均等に掛けてお
ります。
 足許で左足の左には竹のようなものが、両足の間には蓮
華のようなものがありますがなんだか分かりません。両足
の間に獅子を表す像もあります。
  剃ったような髪型で柔和な丸顔の眉も白亳も浮彫りで表
現されております。
 眼はぱっちりと見開き鼻筋は通っております。    
 

 


     仏 陀 立 像


      仏頭と光背の一部分

  「仏陀立像」はグプタ彫刻の最高傑作と言われる
ものです。
 像高は220pの巨像です。優美で端正な像は熟練
の技による素晴らしさにより魅了し続けております。
 まず最初に眼に飛び込むのは91pの頭光でこれだ
け完全な姿でよくぞ残ったものです。

 頭光の繊細で華麗な装飾文様は、開敷蓮華、六弁花文、中央には向かい合う鳥、連
珠文、蓮弧文などで最高の出来栄えの頭光で見応えのあるものとなっております。
 肩幅が広くすらりとして堂々とし て体躯で脚が長いです。螺髪の粒は一定で規則正
しく配列されておりますが肉髻は小さいです。
 マトゥラーでも通肩が出てまいります 。
 眉は細い浮彫りですが白亳はありません。ひょっとすると筆書きされた眉が消えた
のかも知れません。我が国でも弘仁・貞観時代の如来像に白亳が無いものがあります。
 見開いた眼から瞑想的な半眼となりその半眼の目線が鼻の先に集中したためか鼻が
欠けておりますのは惜しい気がします。
 「三道(青矢印)」は膨らみが出てきて三道らしくなってきました。
 
衣の襞は首元から放射状ですが右肩から左腋かけて緩い曲線を描く並行する襞が左
腋で急に反転しております。通肩でのこの様式はガンダーラの影響でしょうか。
 臍の下あたりから身体の中心を並行する流れるような襞は、U字型の細い流麗な襞
となっております。ただ、薄い衣でどうして襞が出来るのか不思議です。それとも、
ガンジス河で沐浴されてきたところでしょうか。この衣文様式は我が国の仏像にも取
り入れられております。 
 何故か大衣が短くなって腰を覆う裙が見えております。両足の間の獅子も存在せず
足の両脇には小さく表わされた供養者が跪坐し礼拝しております。供養者が異常に小
さいのは仏陀の偉大さを表すための演出でしょうかそれとも仏陀の身長が4.8m(丈六)
であることを表しているのでしょうか。

 右手は施無畏印だったことでしょう。左手は衣の裾を手繰り寄せて握っております。
薄着のため臍が透けて見えるのと下帯が写っております。

 


  仏陀立像


    仏陀立像

 
 「仏陀立像」は螺髪で肉髻が小さ
いです。
 温和な顔で額が広く眼は半眼で
す。
 通肩で全身にU字型の襞を表し、
襞は波紋を描く優美な曲線で華麗
なものとなっております。
 右手は施無畏印を印し左手で衣
の一端を握っております。 

 大衣が短く下着の裙が現れてお
ります。この服装は動くのに便利
なためでしょうか。

 足元左右に小さな供養者が刻ま
れております。 

 

 



      仏陀立像 

  「仏陀立像」はグプタ時代にサルナート様式で制作され
ましたものです。サルナート様式とは緻密な砂岩の特徴
を生かすため衣の襞を刻まなかったので一見衣を纏わぬ
裸のように見えます。この襞を表わさないのがサルナー
ト様式の大きな特徴であります。サルナートとは仏教の
四大聖地の一つで仏陀が最初に説法された場所です。
 サルナートはマトゥラーと並んでグプタ時代仏像の二
大生産地でありました。
 頭光の欠損が惜しいです。
 耳朶は長く肩口に届きそうです。
 温和な表情ですが正面を見据えております。
 右手は施無畏印、左手は衣の裾の一端を握り挙げてお
ります。左右の両手には縵綱相を刻みしかも千輻輪相が
印されております。
 両足の間にあるのは獅子ではなく何か分かりません。
 襟元、袖口、腰帯以外の表現がないのがかえって見て
いて惚れ惚れする仏陀となっております。
 衣が肌にぴったりと纏わり付いているので体温のぬく
もりが伝わってくるようであります。薄着で襞がないの
は自然な表現で小さな襞が出来るのは装飾的表現といえ
ましょう。


    仏陀立像

 


 大衣の胸元から右腕を出ししかも
うつむきかげんでこれからなにをし
ようとしているのか分らない像です。
大衣から腕を出すのは珍しく数は僅
かです。 

 

 


       仏 三 尊 像

  「仏三尊像」の本尊は偏袒右肩、説法印、
蓮華座に結跏趺坐しております。
 右脇侍(向って左)はターバン冠飾を着け、
右手は施無畏印、左手に花綱を握る観音菩
薩。左脇侍は束髪で右手は胸の高さまで上
げ掌(青矢印)を手前に向けている。左手首
は欠損していますが多分水瓶を持っていた
弥勒菩薩でしょう。
 右後方には宝冠を着けたインドラ、左後
方にはブラフマーが上半身を覗かせており
ます。ブラフマーの右手は弥勒菩薩と同じ
ように掌(青矢印)を手前に向けております。
天蓋は聖樹でその中に樹神(赤矢印)が見え
ます。左右の小祠堂内に結跏趺坐した禅定
仏が見えます。
 台座には仏伝が描かれております。 

 


       仏 三 尊 像

 「仏三尊像」の本尊は偏袒右肩、説法
印、蓮華座に結跏趺坐しております。
 右脇侍(向って左)は左手を腰に(
矢印
)当てているので釈迦菩薩でしょ
う。
 左脇侍は長髪を束ねて左手で水瓶
(赤矢印)を持っているので弥勒菩薩で
す。
 左後方は長髪のブラフマーです。
 右後方は宝冠を被り金剛杵(青矢印)
を持っているのでインドラです。
 我が国では釈迦の脇侍と言えば普賢
菩薩、文殊菩薩であり、釈迦菩薩と弥
勒菩薩という組み合わせの三尊像は拝

見したことはありません。ただ、「法隆寺金堂の本尊・釈迦如来」の脇侍は「薬王、薬上
菩薩」です。

 

 


     仏 三 尊 像


       仏 三 尊 像

 

 


       仏 三 尊 像


      仏 三 尊 像

 

 


      仏 三 尊 像


   仏 三 尊 像

 

   


         仏 陀 説 法 図


     仏 陀 説 法 図

  「仏陀説法図」としておりますが異説もありはっきりしませんが参考図として掲載い
たしました。

 


             過 去 七 仏

  過去仏は通肩と偏袒右肩の組み合わせです。仏陀も過去仏に入っております。それ
はそうと過去仏の業績の記録は残っていないのでしょうか。 
 左端は瓔珞を着け左手に水瓶を持つ弥勒菩薩です。

 

 


                過 去 七 仏

 右端が未来仏の弥勒菩薩です。
 
下図は酒を飲みながらの男女交歓図です。  

 


            
仏陀と菩薩と供養者 

  通肩の仏陀は右手を施無畏印ないしは与願印しておりますが、袖から手を出してい
ないのは珍しい(青矢印)です。菩薩は右手は施無畏印ですが左手は腰に当てるものと
花綱を握るものがありこれらは釈迦菩薩と観音菩薩でしょう。左端の菩薩はターバン
冠飾ではなく束髪で左手には水瓶を持っていたように見えますので弥勒菩薩でしょう。
後方の列は写真が不鮮明で分かりませんが金剛杵(赤矢印)をもつヴァジラパーニ(執
金剛神)が居り当然その右側は仏陀でしょう。両端の供養者は花綱を持っております。 

 

 

 これよりガンダーラの菩薩についてです。釈迦菩薩の様相を観音菩薩が引き継ぎます。

 

  釈迦菩薩・観音菩薩は王侯貴族に相応しい姿でターバン冠飾を付けておりましたが
冠飾は欠落してありません。
  宝冠に多くの華麗極まりない飾りで我が国では見られぬものです。耳朶には重たく
揺れる華やかな耳璫(耳飾り)がぶら下がっております。その耳璫の重さで耳朶が長く
なったのです。ですから、長い耳朶はステータスシンボルです。

 

 

 菩薩に1本の華麗な頸飾り、2〜3本の胸飾りを付けております。頸飾りは幅広い
扁平な形状ですが胸飾りは簡素なものから複雑な装飾のものまであります。我が国で
はこれほど華麗な装身具はお目にかかれません。胸の中央に垂れる胸飾りには宝石の
端を噛む怪獣の頭(赤矢印)があります。もう一本の胸飾りは左肩から右脇腹に垂れて
おります。さらに、もう一本は左肩から右臂に掛けてでありますが右の臂釧でずり落
ちるのを止めております。 
 臂釧(青矢印)の豪華さもガンダーラの特徴であります。腕釧が複数ありますのはヤ
クシャ像の流れでしょうか。
 片岩だけに細部まで緻密な彫刻を施すには苦労したことでしょう。
 腰紐の結び方はヘラクレス結びといい現在でも装身具などで出てくる結び方です。

 


      阿修羅像(興福寺)    

  我が国では菩薩は素足でありサンダルを履きません。「東大寺三月堂の月光菩薩像」
が沓を履いていますのは例外です。

 我が国の仏像でサンダル履きは珍しいですがあの有名な「興福寺の阿修羅像」はサン
ダル履きのうえ髪は金髪です。サンダルの前緒(赤矢印)はわれわれが日常生活で履く
ものは短いですが、興福寺の阿修羅像では少し長くなりガンダーラではさらに長くな
っております。

 台座の前面の浮彫りは仏伝など多様であります。この図は交脚菩薩像の左右に3人
の供養者が礼拝しております。

 

  ガンダーラ仏の特徴を生かした「法華寺本尊・十一面観音像」は口髭を生やし右足は
台座からはみ出すくらいの遊足となっており、衣文は翻波式衣文です。仏陀は左手で
衣の一端を、法華寺像は右手で天衣を握っております。
 
十一面観音像の謂われはインドの仏師が麗しい光明皇后をモデルにして制作された
像で、像は三体造像し、二体は日本に残し残りの一体はインドに持ち帰ったと言うこ
とです。現存するのは法華寺像のみで他の二体は行方不明です。私は何故インドの仏
師が刻んだという伝説が出来たのか理解できませんでしたが、十一面観音像がガンダ
ーラ(当時はインド)の影響を多く受けているのでインドの仏師の手によるものである
という伝説ができたのでしょう。ただ、光明皇后にはサンダルは不釣り合いと考えて
裸足にしたのでしょう。

 


  弥勒菩薩立像


   弥勒菩薩立像

   弥勒菩薩立像

  「弥勒菩薩像」は仏陀像に次いで多い仏像です。
 弥勒菩薩の髪はヘヤ・バンドで髪を装飾的に纏めているものと肩まで垂れる長い垂
髪とで成り立っております。ただ、釈迦菩薩のようにターバン冠飾を付けておりませ
ん。
 左手に水瓶を握っているとのことです。これは
左手に水瓶を執るバラモン(僧)(後
述)の流れです。 
 暑熱の国インド、パキスタンでは12月から2月までは気温も温暖で最高の季節です
が雨が振らないので大変乾燥しており喉は渇きます。ですから、昔から、インド、
パキスタンでは出かける際に水筒は必需品だったのでしょう。
 我が国の場合「法隆寺百済観音像」が左手で持つ水瓶は水筒の流れをくんでおります
ので水瓶には蓋があります。しかし、我が国では飲料水が何処ででも入手出来ますの
で水筒は不要です。それゆえ、水瓶は花瓶代わりとなり蓮華を活けた華瓶を持つよう
になります。それが前述の法華寺像です。さらには、華瓶を取り除いて蓮華だけを持
つようになりますのはインドでの蓮華手菩薩の流れでしょう。

 弥勒菩薩は仏陀入滅後56億7千万年後に兜率天から下生して、仏陀の救済に漏れた
者を含め救済を求める総ての人々のために働くと言われていますが、当時のインド人
がいくら気が長いといっても気の遠くなるような56億7千万年も待つことを了解しな
かったことでしょう。これでは、人々は付いてこないと考え兜率天での修行を中断し
て現世に降りて人々の救済に当たっておられますよということで弥勒菩薩像が多く造
像されたのでしょう。 結果として上求菩提(じょうぐうぼだい)、下化衆生(げげしゅ
じょう)という考えが出来たのでしょう。

 


  バラモン僧像

 「バラモン僧像」は偏袒右肩の様相で右手は施無畏印の
ようでもあり、何か呼びかけているようでもあります。
髪は頭頂を紐で結んで髻を作っております。
 左手にはバラモン僧の持ち物である首の長い丸型フラ
スコ状の水瓶を持っております。この水瓶が弥勒菩薩の
持物となります。
 弥勒菩薩には口髭はありますがバラモン僧の顎鬚はあ
りません。  

 


   
弥勒菩薩坐像


   弥勒菩薩坐像

   弥勒菩薩坐像

  「弥勒菩薩坐像」で転法輪印を結ぶ場合は必需品である水瓶を持つことが出来ません
ので水瓶
(青矢印)は台座の前面中央に移動しております。それがさらに宝冠の中央に
移動して勢至菩薩となったのではないかとも言われております。
 それと、右図の禅定印では水瓶を左手の指の間に挟んで持っております。

 

   

  釈迦菩薩立像


   観音菩薩立像


  観音菩薩立像

 ガンダーラの「釈迦菩薩像」の様式が「観音菩薩像」に引き継がれ、我が国の「観音菩薩
像」へと繋がります。
 「釈迦菩薩像」は仏陀の菩薩時代の姿と言われますがこれは後世に創られたもので仏
陀の修行時代は質素な服装(仏伝:猟師と服の交換)だったことでしょう。菩薩像を造
像する段になって王侯貴族のスタイルが採用されたのでしょう。それが現在の華やか
な装身具を身に着ける菩薩の様相となっております。
 釈迦菩薩は左手を腰に当てておりますが観音菩薩は左手で蓮華か花綱(華鬘)を持っ
ております。右手は一般的に施無畏印です。
 頭にはターバン冠飾を被りますが冠の前飾りは多種多様です。上半身は裸、下半身
には腰布を着け腰帯は太い紐でヘラクレス結びをしております。

 


見返り菩薩? 

   観音菩薩坐像


  蓮華手菩薩坐像


  交脚菩薩坐像

 

 


     阿弥陀如来像の脚部分


 台座には「アミターバ仏・世尊」と
銘記されております。仏教史上最古
の阿弥陀如来像で貴重なものです。
 単体の阿弥陀如来像で三尊像では
ありません。
 クシャーナ時代のマトゥラーでは
阿弥陀信仰が存在した証拠です。
 台座一面に銘記されております。
 阿弥陀如来はこれから北伝仏教国
で盛んに造像されました。我が国で
も阿弥陀如来が盛んに信仰されてお
り阿弥陀如来だけは顕教、密教とも
に如来として入っております。


     銘文の一部分(台座) 

 

 

 
   観音菩薩立像


          化 仏

   「観音菩薩立像」は宝冠に「化仏(けぶつ)(青矢印)」を表した最初の仏像かも知れな
いという仏教史上貴重な文化財です。
 大きなターバン冠飾を被り豊頬な顔には浮彫りの口髭があります。耳璫は賑やかな
ものです。
 右手は施無畏印だと思われます。左手には水瓶ではなく花綱を持っておりますので
観音菩薩でしょう。
 化仏ですが光背は
ガンダーラではもっぱら頭光のみである筈なのに化仏の光背は二
重円相光背を背負っております。偏袒右肩で転法輪印を結ぶ仏が結跏趺坐しておりま
す。化仏は仏陀か阿弥陀如来かは不明です。我が国で化仏といえば阿弥陀如来に決ま
っておりその化仏をいただいた菩薩は観音菩薩と決まっております。

 

 
  観音菩薩立像

 「観音菩薩立像」は我が国で言えば平安初期に造られた新しい
ものです。
 楕円形をした頭光で頭には三面宝冠のようで素晴らしい宝冠
を頂き垂髪は肩まで垂れております。
 重そうなイヤリング、絢爛豪華は首飾りを着け蓮華座に立っ
ております。 
 ほほ笑んだ顔は崇高にして柔和な顔立ち、三曲法のスタイル
を見ても男性には見えず可愛らしい乙女そのものです。 
 右手が数少ない与願印で左手には大地から生え伸びる青蓮華
の茎を握っております。 

 小さい脇侍はどんな尊像でしょうか。 
 我が国でも大地から生える蓮華の茎を握る観音菩薩像がある
のでしょうか。長い茎の蓮華を握る観音菩薩しか知りません。
 この像は文殊菩薩像であるとの説もあります。

 


 執金剛神立像(東大寺三月堂)


 熟年のヴァジラパーニ


青年のヴァジラパーニ

 「ヴァジラパーニ(執金剛神)」は仏陀の涅槃までボディガードとして金剛杵を持って
仕えましたが我が国では仏陀に付き添う執金剛神像そのものは無く単独像としか造ら
れておりません。それよりも、我が国では執金剛神が2体となって須弥壇や門の左右
を守護する二王(仁王)に興味が向いております。仁王さんと親しみを込めて呼んでい
るくらいです。

 何故か、ヴァジラパーニだけは若きヴァジラパーニと熟年のヴァジラパーニが表現
されます。右側の若きヴァジラパーニが右手に払子を持っておりますのは仏陀に纏わ
り付く虫を追い払うためでしょう。下に表現されている人物は誰でしょうか。
 ヴァジラパーニは上半身が裸であるのに対し「東大寺三月堂の執金剛神立像」は鎧を
着けております。
 金剛杵(青矢印)を中央で持つ場合と掌と肩で持つ場合がありますが東大寺像は金剛
杵の中央をもっております。パキスタンの金剛杵は両端が太くなっているのに対し
東大寺像の金剛杵は先が鋭く尖っております。ですから、若きヴァジラパーニのよう
に掌で金剛杵を持つことは出来ないのでしょう。

 バラモン教のインドラ、ブラフマー、ヴァジラパーニを家来にすることによって仏
教はバラモン教より上位に出ることになりました。

 

 


    ヤクシャ像 


    ヤクシャ像


   ヤクシャ像

  民間信仰の神だった「ヤクシャ」、「ヤクシー」についてです。
 「ヤクシャ」はインド古来の神で当初は左側のヤクシャ像のように螺髪のごとく
結い
あげた
頭髪、大きな耳朶、黒眼を描く見開いた眼瓔珞と腕釧は豪華でガードマンに
は相応しくなく、しかも歯を見せ微笑んで愛想を振りまくユーモラスなポーズでした。
ヤクシャは鉢を頭上に掲げ供物を捧げる役目だったのでしょう。

 右のヤクシャ像は守門神としての役目が主となっていき我が国の四天王の源流とな
りました。背景に樹木が彫られているのは樹精の名残でしょう。ただ、甲冑を身に着
けず武人像らしくありません。足を開き気味にして立っているのは魔物の進入を防護
する姿勢を示しているのでしょう。

 

 


     ヤクシー像

  
  ヤクシー像

 ヤクシャに対する「ヤクシー」です。
 左側のヤクシー像は最高に美しい像だと評判の作品で朝日を浴びている像です。

強材というべき持送りにこれほど美しい乙女を充
てたり右側のヤクシー像は邪鬼の上
に乗っかり女性らしいイメージとはかけ離れた演出です。
 弾けんばかりの肉体美を誇る魅惑的な姿態でこんな官能的な守門神は仏教には相応
しくないと考えるのは日本人だからでしょう。
 衣を着けているのか分らない薄い衣を着け両手をマンゴ樹に掛け身体の重心を右足
に置き不安定な姿勢となっております。
 マンゴー樹は熟した実がたわわとなっておりますが現実は花から実になるものは少
なく生産性は悪いらしいです。
仏教ではマンゴ樹も聖樹で高さが40mにもなり暑い日
差しを遮り木陰で休息するにはもってこいの樹木らしいです。我が国と違って仏教の
三大聖樹はすべて高木です。それと、本生譚「大猿本生」仏伝「マンゴ園の寄贈」もマン
ゴがからむ内容です。
 時代は
ヤクシーから後述の豊穣多産の「ハーリーティー」に人気が移っていきました。
 ヤクシャは四天王として蘇りますがヤクシーはどうなったのでしょうか。ハーリー
ティーと入れ替わりに消滅してしまったのかそれとも「樹下美人」の祖先がヤクシーな
のでしょうか。
 ちなみにインドはマンゴの世界最大生産国で、マンゴは現在我が国の女性に人気あ
る熱帯フルーツとなっております。 

 

 


  クベーラ坐像

 「クベーラ像」です。この像はヤクシャ坐像ともいわれて
おりますがクベーラ像として説明いたします。
 クベーラはヤクシャの頭領で姿を見ると財宝の神のイメ
ージでありますが守護神のイメージはありません。
 太鼓腹が邪魔になるのか胡坐も組めないので右足を立て
ております。
 頭髪は螺髪ですか螺髪の先駆けでしょうか。
 首飾りが左肩から捩れたものが垂れ下っている変わった
ものです。
衣裳は僅かな部分しか纏っておりません。 
 飛び出した
大きい眼、立派な口髭、微笑んでいるような
口許でユーモア溢れる像です。
 腹が光っておりますのは人々がその太鼓腹を触れて金持
ちになることを願ったからでしょう。
 クベーラはヒンズー教の財宝神で仏教に取り入れられて
四天王の多聞天となり単独で祀られると毘沙門天となりま
した。

 なぜ、毘沙門天が財宝神でもあるのか理解できませんでしたが毘沙門天の源がクベ
ーラということで納得いたしました。
 毘沙門天は七福神の一神であるのはご承知通りです。四天王は二天で祀られること
はあっても単独で祀られるのは多聞天だけというのもその生まれがはっきりしている
からでしょう。
 我が国でも戦前まではクベーラのような体形が金持ちの象徴であり戦後間もなくま
ではダイエットといえば肥えることでしたが現在ではダイエットといえば痩せること
と反対の意味に変わりました。 

 

 ヤクシニーに代わってハーリティーが表舞台に出てまいりました。

 
   ハーリティー像

  「ハーリティー」の前身は大変な鬼女で他人の子供をさ
らい食べておりました。
 口には牙が出ており怖い顔は、恐ろしい鬼女を表してい
るのでしょう。
 4臂で三叉戟、水瓶、杯、子供を手にしており
右手で抱
いているのは一番可愛がっている末っ子のピンガラでしょ
う。
 
頭には豪華な花飾りを付け首飾り、胸飾りを付けるだけ
でなく光背までも付けております。
 
女神像といえばハーリティーが好まれたのか多数の像が
ありますが後述の夫婦像の方が多いように感じました。
 ハーリティーが仏教に取り入れられた「訶梨帝母(かりて
いも)」となります。我が国では訶梨帝母像は単独像に限ら
れるようです。また、「鬼子母神(きしもじん)」とも言われ
ます。
 
単独像は恐ろしい女のイメージですが夫婦像になると優
しいお母さんそのものです。

  「おそれいりやの鬼子母神」で知られる、入谷鬼子母神とは「真源寺像」のことです。
「母」は「ぼ」ではなく仏教では「も」と読みます。

 


 
  パーンチカとハーリティー坐像


 
パーンチカとハーリティー坐像 

 ハーリティーは子沢山に拘わらず他人の子供をさらってきては食しておりました。
さらわれた親の悲しみを仏陀が知り仏陀はハーリティーが愛していた末っ子を隠した
らハーリティーは半狂乱になって探しました。そこで仏陀はハーリティーにお前は多
くの子供を抱えているにも拘らずたった一人の子供が居なくなって大騒ぎするが、今
までお前の犠牲となった多くの親の悲しみを考えたことがあるかと問い詰めました。
ハーリティーは仏陀の言葉に今までの行いを悔い仏道に励むようになりこれ以降子供
を守る神となり、それが仏教に取り入れられて多産と育児の神・訶梨帝母となりまし
た。 

 左側に夫のパーンチカ、右側に妻のハーリティーの夫婦が仲良く長椅子に腰掛けて
おります。踏み台があるのは権威の象徴でしょうか。
二人の間の子供は500人とも
一万人ともいわれる程の子沢山であるので、右図の
台座には遊びに戯れる多くの子供
たちを表しております。子沢山を左図では数人の子供が纏わりつくことで表しており
ます。

 パーンチカは豪華な宝冠を被り右手に槍を持ち左手を膝の上に置いてどっしりと構
えております。
 ハーリティーは頭に花飾りでお洒落をして優しい女性となっており左手に
末っ子の
ピンガラと思われる
子供を抱いていかにもお乳を含ませているように見えます。

 ハーリティーは旦那を置いて我が国に来日して右手に多産のシンボルである石榴を
持つ訶梨帝母となりましたが
パーンチカの方はその後どうなったことでしょう。

 


                
ラクシュミー


   
ラクシュミー


  
 ラクシュミー


    
ラクシュミー 

  ヤクシーと並んで女性神が多いのは「ラクシュミー」です。ラクシュミーはヒンズー
教のヴィシュヌ神の妃でありました。
 ラクシュミーは蓮華上に立ち、同じ蓮華上に立つ双象が鼻でつまんだ水瓶を逆さま
にしてラクシュミーに潅水するのが一般的であります。ラクシュミーはパキスタンで
は目にしませんでした。
 ラクシュミーは仏教に取り入れられて「吉祥天」となり昔は
吉祥悔過という法要の本
尊として崇敬されました。毘沙門天の妃となりましたご夫婦像が「法隆寺金堂」に祀ら
れております。

 

 


カールティケーヤ立像

 「カールティケーヤ」は仏教に取り入れ
られて「韋駄天」となりました。
 その昔、仏陀の舎利を盗んで逃げる盗
賊を早い足を活かして捕まえたという俗
説から足の速いことを「韋駄天走り」と言
われるようになったのであります。
 豪華な冠飾を被り大きな剣を持ちどっ
しりと立って仏敵を威嚇しております。
何本かの綱状のものを編み上げて作った
腰帯を締めております。
 上半身は裸の上に豪華な瓔珞で飾って
おります。
 韋駄天は禅宗寺院の庫裡(厨房)に祀ら
れることが多いです。なぜなら、韋駄天
は駆けずり回っておいしい食材を集めて
くるので食事の心配をしなくてよいから
です。はっきりは分かりませんが御馳走
の馳走と何らかの関係があるのでしょう
か。 

  
 
 


 槍を持つ女神

  右図はヘルメットらしきものを被り、首飾り、瓔珞で飾り立てた愛らしい乙女の兵士でカールティケーヤとは何の関係もありませんが仏教ではこんな像をも採用されておりました。

 


       ガルダ

       ガルダ


    ガルダ

 「ガルダ・迦楼羅(かるら)」は金翅鳥(こんじちょう)とも呼ばれ鳥類の王という巨鳥
です。毒蛇のコブラを食べるといえば孔雀で、そのため、孔雀は大変有難がられてイ
ンドの国鳥となっておりますが同じコブラを喰うガルダは尊重されるどころか最初は
悪神扱いでした。
 ナーガ(龍男)はコブラのことで中国では龍となりますが体つきが違います。ナーガ
は往々にして人間の姿で表現されコブラの龍蓋(後述)を付けます。  
 ガルダは母親がナーガ族に奴隷にされたのを恨み蛇(龍)を常食にしておりましたが
ナーガはそれらの危機を仏陀に救ってもらいます。
  ガルダ、ナーガ共に神格化して仏教の天竜八部衆となり仏陀の守護神となります。
 ナーガ崇拝は我が国で言えば竜神崇拝でしょう。竜神といえば室生寺です。仏伝に
は竜王が結構出てきます。ガルダが鞍馬の天狗の祖先だとという説もあります。
 
 左図はガルダが龍女のナーギを両手で羽交い絞めにして連れ去り餌食にしようとし
ております。
 中央の図はガルダが両手で二匹のナーギを抱きかかえて連れ去るのを救うため剣を
抜こうとしているナーガと数人の仲間であります。ガルダは鷲のような嘴をしており
その嘴でコブラを銜えております。
 右図はガルダがナーギを左手で捕まえております。  

 


      龍王夫妻


          龍王頭部

  「龍王夫妻像」は気泡が多い岩石で造ら
れております。アジャンター石窟の外壁
にありよく見えます。
 5匹の龍蓋を着けた龍王と一匹の龍蓋
を着けている龍王の妃です。
 右足を立て左足を下げ降した龍王と並
んでちょこんと遠慮がちに腰掛ける龍王
妃です。
  竜王は手には何も持っておりませんが
龍王妃は右手に花を、侍女は右手に払子
を持っております。

 

 龍王の頭部断片像でしょう。宝冠を被
った端正な顔立ちをした若き王です。 
 浮彫りの見事な眉、ぱっちりとした眼、
きりりと結んだ口許です。
  王らしい身だしなみで豪華な耳飾り、
臂釧、腕釧を身に着けております。
 人間生活や農作業に欠かせない水を管
理するコブラを敬い礼拝するために人間
らしく造像されたのでしょう。7頭か
9頭の龍蓋を被っていますがその龍蓋に
右手が挙がっているのは何らかの合図で
しょうか。

 

 

  インドでは建造物を支えるのはヤクシーの役目でしたがガンダーラでは後述のアト
ラスがその役目を努めます。
短躯肥満のヤクシーの4体が背中合わせでサーンチーの
塔門の梁を支えております。
 右図は獅子ですが百獣の王たる獅子にヤクシーと同じように塔門の梁を支えさせた
のでしょうか。そうではなく仏敵の進入を防護するための役目を背負ってことでしょ
う。

 

 


   アトラス


    アトラス

      アトラス

  「アトラス」はギリシャ神話の神々と戦って敗れ、その罰として天空を支えなければ
ならなくなったという西洋のヤクシーであります。
  ヤクシーのような太鼓腹の肥満体に比べアトラスは鍛え上げた筋肉質の理想的な体
躯となっており、喘ぎながらではなくたやすく基壇の下部を支えております。
 アトラスはどちらかの手で膝小僧辺りを触るのが一般的な様式です。見事な顎髭は
我が国でも憤怒像で見ることが出来ます。
 アトラスは翼を持っておりますが右図は豊かな口髭も顎髭もなくエンゼルのような
感じがいたします。


     アトラス


           アトラス

 左図のアトラスは頭と腕で天空を支えると言われこ
の写真がそのものずばりでしたがガラスケースの正面
ではなく側面に展示されていてガラスに映った照明の

ため満足する写真撮影は無理でした。
 アトラスはある出来事によって天空を支える重圧から逃れることが出来、その代わ
りとなったのがアトラス山脈だと言われております。

 

 

 ガンダーラには花や樹で編んだ長い花綱を担ぐ裸の童子を描いた図が多くありまし
た。これはギリシャ・ローマから請来されたものでしょう。 

 

 

 これ以下の図は風俗図ですが仏教建造物の荘厳に用いられたものでインド・ガンダ
ーラとも当時の教団側がいかに寛大であったのかが分かります。現在、テレビとか公
衆の面前でインド・パキスタンともにキスシーンすら許されずテレビで女性のバスト
露出シーンがあればモザイクを掛けております。皆さんもご承知であるリチャード・
ギアがインド人の女優にキスをしようとしたとして裁判所が逮捕状を執行し世界的な
ニュースとなりました。これは少し大袈裟だと思いますが結婚式での若き夫婦のキス
でも咎められる国です。
 下図といいカジュラホの建築の荘厳彫刻といい今のインド・パキスタンの社会常識
からは想像できないものばかりです。


           キスシーン  


     逢引のシーン


   逢引のシーン


 滝に打たれる女

 

 


      遊女の酔態


 恋文を書く女


   化粧する女

 

 

 

             画 中西 雅子