仏像ー弘仁・貞観時代

 「弘仁・貞観(こうにん・じょうかん)時代」の区分を、「平安京遷都」の794(延暦十三)
年から
遣唐使の廃止」の894(寛平六)の100年間といたします。

 仏像の制作には、天平時代に用いられた「桧」と同じ針葉樹である「榧(かや)」が多用され
ました。榧は香りがあるのと心材の色調が黄褐色という特性があり、この特性は白檀の特
性に似ているといえます。仏像の素材に榧が使用されましたのは、当時中国で盛行だった
白檀の檀像彫刻を意識したのと「鑑真和上」に随伴した工人が造った「唐招提寺」の木彫像に
榧が使われていたことが影響したのでしょう。
 榧が白檀に似ているところから榧の仏像を檀像様の仏像と言います。檀像様の仏像は、「香り」を生かすため髪の毛、眉、目玉、口唇を彩色する以外はすべて「素木(しらき)」のま
まの仕上げです。檀像様彫刻には榧材以外に桧、桜材が用いられました。
 
 薬師如来像(新薬師寺)、十一面観音像(法華寺)、薬師如来像(室生寺・寺伝では釈迦如
来立像)、十一面観音像(室生寺)、釈迦如来像(室生寺)、如意輪観音像(観心寺)などは榧
の木彫像、薬師如来像(唐招提寺)は木心乾漆像、地蔵菩薩立像(法隆寺)は桧材の木彫像で
当時の素材としては榧が圧倒的に多いです。柾目の通った榧は珍重され将棋、碁盤に用い
られております。何故かというと盤面に打つと打ったところの盤面がへこみ手に衝撃がな
いため疲れず、そのうえ時間経過とともにへこんだ盤面が復元すると言う特性があるから
です。

 仏像の制作で木彫像が全盛期となりこれ以降現代まで続いております。飛鳥時代と同じ
一木造の「木彫像」が中心ですが飛鳥時代の木彫像、例えば「法隆寺救世観音像」は金銅像を
頭に描いて制作されたかと見間違えるほど金色に輝く見事な漆箔像です。しかし、弘仁・
貞観時代の木彫像と言えば木の特徴を生かした鎬だった彫り方で前代にはあまり見られな
かった「翻波式衣文(ほんぱしきえもん)」、「漣波式衣文(複翻波式衣文とも言う)」、「渦文」、「茶杓文」などの賑やかな装飾文が隆盛しました。このような鋭く深く刻まれる表現は、天
平時代に流行した「脱活乾漆像」では鋭い角の部分が脆く表現不可能でした。さらには、立
像のみに見られる「Y字形衣文」があります。大きな特徴としては他の時代には見られぬ厳
しく大きな目鼻立ちの面相、体躯は驚くほど豊かな量感でどっしりとしております。 

    
   茶杓文(新薬師寺薬師如来坐像)
      
      渦文(新薬師寺薬師如来坐像)
    
 


小波
大波

            
  翻波式衣文(法華寺十一面観音立像)  Y字形衣文(唐招提寺薬師如来立像)

 当時、如来像と言えば「薬師如来像」が異常に多いうえ、「儀軌」を無視して如来になくて
はならない「白亳」が無いことや仏像の肌の色が「金色」に輝いていなければならないのに
「素木像」であったり、さらには一体一体毎に表現の形状がまちまちであり一癖二癖もある
大変個性あふれる像ばかりでした。中国と違って白檀材が入手できなかったのでその代わ
りに榧を選んだのでしょう。
 素木造の薬師如来像が多かったことについて、大変尊敬しておりました今は亡き
「松村史郎さん
」は『怨霊の祟りということに日夜怯えていた当時の人々にとっては、薬師
如来は呪詛から守られるため、或いは呪詛に打ち勝つために祈る仏であるばかりでなく、
ときとしては進んで相手を呪詛するための仏ともなったというわけである。
 こうして特殊な薬師信仰が、天平末から平安初期にかけてはわが国仏教の主流となった
観がある。』
と述べておられるように「薬師如来」がとんでもない役目を負わされた時代だ
ったようです。残念ながら松村さんの著書は品切・重版未定となってはおりますが古書店
で探せば見つかることでしょう。企業の経営者でいらっしゃった著者の珠玉の名編で感動
話は枚挙にいとまがなく、興味が尽きない書籍です。どうか、この書籍で弘仁・貞観時代
の仏像の特徴を理解されることをお勧めいたします。
 『平安初期彫刻の謎』著者 松村 史郎 発行所 株式会社河出書房新社

 中国の天台山では「文殊菩薩」を祀ってあるのに天台密教である天台宗の本山「比叡山延
暦寺」では「根本中堂」の本尊は「薬師如来」です。その影響で薬師如来は天台宗ともに地方
に広まっていきました。それに比べて真言密教である真言宗の寺院の本尊は不動明王と観
世音菩薩が多いです。
 余談ですが「南都北嶺」の南都とは南都(奈良)仏教教団のことですがここでの南都とは主
に興福寺を指しました。北嶺とは比叡山延暦寺のことで、延暦寺と興福寺ともに僧兵を多
く抱えており、両者は互いに抗争を繰り返しておりました。それゆえ、天台宗は南都仏教
を毛嫌いし「金堂」を「根本中堂」、「南大門」を「仁王門」などと言い換えました。ただ、「和
尚」と言えば法相宗の興福寺では「わじょう」と読み天台宗の延暦寺では「かしょう」と読み
ます。しかしこれは興福寺は「呉音読み」で延暦寺は「漢音読み」で、この読み方の違いは創
建時代の違いによるものでしょう。同じ「わじょう」でも律宗の「唐招提寺」では和上と書き、「鑑真和上」で御馴染みです。

 朝廷、貴族が在来仏教を遠ざけて新しい宗教・密教に厚い保護を与えましたので密教系
の尊像が一躍脚光を浴びました。密教は信仰する仏像に新しい尊像を多く加えましたので
格段に種類の多い尊像となりました。しかし、密教の仏像は種類が多いが大量の仏像や巨
大な像を必要としなかったので一木造の仏像が盛んに造られました。これには、巨大な像
を制作したくても一木造では一本の木以上の大きな像は制作出来なかったこともあります。
 密教像はそれまでの人体表現に近かった像から変化(へんげ)観音への移行で、顔、腕、
脚が多い多面多臂(ためんたひ)の超人間的な異形像とか半人半獣的な像が生まれ仏像の様
相が一変し大変神秘性に富んだものとなりました。「不動明王像」のようにいかつい像が現
れたかと思うと「法華寺の十一面観音像」「観心寺の如意輪観音像」のように官能的な美に富
んだ像も造られました。仏教美術史上画期的な悩ましい表現の像の出現は、インドでは当
たり前の表現ですが我が国では珍しく少ないものです。その意味で密教は宗教美術に多く
の影響を与えたことは事実です。またそれまで、顕教での仏の序列は如来、菩薩、天部で
したが密教が普及すると如来、菩薩、不動明王、天部の序列に変わりました。

 弘仁・貞観時代の密教系尊像の遺品は、最古の密教寺院「室生寺」に限られており高く評
価されております。室生寺の尊像は弘仁・貞観時代の制作とは言え当時の厳しい像ではな
く衣文の彫りも浅く穏やかな表現の尊像で、次の藤原時代の国風化の先駆けが感じられます。天平時代は平地伽藍が普通であります。天平末から造営された室生寺は最古の山岳寺
院で、春の石楠花、秋の紅葉の季節を避けて訪れられますと人影もまばらなので静寂の中
でゆっくりご覧になられます。 

 
   
      薬師如来坐像(新薬師寺)
    
     十一面観音立像(法華寺)
   
     
    薬師如来立像(唐招提寺)
       
      地蔵菩薩立像(法隆寺)
      
      薬師如来立像(室生寺)
      
     十一面観音立像(室生寺)
  
      釈迦如来坐像(室生寺)
     
        如意輪観音坐像(観心寺)
                                                                                                                                                                   画 中 西 雅 子