仏像−飛鳥時代

  我が国では「仏教文化」があらゆる分野の活動源となっており、信仰と同様に日本
文化に大きな影響を与えております。このことについては追々説明いたします。

 仏教文化の一分野である「仏教美術」が、本格的に始まるのが「飛鳥時代」で日本美
術の始まりともいえます。その美術史の飛鳥時代を、ここでは「仏教」が公伝された538年(欽明天皇七)から「大化の改新」の645年(大化元)までとします。
 
 「大和」とは奈良県の一定地域だったのが奈良県全部ひいては日本全土を表わすよ
うになりました。最初中国で命名された国名は「倭(わ)」でありました。が、この倭
は見下した言葉だったので「和」と変え「わ、やまと」と読みました。それが「大和(や
まと)」となったのは2字政令(後述)の影響か、それとも、中国では隋、唐を大隋、
大唐と呼称されたのを真似たのかも知れません。しかし、後の時代でも日本海で出
没した日本人の海賊を、韓国、中国では「倭寇(わこう)」と呼び倭を使用しております。
 
 「飛鳥(あすか)」という地名ですが、天平時代まで「明日香」でしたが、「地名、年
号」を2字にする政令に従って「飛鳥(とぶとり)の明日香」と歌によく詠まれていた
句の枕詞(まくらことば)の飛鳥を、地名に充当し読み方だけ踏襲したのです。です
から、飛鳥、斑鳩(いかるが)などと読み辛いですね。好きな字の使用が許されまし
たが1字、3字、4字の地名を古の人々が考えて2字の地名としたのであります。
これらの地名は当時の歴史と関係ある2字で貴重な遺産と言えます。
 2字年号の例外としては天平時代の「天平感宝」「天平勝宝」「天平宝字」「天平神護」「神護景雲」の4字年号があります。

 「明日香村」は「高市村」「阪合村」「飛鳥村」の3村が合併して誕生いたしましたが和
を重んじて「飛鳥村」としなかったのでしょう。3村合併から25年後に飛鳥寺跡の
発掘調査の際に3金堂式の伽藍形式が発見され人々を驚かせました。「飛鳥ブーム」
が最高潮に達したのは「高松塚の壁画」発見で日本中が沸き立った時でしょう。とこ
ろが、合併当時、飛鳥を訪れる人は少ない時代でしたから妥協で「明日香村」となり
ました。現代人は「明日香」とは古代に使用された由緒ある地名と知らないで新しく
考え出された地名だと思われておりますだけに。「飛鳥村」にしなかったのは返す返
すも残念ですね。
 明日香は大和政権発祥地すなわち我が国の発祥地でもあるうえ我が国最初の国際
都市でもありました。明日香の村里は自然に恵まれた文化発祥の地で日本人の心の
ふるさととも言えましょう。

  我が国最古銭は「和同開珎」と言われておりましたがそれより古いお金「富本銭(ふ
もんせん)」が見つかりました。ただ流通していたのは明日香村周辺に限られており
ました。「和同開珎」の読み方は「わどうかいほう」と習いましたが今は「わどうかい
ちん」と読むらしいですね。
 
最近、明日香で硬い花崗岩を「亀の形」に刻んだ石造物が発見されましたがそれ以
外に岩石で制作された「猿石」「鬼の俎(まないた)」「亀石」「酒船石(さかふねいし)
鬼の雪隠(せっちん)」「石舞台古墳」などが明日香には存在いたします。
 これらから、飛鳥時代は他の時代の「木の文化」と違って歴史上特異な「巨石文化」
の時代と言えます。当時の「帝」は祭政一致でありましたので雨乞い等の宗教的な行
事で使われたのでしょうか。

  「聖徳太子」が飛鳥の地を離れて斑鳩の地に「法隆寺」を築かれて仏教文化が大き
く花開いたのであります。それは、仏教公伝から約1世紀を経ておりました。その
聖徳太子ですが、当時、豪族社会の中で豪族たちの猛反発を買うのが予想されなが
ら「冠位十二階」、「十七条憲法」を実施、さらには小野妹子に隋へ持参させた国書で
は「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや。」とするなど意気
軒昂な性格の人だったようです。その意味でも聖徳太子は仏法興隆に多大な貢献さ
れたばかりでなく政治家としての手腕も発揮されたようで「律令体制」の基礎を築い
た功労者とも言えるでしょう。

 仏教とともに渡来したのに中国の「呉音」があります。中国では「お経」をサンスク
リット語(梵語)から呉音に訳しましたが我が国では呉音のお経をそのまま丸暗記い
たしました。ところが、平安時代に現在の字音の基礎となる中国の「漢音」を遣唐使
が持ち帰りましたので朝廷は呉音から漢音の使用に変更いたしました。それなのに
仏教界はお経を呉音のまま丸暗記して、お経を呉音で読経(どきょう)しておりまし
た関係上変更には従いませんでした。その結果が、外国の方が日本の漢字は呉音と
漢音の2通りの読み方があるので難しいと言われる要因となっております。例えば
数字の「一、二」は呉音では「いち、に」で漢音では「いつ、じ」でありますので「一期
一会」は呉音では「いちごいちえ」ですが漢音では「いっきいっかい」となります。
 私はガイドの際、法隆寺大講堂で「講師」を「こうじ」と読みますと説明しておりま
す。我が国では不思議なことに「陰陽師」のルビを見て抵抗無く「おんみょうじ」と読
まれますが現代の漢音読みでは「いんようし」となります。また、古代の天皇名はほ
とんど呉音で読みます。皆さんも「東大寺」を発願された「聖武天皇」を漢音読みの
「せいぶてんのう」とは読まれないでしょう。とは言え、「せいぶてんのう」と読まれ
る時代が間もなく来るような気もしますが。

  飛鳥時代は「氏族仏教」で一族の繁栄と誇りを競って造営した「古墳文化」から煌
びやかな「寺院文化」と変貌しました。当然、彫像も「埴輪」から「仏像」の制作へと変
わりました。
 飛鳥時代に建立された寺院は個人の病気平癒を祈願したものが多く、国家鎮護の
寺院は存在いたしません。
 
 渡来人とともに小仏像がもたらされ、仏教公伝は538年ですがそれ以前から渡
来人は仏教を信仰しておりました。その538年に我が国に「仏像と経典」が百済の
聖明王(父親は武寧王陵で有名な武寧王)から欽明帝に送られました。欽明帝は気に
入られたようですが、まだ帝と言っても豪族社会の首長程度で律令制度も確立して
おらず朝廷は絶対権力ではありませんでした。そこで、有力な豪族に仏像を拝みお
経を唱える
べきかどうかを尋ねた所、礼拝に賛意を示したのが渡来人の蘇我氏だけ
だったので争いを避けて仏教信仰は見送りになりました。このことは聖徳太子なら
いざ知らず蘇我氏が仏教に精通していたとは考えられないだけに宗教闘争ではなく
ただ単に政治闘争になることを恐れた結果でしょう。我が国では宗教戦争は存在せず、明治の「神仏分離令」が「廃仏毀釈運動」にまで拡大いたしましたがこれも政治闘
争です。当時活躍した下級武士の旧弊打破運動で従来の「神」の上に「仏」があるので
はなく、神の下に仏があると言う善し悪しは別として今までの制度を変えることだ
けが目的でした。もし、宗教戦争ならばどちらが消えなければならず、それどころ
かちゃっかりと「僧」が「神官」への鞍替えが起きました。
 
 飛鳥時代には年号がなく十干十二支(じっかんじゅうにし)の干支(かんし・えと)
で表示されていたため干支表示で少し疑問が起こりますと還暦でお解かりのように
ワンサイクルが60年のため60年の違いが出て、色んな期日の決定に混乱を来た
しているのが飛鳥時代です。それだけに飛鳥時代に造られた仏像の創像銘には理解
できないミステリ−なところが多くあり、素人の私など悠久の昔へのロマンにかき
たてられます。ところが逆に、仏師の名前が分かる仏像もあり、その貴重な仏像に
は「飛鳥寺の本尊」「法隆寺金堂中央の本尊」「法隆寺金堂の四天王像」があります。こ
れらの作者は総て渡来人で、渡来人は有能な技術者であるだけでなく優れた工具も
持参したことでしょう。「下らない」とは中世に「上方」で造られたものは「ブランド
物」であるが他の地域で造られた物は詰まらないと言う意味ですが、飛鳥時代にも
「百済ない」と言われ、厚遇で迎えられた百済人は優れた技術者だったようです。私
たちの時代は渡来人ではなく帰化人と教えられましたが当時は戸籍制度がないので
渡来人となります。

 飛鳥時代の仏像の服装はインドでは考えられない厚着です。中国の皇帝の服装で
あると言う説は最近は否定され中国の南朝の仏像様式だと言われておりますが私は

中国の皇帝の服装だと考えます。しかし偉そうな事を言っても、先程での「呉音」は
中国南朝の音で呉音と南朝の仏像様式が一緒に渡来したのかも知れません。
 
 飛鳥時代の仏像が影響を受けたカンダーラで造られた仏像は、髪は天然パーマの
ウェーブ状、顔は面長、パッチリとした人間の眼で後の時代のように瞑想するよう
な半眼でないうえ、鼻は鼻翼が大きくまるでギリシャ人をモデルにしたような「釈
迦如来像」であります。

 上座部仏教(小乗仏教のことで、小乗仏教は大乗仏教が命名した差別用語で現在
は使わないようになっております。)のミャンマ、タイ、スリランカは釈迦如来だ
けを信仰の対象に崇拝しておりますが我が国では釈迦如来が他の如来と同じように
空想上の人物と信じ実在された人物であることを知っている人は少ないようです。

 飛鳥時代に造像された仏像は、釈迦如来、薬師如来、観世音菩薩(観自在菩薩)、
弥勒菩薩ぐらいで種類は限られております。天部では仁王、四天王などです。像の
素材は「銅」、「木」が多く、木の素材は後の時代の「桧」と違って「樟」です。韓国では
金銅像が盛んに造られ木彫像は殆ど無いのに、我が国では樟材の木彫像が、「法隆
寺」などに数多く残されているのは制作が渡来人にせよ、仏教伝来以前の神道で巨
木に神が宿るという言い伝えと良質な木材が豊富にあったからでしょう。

 当初の仏像は黄金に輝くか艶やかな極彩色で飾られておりましたが世界の黄金崇
拝に反して金メッキの剥落、彩色の剥落退色した仏像が好まれる我が国です。 

 我々は「仏像」を信仰の対象として拝むのでなく美術品として鑑賞しておりますが
仏像は通常、正面から拝むものなので「正面鑑賞性」で充分です。古代寺院、例えば「法隆寺金堂」の場合、連子窓も無く照明もなく扉は常時閉じられていた思われます
がもし法要の際、開扉したとしても自然光のみで現在の金堂の明るさと同じです。
それか、燈油に芯を浸して火を灯したものでそれは薄暗い照明であったことでしょ
う。しかも、法要はその薄暗い金堂内では行われず、時代劇の裁判での白州(しら
す)と同じく、金堂前の白州で行われる「庭儀」で仏像は正面から僅かに見える状態
でありました。仏像を目の前で礼拝出来るようになるのは平安時代に国家鎮護のた
めの吉祥
悔過(きちじょうけか)が金堂内で行われるようになってからです。右繞礼
拝(うにょうらいはい)という仏を右回りで礼拝する作法もありますが。薄彫りから
丸彫りの像で魅力ある感動を与える美術品となったのは衆生を感動させて仏教に帰
依させる目的からでしょう。
 

  
        釈迦如来像(安居院)

 飛鳥寺」(現在の安居院(あんごいん))
の「飛鳥大仏」は後世の補修が拙く原型を
留めないので超国宝となるべきところ残
念ながら重要文化財の指定に留まってお
ります。なぜ、銅像がそこまで手を加え
なければならなかったのか疑問が起こり
ます。多分、百済から渡来した中に仏師
がいなかったのが原因でしょう。
 飛鳥寺の計画時には請来された仏像が
あったので仏師が来朝しませんでしたが、
やはり新しい仏像制作の要望が起きたの
ではないのでしょうか。そこで、畑違い
の「馬の鞍造り」に従事した渡来人「止利
仏師」が動員されたため、満足な出来栄え
の仏像が制作できなかったのでしょう。  

  止利仏師はこれ以降も、金銅像の制作だけに関わっておりましたが、鋳造の技法
も進歩して「法隆寺金堂本尊」などの優品を残しております。 
   「飛鳥大仏」は大変痛ましいお姿ですが私の知り合いの方などは愛着を感じて古
都奈良では一番好きな仏像だと言われますのも日本人の感性でしょうね。 


 

 
        釈迦三尊像(法隆寺)
   
「光背」は創像当時の想像図です。

 法隆寺の本尊「釈迦三尊像」は発願
からたった13ヶ月で完成させたと
いう通常では考えることの出来ない
話ですがそれを可能にしたのは聖徳
太子一族の結束でしょう。叔母に当
たる「推古女帝」にお願いし勅願で造
像すればよいのにそれもせずしかも
急を要するのであればもう少し小さ
い造型の仏像でよかったのにそれす
らしなかったのは太子一族の必死の
思いがあればこそで、この執念が不
可能を可能にしたのでしょう。
  また、670年の落雷火災の際に
も落雷にあったのは五重塔だったの
で金堂に類焼するまで時間的余裕が
ありましたので持ち出すことが出来
たのでしょう。 

  「夢殿」を「上宮王院」と呼ばれるように太子一族のことを上宮王家の人々と呼び
ます。     
   「釈迦三尊」の「三尊」ですが真ん中の主尊を「中尊」と言い両脇のお供を「脇侍、
脇士、挟侍、一生補処(いっしょうふしょ)」と言います。法隆寺の釈迦三尊像は普
通脇侍は普賢菩薩、文殊菩薩ですが薬王菩薩、薬上菩薩と珍しい取り合わせです。
「脇侍(わきじ)」と言っても水戸黄門の助さん、格さんではなく脇侍は将来如来に
昇格する可能性がある仏さんです。助さん、格さんはいくら頑張っても殿様には
なれないでしょう。他に三尊と言えば薬師三尊、阿弥陀三尊などがあります。
 
 「止利仏師」は百済系渡来人の出世頭だった蘇我氏の庇護が厚かったので大化の
改新で蘇我宗家が亡ぶと同時に歴史の舞台から消えていきました。

 飛鳥時代と言えば気の遠くなるような長い年月でその年月を経た仏像を、顕教
のお陰で身近に古都奈良で拝めるとはなんと幸せなことでしょう。それが奈良を
訪れる多くの方が修学旅行以来の訪れとは悲しい話ですね。私は今秋より平日の
ガイドを実施いたしますとともに3年以内に「古都奈良の魅力」の語り部として全
国津々浦々を行脚して回る所存です。 

 
    
      薬師如来像(法隆寺)        
           
            弥勒菩薩像(中宮寺)

 
  
   救世観音像(法隆寺)
        
    百済観音像(法隆寺)  
                     
              
画 中 西 雅 子