箏・三弦について


- 今日、一般に”こと”と言う場合、「琴」と書きますが、三曲では「箏」と言う字を使うのが一般的です。
これは「琴」と言う文字は、本来「琴」は固有の楽器であるが今日一般的には弦楽器の総称を表し、「箏」と言う文字は三曲で広く使われている13弦の琴を表しているからです。
「三味線」についても、三曲界では「三絃」(さんげん)と言います。”げん”も弓偏ではなく、糸偏を使います。
三味線も色々な種類があり、三曲界で使うものが「三絃」と呼ばれています。
- 箏・三弦の歴史について少し述べてみたいと思います。
その前に、琵琶のことにも少し触れる必要があります。
箏・三絃は室町時代後期頃、もう少し正確には言うなら江戸時代から明治4年までの間は、全てではありませんが盲人の専業として保護されていました。これは、”当道”と言う盲人の自治組織であり、幕府の保護の下に、琵琶、箏、三味線、鍼灸等を仕切っていたわけです。
- 琵琶とか箏という楽器は、古く奈良時代ごろ渡来し、雅楽あるいは宗教の儀式として使われていました。
また、盲人達によって祭事節目に琵琶の伴奏で「地神経読」が行われていたようです。
室町時代に入り、成仏と言う盲人に平家物語を語らせたのが「平曲」と言われます。
当時、琵琶法師達は、節目節目の儀式に呼ばれた見返りに金品を得たり、請いに応じて平曲を語ったり、一軒一軒流し歩いたり、人の集める場所で平曲を聞かせたりして喜捨をを受け生活の糧を得ていたのではないかと推測されます。
特に、室町後期は戦乱世で無常観の漂う平曲はそれなりの需用が有ったのかも知れません。当時、盲人達は賤業と呼ばれていた職に就いて生活の糧を得ていたのですが、そこに、明石覚一と言う人物が現れ、社会的な地位向上や、生活の糧を安定して確保するために当道座と言う、職業組合のようなものをこしらえました。その後徳川時代に至り伊豆円一が幕府の庇護の元に当道座を確立し、盲人の専業として琵琶、箏等を占有したのです。
- 当道という組織は、盲人達を統制し巨大な社会勢力をなし、伊豆円一の政治力によって、一部の職業を独占する権利を得ることが出来たわけです。
幕府にとっては、組織を保護をするだけで、障害者の福祉や治安維持を一切を互助組織にゆだねることが出来たのです。
障害者達にとっても社会的地位の向上や経済的安定を得る、自立の道が開かれたわけです。
以降、明治4年に至るまでの間、原則的には琵琶、筝、三味線や鍼灸、あんまと言った職を専業として教えられるのは盲人達のみであり、一般人がその職業領域を犯すことは出来なかったのであります。
- 三味線の渡来について
三味線は琉球(現沖縄県)から日本に伝わったと言われています。
沖縄には中国は明時代初期に、沖縄に移民した中国の帰化人によって伝わったと言われます。後、赤犬子が琉球歌曲を作ります。
このように琉球で進化した三糸(さんしん)が日本に伝わるわけですが、諸説があります。
その代表的なものは以下の通りです。
一つは、1560年頃、泉州堺の港に琉球(沖縄)に蛇皮線が渡来、中小路と言う琵琶法師が改造したものを使いはじめたと言うものです。
もう一つは、文禄の頃、琵琶法師石村検校が琉球に渡り、蛇皮線と言う楽器を知り、帰国後三味線と言うものを作ったと言うものです。
- 江戸時代の三曲の状況はどんなものだったのでしょうか。
「盲人の生活」(大隈三好著、生瀬克巳補訂:雄山閣)と言う本にはおよそ次のようなことが書かれています。
江戸中期を過ぎる頃、歌舞伎、芝居、浄瑠璃には三味線が欠かせなくなっていたが、当道座中の手中にあった。
そこで当道座中に指導を申し込んだがにべ無く断られてしまう。
その理由は古来の座法であると言う。
すなわち、
舞々・猿楽等の跡は、道を捨て二代を経ずして交わるべからず。但しひこよりは免ず
卑しき筋有者の芸仕たる跡、不改して当道の芸不可仕事
とのことである。
当時、賎業とみなされていた職業者には教えないと言うことです。
歌舞伎・浄瑠璃等の側は困ってしまい、幕府に斡旋を願い出ます。
芝居へ三味線を教える事は、寛文12年壬子4月21日、芝居より大坂町奉行石丸岩[ママ]見守殿へ、御憐愍(れんびん)願出候に付、石見守殿より座へ御頼有之、依て差免事[当道大記録]
このように、幕府の斡旋で当道座の仲間が芝居関係者に教えたり、当道者仲間の作曲したものを演奏することが出来るようになったのであるが、当道座の仲間が芝居関係者と一緒に営業することはかたく禁止されていて、禁を犯せば所払いや、追放の刑に処せられました。
このことから、寛文12年頃には芝居に三味線が使われていて、当道座中から何らかのクレームが付けられ、幕府の裁定が下されたことを示しています。
関が原の以降、世の中も安定化に向かい、文化が発展しだすと趣向も多様化し重苦しい平曲より華やかな娯楽に移るのも自然の成り行きで、筝や三味線文化が発展したものと考えられます。特に琵琶に比べ、音色が軽く明るい、移動性に富む三味線は時代に迎えられたのでしょう。
また、当道座中の構成員は失明した男子の集団であります。(ちなみに女子は”ごぜ”と言う各地に分散した小さな組織に属していたようです)
失明者には、先天的な者のほか、悪環境、栄養失調、流行病や戦乱で失明した者など当時はかなりの人数がいたはずです。
このような状況にあったわかですが、彼らは、古来の節目節目の儀式だけではなく、集いの席や教養・娯楽として、招かれたり、自ら手慰みに楽器を弄ぶ者に教授するとか、あるいはまた、若く美顔の青年琵琶法師に、贔屓(ひいき:今日で言うフアンかパトロン)がついたりして一定の収入を得ることが出来るようになったものと推測できます。
しかし幕府の倒壊により、明治4年、明治新政府の太政官布告で当道職屋敷は廃止され、当道組織と共に盲人の生活を支えていた琵琶、筝、三味線、鍼灸、あんまと言った盲人達のみに許されていた職業の占有特権は消滅してしまいました。
- 箏について
現在の”こと”と言うものは箏(そう)の”こと”を指し、元々は渡来してきた楽器です。
現在、”こと”と言葉は”琴”と言漢字をあて、琴(こと)と読んでいます。この”琴”は弦楽器の総称あるいは、共鳴胴に弦を張った楽器などと意訳されていますが、古来は琴(きん)の”こと”と言って明らかに、琴(き)は固有楽器を指し示していて、”こと”というものが本来の弦楽器全体のことを指していたようです。
琴は柱(じ=可動の駒)が無いもの、箏は柱がある十三絃(あるいは十二弦)の楽器です。
- 「尺八の歴史」(飯田峡嶺著)の中の”箏の歴史概要”には”こと”の語源について次のように述べられています。
(1)オト(音)と言うのがなまってコトと言った
(2)弾ずる音がコンとオトするので「コンノコト」と言ったのを略してコトとよんだ
(3)天詔言(アメノノリゴト)を略してコトと言った、本居宣長説は一般に信じられている
(4)朝鮮半島北部古語で琴のことをKotoと発音していたらしい
以上の数種の意見があるが(4)辺りが一番信用於けるものと考える。
となっている。
琴という文字を使った楽器には鉄琴、木琴、風琴(アコーデオン)というようなもnがありますが、音の出るものではあっても、決して弦楽器ではありません。
さて、日本古来の楽器としては、倭琴(やまとごと)、琴(きん)の”こと”と言ったものがありました。しかしこれらの楽器は平安時代の前半には古くさい楽器となり衰退し、新しく渡来した箏(そう)の”こと”が普及していました。
琴(七弦)は奈良時代に中国から伝来しますが、平安時代中期には衰退します。江戸時代に、明の朱舜水などによって再び日本に持ち込まれますが、毎時には途絶えます。幕末に興った一絃琴(須磨琴)や二絃琴(八雲琴)が今日まで残っています。
箏の方は、奈良時代前後に伝わり、その後、鎌倉・室町時代には公家文化とともに衰退してしまうのですが、八橋検校がでて、九州の伝わっていた箏(そう)、を学び、箏曲を復興し(俗箏と言います)そのごずっと、現在にいたるまでこの箏曲が引き継がれてきています。
- 八橋検校は元々、三味線の名手と言われ、箏を学んだのは三味線よりずっと後のようです。このことから、楽器の発達順序は、琵琶==>三味線==>箏、と言うことになるようです。
