氷室の歴史と氷室跡
  古くは日本書紀に「額田大中彦皇子が闘鶏(つげ)に猟された時」氷室をごらんになり、その氷を持ち帰って食したことから、皇室と氷室との関わりができたとの記述があり、また1988年奈良市二条大路南で行われた発掘調査で、多くの木簡が出土し、その内容から奈良時代初期の長屋王宅であるとわかりました。この木簡のなかに、「都祁氷室(つげのひむろ)」とかかれたものがあり、運んだ氷の量などが記されていたことから、いままで推測の域を出なかった氷室と都との関係がはっきりと裏付けられました。ちなみに、長屋王はオンザロックでお酒をたしなんでいたそうです。
 このことから、氷室の歴史はたいそう古く、それこそ千数百年の悠久の時を過ごしてきた氷室の跡が今私たちの目の前にあるのです。氷室跡に立っていると、古代の人々が同じこの場所で、厳寒の時期に、汗だくになりながら氷を詰めたようすが、目の前に浮かんでくるようです。
 今現在、郷土史家川村和正さん等の努力により、この福住の地には21穴の氷室跡が確認されており、かっては都への氷の大産地であったと思われます。
 ぜひ福住の地を訪れていただき、悠久の時の流れを感じていただければと思います。
福住中学校の裏山(学校の北側)には3基の氷室跡があり、室山群と呼んでいます。ここは比較的簡単に訪れることが出来ます。
 参考文献: 川村和正「都祁氷室に関する一考察」 ←クリックすると、論文(PDF)にリンクします。
         掲載誌 『龍谷大学考古学論集 T』
  同論集刊行会発行
          著者及び発行人の許可を得て掲載     
室山群A−1氷室跡
室山群A2氷室跡
茅荻池(ちすすきいけ)
jinnjya