2003-10-19 Sunday
男の花道
 
 男に花道があるなら、女にも花道はあるだろう、そういうことをいう人もいる。そういわねば差別らしい。それを差別というなら、男の花道といわず、男女の花道とか人間の花道とかいえばよいものを、男の花道というから物議をかもすのであろうが、それにしても、こういったことを問題にする女性がいるとしたら、余程のヒマ人なのかと嗤ってしまう。
 
 花道は周知の通り歌舞伎の演目にかかわる人物の登退場に用いられる舞台機構であり、能舞台の橋掛りが歌舞伎に転用されたものである。花道の名前の由来は、役者にハナ(祝儀)を贈るための道であるとか、花の舞の演者の通路に関係があるなどというが、諸説の根拠はいずれもあいまいで、私は文字通り「花のある役者の通り道」と受けとるのが妥当ではないかと思う。
 
 能といい歌舞伎といい、みるのは女性が多いかもしれないが、出演するのは男のみであってみれば、花道は要するに男に属している、そう考えて大過あるまい。
 
 さて、男が引退もしくは退任するとき、「花道をかざる」という言い方がある。
この表現の正否はともかくとして‥花道は元々、役者が花を飾って(美しく装って)出てくる道という意味である‥退任する際に、飾るべき花道を持つ人は少なく、花道を通れる人はさらに少ない。
 
 そういうなかにあって、阪神球団監督・星野仙一氏は花道をかざれる幸運な人だ。
今期の星野氏の采配はシーズンを通して冴えわたり、プロ野球のエポック・メイキングとなったことについては文句なしに賞讃に値し、不況にあえぐ関西にある種の活力をもたらした。それだけの大きな功績があるにもかかわらず、星野氏は幸運だと思うのだ。
 
 星野一家は辛口の方たちが多いようだ。母親の通夜に参列した仙一氏がげっそりやつれていたので氏の姉が声をかけた。氏が「疲れたよ」と言ったら、姉は「それに見合う給料をもらっているんだから、甘いこといってられないのでは‥」とこたえたという。氏は選手を、姉は氏を叱咤激励する。
 
 相手が選手であれ社員であれ、彼らを指導する立場におかれている人は叱咤激励を常とせねばならない。そしてまた、彼らに不出来、不始末が生じれば、自ら責任を取る潔さを持たねばならない。それなくして指導者とはいえないだろう。ところが、組織の多くは指導者不適格な人々が急増しつつある、とりわけ官僚組織においては。
 
 なに、組織の形態や分類は問題ではない、そこにいる指導者、あるいはそういう役割を担っている人の人物が問題なのである。
 
 道路公団総裁解任問題の渦中にある人たちは当事者はともかくとして、弁護士とメディア関連が的のはずれたことをいっているのが気になる。弁護士は依頼人の出す報酬で動く。弁護士が最初にもらう着手金の額はさぞ多かろう。依頼人の注文通りに努め、依頼人に有利なサジェッションを与えるのが彼らの仕事。
メディアは、藤井氏のほうが国交省の役人より役者が二枚も三枚も上であるといい、藤井氏側は理論武装してるのに、国交省側は丸裸みたいなことをいっているが、役者の上下詮議はどうでもよろしい、藤井氏が傲岸不遜で、国民への義務を果たしていないことを詮議すべきなのである。
 
 この問題は、藤井氏が国権の最高機関である国会を愚弄したことに端を発する。
国会を愚弄するということは、国民を愚弄することにほかならない。国会議員は私たちの代弁者であり、そのための選挙、投票なのである。藤井氏には資料を出す義務があるのに出さないばかりか、国会の答弁も二転三転した。
5時間に及ぶ話し合いも、藤井氏はのらりくらりで石原伸晃氏を若造扱いした模様である。石原氏の怒りが獅子心頭に発したのは以上の理由によるだろう。安倍晋三氏の言は単に石原氏への援護射撃ではない、国民に代わってモノをいっているのだ。
 
 藤井氏サイドからみれば、ご自分の姿がみえていないから余計にむしゃくしゃするのかもしれないのだが、要するに誇りを傷つけられたということなのだろう。誇りは究極の自己愛であってみれば、藤井氏の胸は自己愛でいっぱいなのである。しかし、自己愛は往々にして報われない。
 
 星野氏と藤井氏に共通しているのは、余人を遙かに凌ぐ誇りの高さであると思われるが、両者の違いは誇りの表出の仕方であろう。権力におもねり、権力の座に恋々とする人と、そうでない人との相違。誇りは誇りでも、表現次第でこうも違う。
それが花道を通れるか通れないかを、かざれるか、かざれないかを分け隔てる。前者の自己愛が報われ、後者のそれが報われないのは至極当然の帰結である。
 
 
藤井氏サイドは今後、国交省と石原伸晃氏を挑発してこようが、そういう手には乗らないことだ。彼らの作戦では、時間稼ぎをして、事を引きのばしたいだけなのだから

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