2014年現在、理事長岡本理香リンパ性白血病療養のため、ざわざわ活動は休止しております。過去の活動情報ページとして、このページは残しております。ご了承ください。

  

◇心ざわざわ Top<セミナー資料

(NPO法人)心ざわざわセミナー資料総まとめ配布用
ルールは、「症状、食や体型の話は一切しないこと。原因探しはしないこと」
テーマは、「摂食障害を知るのではなく、それぞれの、今を知る、今のレベルを知る」
区別すること「知る・時間軸・行動・感情」
もう一度知っているかどうか、自分に問いかけてください

今、本人さんも周囲の方も、アイデンティティ確立をしっかり意識する。コツコツの歩みが大事。自分を探して彷徨っている誰もが経験する「危機」の時期である。

今の時間軸に乗る。今、瞬間を知ること。症状が出現した時点が回復の一歩目。症状は転ばぬ先の杖、大事にして、仲良くする。回復が進むとは、現実を観ること。モヤモヤして、無意識で生きている部分が減り、どんどんしんどさが増す。克服すると、もっとしんどい。 「苦」とは、ご都合通りにならないこと。「悩」は、自分を知らないこと。そして、それらの根底にあるものが「欲」である。欲張るから、今の時間軸に乗れない。「宝物は心にあるからこそ、宝物を手放すことができる」この感覚が掴めると、他人をあ〜だこうだと言わなくなる。自分に執着しなくなる。自分を確立すると、自分が自分を手放す。

自分を知る。知るとは、感情が入らず、淡々と知る。認める、分かるとはまったく異なる。本人は本人、家族は家族、それぞれの自分を知るために自分と向き合う。 発達障害を治すのではなく、自分が自分の出来ないことを知り、出来ることを知り、納得する生き方をする。現実に立って理想を描くのはOK、理想の上で妄想を繰り広げていると、いつまでも現実を知らない万能感の処理ができない限界と境界を知らない生き辛さから抜けない。 今は、今の自分の責任で知ること。過去の寂しさや怒りを、今の時間軸で埋めない。未来の不安を、今の時間軸に重ねない。視線の位置、向き、価値観は誰のもの?今の自分の位置で、ここまでラインは自分でしっかり引くこと。

共依存を知ってください。境界線を知ってください。
ありがた迷惑な行為は、自分だけでなく相手も潰す。親子カプセル、親子バトルからの卒業。自分の人生は、自分で知ることから始まり、自分の意思で選択し、自分の価値観を作っていくもの、苦悩しモヤモヤし、頭を下げて、自分が責任を負うからこそ、自分色の実がなり花が咲く。私は私、これでいいんだと堂々と言える。そして、あなたも、あなたでいいのだと言える。どの飴も自分であり、どの飴も、そのままでいい。 私OKと言えないと、あなたOKも言えない。

感情をどんどん抱いていい。頭で考えているのは感情ではなく妄想。スキーマの存在。 現実、知る、湧くものを知る、それに浸る、捨てる、次の現実、知る、湧くものを知る、それに浸る、捨てる。これの繰り返し。浸るを忘れるから、同じことを繰り返す。

行動は丁寧に意識してゆっくり、一つずつしかできない。動くから知る。動く前に知ることはできない。自分の行動の経過や結果で湧く感情を先走って考えない。期待しない。そのままどんな感情でも知ることができるのは、期待しないから。頑固なカチカチの思い込みが視野を狭く行動をぎこちなくする。
自立とは、自分で出来ることは自分でやり、自分が出来ないことは出来ないと伝えて、他人の助けを借りることが出来るということ。前向きというのは、現実を知って浸ってから、歩みだすもので、誤魔化しとは異なる。出来ないことは出来ない。

思考が作り出す感情と、心が感じている感情の違いを、知る
1、考えない。体は現実、頭は妄想。体を無視しない。頭の時間軸のずれを知る。 メール療法は、体、丁寧に意識して動く。視線の先と思考と動きを一致させる。95%の無意識行動をチェック。 見る=観る。見えているとの違い。聞く=聴く。聞こえているとの違い。 感覚を能動的にする。感じる。感じているとの違い。思考が自動的に反応する自分を知る。
2、現実、知る、湧くものを知る、それに浸る、捨てる、次の現実、知る、湧くものを知る、それに浸る、捨てる。これの繰り返し。 大人になるとは、捨てること。一つ大人になるとは?一つ何かを失うこと。
3、素直な感情と行動をくっつけるのは子供である。自分の子供のころは?嘘を重ねる自分に自分が怒っている。 自分がない(アイデンティティが確立していない)と基準がぶれる。素直とは?わからなくなっている。 自分を知ること。認める、理解するは無理。知るだけ。 高度なことは言っていません。地べたを這うように、足元の豆を拾うのが人生。

発達とは、何かを得る代わりに、何かを失う過程だと言える 今を知る。5歳児の大人。自分のレベルを知る。感情を知る。 知ると分かる、認める、理解する、受け入れるはまったく違うもの。 アイデンティティの確立=自分という感覚=大人になること。 「自分は他者とは違う自身であり、一人しかいない」 「過去、今、未来ずっと自分である」

発達障害、境界線、共依存、愛着(アタッチメント)、無意識を知る。 私OK、だからこそ、あなたOKになる。 他人の気持ちは、親子であってもわからないことを知る。 妄想の思考の中で、過去と未来に生きている自分を知る。現実直視をすることができない自分を知る。常に時差ぼけ状態(車の運転をしている時の意識レベルと一般の方のリラックスした意識レベルが同じ)。 もやもや、苦悩は、一生続くもの。もやもやがない、苦悩がない人はいない。 知るだけ、どうにかしようとしないで、まず知る。結果は要らない、経過と継続。 言い訳、理由づけ、頭で生きている自分を知る。人のせい、誰かが何とかしてくれると思う自分を知る。 見えない繋がり、手放すことが、本当の愛であり、信である。 丁寧に意識して行動する。足元の豆を拾う。思考と行動と視線を一致させる。感情を放置して行動できるのが大人。裏表、礼儀、社交辞令。放置するには、まず感情を知ること。知ると納得する。自分と仲良くすること。色々な自分がいる、これもあれも全部私。

親を追い込むアドバイス 「褒めてあげて」「認めてあげて」「親なんだから」。これらは、具体性に欠け、親を責める言葉になっていないだろうか?母親は、自分の育て方が悪かったのかと苦悩している段階で、このアドバイスを無理にでも実行しようとする。不自然であり、自分の知識の枠を越えた納得できない行動をしなければならない。感情を抑えて、時々顔を出す、押し殺しているつもりの自分の感情に自分が振り回されるのである。諸々の障害を受容し前向きな親という理想の姿は、理想であり、親も一人の人間であることを忘れてはならない。子供が分かってほしいと叫ぶ心理と同じく、親にも周囲の肯定的なまなざしが必須である。親の方も「分かってほしい」のである。親も、その親の子供なのである。親は、子供の性格ではなく、行動を見る、今を知ることを意識してほしい。先走らないことが大切だと感じる。先走るのは、自分を守りに入るからである。親子であっても、互いの気持ちを分かるのは無理であることを知ってほしい。それぞれには、それぞれの価値観があっていい、ない方が不自然なのである。以前から何度も言っているが、ヘルプではなく、サポートをする立場を知ってほしいのだ。 子供たちは、アイデンティティ確立の時期に葛藤し、自分探しをしながら、大人になる階段を上がっている時期である。子供のままでいたい、もっと甘えたい、大人の世界は嫌だと思いながらも、自分が何者かを探し彷徨っているのである。乳児期に愛着をした、いやしているだろう母親に絡むのである。 この時期に、かつてアイデンティティを確立したつもりの親は、土台が不安定であり、アイデンティティが拡散しているいわゆる危機に直面するのである。自分と向き合うということに直面しなければならない、もしくは自分と向き合う必要があることを知らなければならなくなる。子供のことではなく、自分自身の「何か」と向き合うべきだと気づく方も多い。それを知ることを、まずしてほしい。 ただ、年齢的に、体力や立場が、それらを妨げるのは実情であり、誰の問題?今何が問題?がすり替えられてしまうことが多い。自分と向き合い「私は私、OKよ」と思えるからこそ、「子供は子供、そのままでOK」に繋がるのである。ここで注意したいのが、礼儀と躾の違いを、きちんと教える立場であることを忘れてはならない。 感情と行動を切り離すことができるのが大人であり、感情を抑えるのではなく、まず知って、納得して、適切な行動をするのが、自分を年齢に応じたレベルに同一性ができた大人と言える。特に、他者との距離感=境界を知っているかどうかは、重要であり、子供たちは、その境界が混乱していることも知ってあげることだ。 人間は、自分の欲がご都合通りにいかないと悩み、自分を知らないことで苦しむ。それらも含めて「知る」だけでいい。まず知る(感情が入らない)だけでいいのである。目に見えるものが宝ではなく、そのものを愛する自分の気持ちが信なのである。宝は手放すことで、安心を得、自分の気持ちが輝くのである。
*日常の生活の中の他者(子供や主人)の行動を三つに分ける。してほしい、してほしくない、やめてほしい。これも知るだけでいい。自分を知らない人ほど、他人を「あーだ、こーだ」と言うのである。他人の足元の豆は拾えないことを知っておくべきだ。  
ただ、摂食障害は、命にかかわる疾患であることは、忘れてはならない。

子供を観察してみよう 微笑むことで感情の表出ができていること 安全感覚で身を守る基礎ができていること 人への基本的信頼感(見捨てない人との出会い)を持っていること 言葉で表現し、言葉を理解する基礎ができていること 意志を持ったら、譲ったり譲ってもらったりする基礎体験ができていること 子供のころ、甘えられないという状況の人は、反発もできないという状況でもある。 愛された経験のない人もしくは愛されていたことを気づかない人は、愛する力という見えない感覚がわからない。 思春期の反抗期の時期に、本来、大人に反抗して成長するところを抑圧されれば、そのストレスは内面に向けるしかなくなる。 極端な場合、解離性同一性障害(多重人格)のような障害や境界性人格障害、摂食障害などの精神疾患になる人もいる。 甘えたことがないと、自分が大人になった時に、子供を甘えさせるという適切な行動ができない場合も多い。 優しさや厳しさの使い分けがわからなかったり、距離感が混乱してしまう。 生後1年(もしくは2年)くらいまでに、一人の特定の人(養育者)に対して、安全なアタッチメント(愛着)を持ち、安心して依存できる場所を確保する。それを土台として、他者とのかかわりを広げていく。 初期の経験が大事であるが、発達は柔軟性があり、偶然が作用することも多々あり予想はできず、転換の点というものがある。発達の区切りには、何らかのストレスがともなうが、良い関わりの貯金を使いながら、その場を対処できる。 また、安全なアタッチメントを持っていなくても、身体的に正常な発達は、強い味方にもなり、新しい環境で、代理の防御要員により、形成することもでき、躓いても回復できる自己治癒力は備えているのが人である。
曖昧な状況において、他者に情報を求めて、自らの行動を調整することを社会的参照という。乳児は、母親の表情(肯定的、否定的など)を読み、行動を決める。新生児の視力は、0.02くらい(焦点は20p)、生後6カ月間で急速に増加する。

自分の境界を大切にする人は、他人の境界も尊重出来る 人と人の間には、いくつかの境界線がある。人は、どんなに相手と親しくても、親子であっても、身も心も一体ではない。人の心はその人自身が持つ自由意思の領域である。人は自分の意思を尊重する権利があるが、同時に、他人にも他人の自由意思があり、その意思を尊重する権利がある。目に見えない境界線は、心理的な境界線であり、例えば意思、価値観や感情などを指す。分かりやすく言うと、良いものを入れる、悪いものは出すという感覚で、適切な境界線は、人間関係での安全も確保できる。 境界線は、各自が各自の感覚に応じて、また時と場合や人によって、引き方が変わる。境界は、融通がきく、柔軟性なものでなければ、壁になる。壁はコミュニケーションの断絶を意味し、境界と壁はまったく異なるものである。幼少時の万能感を抱いたままで現実感がない人は、限界と境界の区別がつかず、壁で自分を守っている。境界線は、産まれてから大人になるまでの成長過程で作られていくものである。 親密という捉え方を間違えると、境界が混乱し「相手も自分と同じ価値観でいてほしい、行動してほしい」や「同じ気持ちでいるはずだ」と考えてしまう。
・自分の感情は、自分の管轄にあり、自分のものを相手のせいにしない。
・相手の感情は、相手の管轄にあり、自分が責任は取らない、コントロールしない。
・自分の感情と相手の感情は、別のものである。
・自分の行動、感情表現は、自分が決める。
・相手の行動は相手が決める。

自分を守る手段の顔色を伺う良い子、八方美人、逆に、親が甘やかして子供が欲求をすべて満たされて育った子は、自分と他人の欲求が異なることがわからないままで、自分と他人の気持ちの区別ができない。境界線がうまく作れない。自分のご都合通りにならないことが、人間の悩みであるが、そのモヤモヤを処理できずに、相手を攻撃したり、不機嫌になる。攻撃するのは、自分が相手の領域に踏み込んでしまっている状態と言える。また、相手の反応に気を遣うのは、相手の言動、その反応やそれらの選択に、自分が責任を負うことであり、相手には、迷惑で、失礼な行為である。
岡本は、「迷惑」「失礼」な行為だと、皆さんに、はっきり伝えている。自立とは、自分で出来ることは自分でやり、自分が出来ないことは出来ないと伝えて、他人の助けを借りることが出来るということであることを思い出してほしい。共依存者は、相手の成長を妨げ、相手を潰してしまうという意味も再度思い出してみよう。 自分が責任を取るのは自分自身の自己表現のみであり、それに対しての相手の言動、反応は、相手の責任である。 自分に集中する、感じていることを言葉にする、同時に、他人にも同じ権利があることを知る、他者と比較しない、競争しない、「私は」「私が」アイメッセージで話す、感情を放置し、事実を知る、言い訳はしない。自分の問題は自分の責任で解決する、相手の問題は相手の責任で解決することであり、自分が責任を感じることも、負う必要もない。主語を自分にすることで、自分の言葉は自分が責任を負い、相手の責任にしないという感覚を養う。気をつけることは、あれもこれもと欲張り、強引に関連付けないことである。不器用な自分を知って、一つずつ知ることを意識することである。  他者が気になるのは、相手が見えていない状態で、他者に好かれたい嫌われたくないという気持ちがあると、相手の感情を自分の境界内に入れてしまう。アイメッセージを、取り残された気分と混同しないで、感情放置で、今の現実を知るだけに徹する。 自分の人生は、自分で知ることから始まり、自分の意思で選択し、自分の価値観を作っていくもので、苦悩しモヤモヤし頭を下げて、自分が責任を負うからこそ、自分色の実がなり花が咲くのである。私は私、これでいいんだと堂々と言えるのである。そして、あなたも、あなたでいいのだと言えるのである。

下記の部分を特に意識して過ごしてみましょう 目に入るより、見るという行動。聴くも同じ。見えているとか聞こえているでは、思考が先走りしますね。勝手に思い込む癖が、パワーを発揮するんですね。水が紅茶に見えていたというスキーマ、認知の歪みが、まさしくそれだと思います。思考が見ている状態ですよね。 日常の生活すべてに、これが当てはまりますね。よく観て、聴いて、嗅いでくださいね。とっさの行動って、面白い思考が自動的に反応する自分を知る。自動的に反応。本心が分かるよね!自分が自分にも隠していた部分。無意識に動くから。 理想は現実の上に立つから描けるのよ。現実に立っていないと妄想よ。夢見る夢子ちゃん。悲劇のヒロイン。ピーターパンのようなシンデレラというか白雪姫かな。リボンの騎士が妙に大好きだった、私。白馬が特に好きやった、私。理想は現実の上に立つから描けるのよ。現実に立っていないと妄想よ。妄想の時代が長かった分。今は、驚くほど、現実直視になった。回復最終ラインを乗り越えてからが、本当の意味での克服への道だよ。そこからが苦悩するんだよ。区切りがある。23歳、30歳、35歳、40歳、45歳。自分の発達。まだ続く。 生後1 年(もしくは2 年)くらいまでに、一人の特定の人(養育者)に対して、安全なアタッチメント(愛着)を持ち、安心して依存できる場所を確保する。それを土台として、他者とのかかわりを広げていく。初期の経験が大事であるが、発達は柔軟性があり、偶然が作用することも多々あり予想はできず、転換の点というものがある。発達の区切りには、何らかのストレスがともなうが、良い関わりの貯金を使いながら、その場を対処できる。また、安全なアタッチメントを持っていなくても、身体的に正常な発達は、強い味方にもなり、新しい環境で、代理の防御要員により、形成することもでき、躓いても回復できる自己治癒力は備えているのが人である。私の経験上、やはり自分なのだ。自分が体で、苦悩を知り、頭を下げて、足元の豆を拾い続ける。渦中の時よりも、しんどい。苦悩しながら、歩くのが、生きるってこと。何一つ「ご都合通りにならない」ものだ。だからこそ「これでいい」のだ。 現実を直視できないのが人。私は、直視、それを知る、感情を知る、それを浸る、納得する、捨てる。体で掴んだのは回復してから。手放すのが愛。これは母の教え。知るだけ。これを繰り返す。瞬間を知る。これだけ。  

知ると、私の基準では、楽になる。それを楽になると捉えるかどうかは、人それぞれ。大人になると、寂しくなりますね。成長って、何かを捨てていくことですもの。万能感の処理をしていくと、夢の世界から現実の世界に立たなければなりませんものね。夢の世界=頭。現実の世界=体。こう考えること。頭の感情ではなく、体の感情をしっかり掴んでいく練習ですね。コツコツという意味ですよ。 歯磨きで歯ブラシを動かすのは自分。自分とそれがあるから、出来ること。歯ブラシを動かしている自分がいるんだと、体が知っているかどうか?歯ブラシがないと、できない行動。  昔は、理想の上に立って、時折見える現実から逃げた。今は、現実を直視しながら、妄想の世界を知っている。「自他境界」自分と他人とを分けるラインのこと。境界がないと自分もまわりの人も区別がなくなる。どんなに親しい関係でも、境界は必要。
境界には心の境界と、身体、モノ、空間の境界がある。親子や親友でも、好みが違うこと、価値観が異なる。  
自分の特性を知ることで、私は自分に合った大人になりましたよ。特性を誤魔化していると、境界も混乱していきますので。 共依存とは、一言でいうと「他人に大きなお世話をする人」。元々アルコール依存症の家族を指して言いましたね。それは、自分ができていないので、自他の境界線がないからね。自分の問題か、誰の問題かが混乱している。相手の心まで自分の気持ちとダブらせる。行動は過干渉とも言えるので、相手を潰してしまう。相手の一生を背負うことにもなる。他人の足元の豆を拾って、疲れて、不満になる。だから、いつも不安。何かしていないと落ち着かないのね、共依存の人は。自分の中に空いている穴を、他人への奉仕活動感覚で埋めようとするから。相手が依存症や境界線が曖昧な人は、それを受け入れると言うか、お互い浸透しちゃう。そうすると、ご想像の通り。依存症をあおってしまうのね。何もできない子供にしちゃうのね。だって、楽だもん。これを共依存症と言うのね。依存症の人は、共依存の人に乗っかると楽よ。もしくは、すごく反発して重くもなるのね。
私が、突っぱねると言ったけれど、まったくそんなことをしていないよ。した覚えがありません。私は、ざわざわの人とは、極々普通の友人知人関係の接し方をしているよ。それが、突っぱねるとか、怖いとかに思えるのは、相手の管轄。境界線がなく、依存症がある人には、そう感じるのよ。違和感あるはずよ。私は、相手に合わせないから。普通、いちいち合わせないわよ。パートナーとの間の境界線は、もっとくっきり浮き彫りよ。でもそれが自然な関係。他の友人とも、そういう関係よ。相手が、私みたいな人の場合は、共依存者は、それらを発揮できない。大きなお世話って言われるだけ。ばっちり線引きされると、見捨てられたや嫌われたって、また勝手な妄想で共依存を発揮。そして、また誰かを探すのね。
共依存も、アイデンティティの確立を目指して、自分を知っていくことで、改善されます。これらは、言葉だけや頭の中だけでは、掴めません。社会に出て、経験を増やして、痛い目に合って、体で知っていくものです。だれも教えてくれないしね。「相手を潰す大きなお世話」から抜けて、私OK。だから、あなたOK。になるのよ。境界線がない人の読書=感化されて自分の都合のいいように思いこむ。境界線がある人=そういうこともあるんだ、へ〜でも変やな、それはそうそう。境界線が極太の人=自分で本を出します。日本人、特に女性は、境界線が曖昧なので、「◇が〜に良い」と聞けば、飛びつく。売り場で、品物がなくなる・・・・。  

これからどうなるか?は、誰にも分からないよ。今、どうかは、知ることはできるよね。将来が不安な人は、今の自分を見ないからだもん。今を見ないから、過干渉になるのよね。自分を置き去りにしたい理由も、それぞれが持っているはず。 どれだけ続いているは、無関心。どうでもいい。内容の統一性には、拘らない。思考感情は日々変わるし。何より、私は、読んでもらうという感覚がまったくない。書くことが好きなだけ。気がつけば、継続。気がつけば、自分の成長。そう言えば、身を引くのも早い。周囲が驚くほど。そう言えば、我が家に物がない。訪問者が驚くほど。そう言えば、境界線が極太。パートナーも驚くほど。自分と自分の繋がりも極太。自分が自分を知っているだけで、満足、満腹。出来ないことを先に言うのが、私の主義。無理はしない。そう、無理を知っているから。

一人で我慢して生きてきた人は、リラックスできない、心理的に協力をして何かをすることができないという他人との間の距離感を知らず、信頼という感覚が上手く掴めない。 身を任せることができない=どんな感情を出してもいいという経験をしていないから。今、自分と自分の間に信頼関係を築くために、コツコツを重ねています。人は、感情を出せないと心が寂しさを覚えます。自分が自分の感情を知ってあげることが大事。どんなことがあっても、自分の傍にいつも居てくれるのが自分です。自分が自分を知ってあげることを、置き去りにしないことが、自分への贈り物。

嬉しいや喜びの感覚はあるのですが、楽しいという感覚が分からない方が多いのは、心理的な触れ合いを知らないからなんですね。どんな自分でもいいんですよね。その自分が、今の自分なんですよね。自分を知るには、他者の存在が必要ですね。他者は自分ではないのですよね。距離感を知るベースには、礼儀があり、そして対個人との信頼関係ですよね。自分がいて、そして相手がいる。これを知ってください。相手のために自分がいるのではないのですよね。自覚を知る。自分の意志で動き始める。誰かのためにではなく、頼まれたわけでなく、誰かに良い子になろうとすることもなく。自分が集中して経過を動く。現実を直視できないのが人です。現実から逃げるのも人です。皆、同じなのです。 上手に悩む人は、悩んでいる「今の自分」を知っている。その自分に正直になることができる。そして、悩みをすべて手放そうとしない。岡本は、モヤモヤを抱えて歩く。モヤモヤを放置して休むことができる。モヤモヤを観察して浸ることができる。
頭を柔らかく、視線を柔らかく、鼓膜を柔らかく。答えは出ない。だから、答えは出さない。だから、焦らない。 「自分に素直な人は、上手に悩みます」それは、言い訳や誤魔化しをしないから。白黒の感覚は、自分に説明をしやすいから、自分の納得する言葉がほしいから。強引な納得?臭いものに蓋をする納得?お鍋がグツグツ煮えたぎっているのに、重い蓋を上から押さえつける? 本来は、感情は事実に基づいて湧くもの。岡本は、感情が事実を作りあげていた。そして、とにかく自分を頑なに守ろうとしていた。極端な恐がり。自分をコントロールできないと感じるので、他人をコントロールしようとしたり、子供ぽい世界観を持っていた。ジェットコースターに乗っているような感情の起伏で、自分だけでなく、周囲の方も、振り回していたと実感。知ることが増えて、一歩ずつ自分のレベルの大人になっていくのだ。 経過を意識していく。経過を置き去りにしないことが、思い込みを少なくする練習だと思ってくださいね。始まり、終わりではない。始まり、経過ですね。経過は、保留ができます。修正もできます。自分の人生、自分で経過を積み重ねて、自分のために生きていいんだから。遠慮することはないのです。責任を背負うのは、かなりしんどいけれど、自分が活きているという感覚はがっちり掴めますよ。嬉しいや喜ばしいよりも、楽しいと感じますよ。自分という土台を自分のカラーで作ることですよ。
焦らないコツは、知るだけですね。今のしんどさを、何か理由をつけて、楽になろうとするのが人かもしれませんね。今はそれでいいと思います。しんどいのは、しんどい。逃げてもいいんですよ。岡本も若い頃、摂食障害が逃げ道を与えてくれていました。ただ、今のしんどさと過去のしんどかったことを混同しないことですね。混同する癖がある方が多いですね。今のしんどさと過去のしんどかったことを、見極めるのが大人だと感じます。今、しんどいのは、体?心?頭?

「行動の繰り返しから、思考が発達する」過保護は、子供が望むことを、それ以上に手を貸し過ぎ。過干渉は、子供が望まないことまで、手を出し過ぎ。著書の中にも記しましたが、「最優秀過保護のお姫様」の岡本は、自分でスキーマを作ることも知りませんでした。そして、自分が自分に過干渉だった時期がありました。本来の自分の思考がストップしてしまい、感情を抱かなくなっていました。岡本は、主治医から学んだ信頼から、根底に母との絆があることを知り、自分で未知の世界へ裸で飛び出しました。行動の繰り返しが体験を積み、思考も感情も溢れ、自分のスキーマを作っていきました。スキーマに、良い悪いはないのですよ。自分で自分のそれを作ることが大事なんですよ。 「柳に雪折れなし」今、岡本の心の中は、いつも柳のような感覚ですよ。そして、自分を知ってもらうよりも、自分は何を知っているのかを、自分で知りたいとよく考えています。柳のように、のらりくらりとしながら、風が吹いたら、風が吹いたと知り、雪が降ったら、雪が降ったと知る。その瞬間に湧く感情にどっぷり浸り、自分の感情を知り、なるほどと言いながら、捨てるものは捨てる。不器用な自分だからこそ、生きる智恵を、自分流に掴みました。岡本の場合は、自分の過ちを自分で知り、謙虚に認めて、頭を下げるという強さを、柳から学びました。ずーっと、ここが一番の躓きだったんですね。

一日一夜を経るに八億四千万の思いあり 私も、日々、足元の豆を、丁寧にコツコツと拾い、知足を心にそっと置いております。「足るを知る者は富む」の言葉通り、足ることを知りながら、自分という存在を有難く感じております。足ることを知らない者は天にある宮殿のような所に住んでいても満足できないと言いますが、自分を知ることで、自分の中にあるものも知っていきますね。 私の若い頃、欲が深く、不安になり、色々なことを、頑なに取り込み過ぎて、何も見えませんでした。「無一物中無尽蔵」という言葉に出逢い、抱え込んでいたものを失うことが恐く、それがまた不安になっている自分を知りました。著書に記述しましたが、宝物は、手放すことで、その存在を確たるものにしていくのだと知ったのは、摂食障害を手放した時でしたよ。 私の歩みは、ゆっくり。まず、自分の視線を知ると、霧が晴れたように、視野を知りました。同時に、現実を直視する恐さと、責任を負う苦しさに、辛さが増していきました。 進むのも、戻るのも、自分次第なんだと知り、しばらく辛さを知るだけに徹しました。知るだけでいいんですね。そして、逃げる辛さではなく、実のなる辛さを、自分が背負いました。すると、この身が軽くなるのを知りましたよ。辛さの味わいは、成る実の美味しさに比例していましたね。人や物ではなく、私は私という感覚が宝物であり、私というその宝の存在を手放すことができて、私の傍にいつも私がいてくれたんだと気づきました。失う不安があると、不自然な自分が前面に出てきますものね。その中で、周囲の方のそっと見守ってくださっていた見えない繋がりを感覚で掴み、感謝が溢れてきました。 自分を知るコツコツは、生涯続くものですね。モヤモヤしながら、実のなる辛さを感じながら、出来ることしかできない自分を知りながら、自分の足で、ゆっくり、ゆっくり、これも私、あれも私、全部私なんだと、自分が自分と仲良くなって繋がっていきますよ。

メール療法
日常の生活の中で、丁寧に意識して、行動する。思考と視線と行動を一致させて、結果よりも詳細経過を大切に、自分を観察する。現実を、感情を入れずに、淡々と知る、頭ではなく、体で知る。欲張らずに、一つだけに集中する。コツコツと、今の時間軸で動き、コツコツと積み重ねる。メールでは、岡本と会話しない、返信は期待しない、返信に返信をしない、挨拶も要らない。自分に書くこと。メールを書くために行動しないこと。良い子、嘘は、後ですべて自分に返ってくる。

例)シンクの前に両足を肩幅に広げて立つ。お腹をシンクにつけないように意識する。顎を引き、お腹足幅を視線を向けて観る。ゆっくりと視線を、右斜め前の水道蛇口レバーを観る。右手をゆっくりと言いながら、レバーに伸ばして、一旦握って、上にあげると言いながら、力を入れる。水が出るのを観る。一旦そのままで、視線を下げる。左手に持ったスポンジを軽く握り、蛇口の口にそっと近づける。視線をレバーに向けて、止めると言いながら、レバーを下に押す。 左手に視線を向けて、そっと食器の上に下ろしていく。右手を食器に下ろすのを視線で追う。食器を洗うと言い、左手のスポンジを右手に持ちかえるのを目で追い、右手でスポンジを掴む。 左手にガラスのコップを持ち、右手のスポンジをコップの中に入れて、上下に動かす。コップを洗っていると言い、その動作を数秒繰り返す。一旦コップをシンクに置き、両手を軽く振り、水滴を落とす。ゆっくりと右手を蛇口に伸ばし、右手がレバーに触れた感触と目に入った光景が同じだと観る。水をチョロチョロと出す程度にとゆっくりとレバーを上げる。すぐに左手に視線を動かして、コップを持ち、流れる水でコップを濯ぐ。汚れ泡残しがないと言い、右手をコップから離し、軽く手を振り、スローモーションのようにレバーまで伸ばす。レバーを下げて水を止める。止まったことを観る。右手をコップに添えて、左手と同時に軽く振り、水滴を切る。左手でコップを支えて、ゆっくりと水きりかごに伸ばし、コップをそっと置く。腰の位置足の位置に変化がなかったことを確認する。

ワーキングメモリのお話
脳のメモ帳とも言える記憶のシステムであり、人間の認知活動の日々の情報処理において、今、目にしている情報をいったん頭の中にとどめるという一時的な情報の保持、その保持した情報に関する情報を自分の知識内から探すという情報検索、その結果と照合させる処理をしている。例えば、繰り上がりのある足し算や本を読む作業にそれらの処理が行われる。 また、100文字くらいの文章を読み、下線がある単語3語を、順番に報告するように言われた場合には、文を読む+単語を覚える、両方の処理をしなければならず、ワーキングメモリ処理資源の大きさに左右される。 近くの「こうえん」で「こうえん」があり「こうえん」だったと「こうえん」で話す ワーキングメモリが小さい人は、「こうえん」という単語を、例えば「公園」しか保持できないため、文の意味を理解するために読み直すので、速度が落ちる。ワーキングメモリが大きい人は、あらゆる「こうえん」の意味を保持しながら読めるのである。*近くの公園で公演があり、好演だったと講演で話す 公園=市街地またはその周辺に設けられ、市民が休息したり散歩したりできる公共の庭園。 公演=多数の観客の前で、演芸・音楽などを演ずること。 好演=うまく演技・演奏すること。また、その演技・演奏。 講演=聴衆の前で、ある題目のもとに話をすること。また、その話。

感情とは? 人の心的作業において喜怒哀楽に代表されるような評価的な反応を指す。一次感情(生得的に持つ基本感情、喜び、悲しみ、驚き、怒り、恐れ、嫌悪、軽蔑、興味など)と二次感情(学習や経験により獲得される自己意識感情、2歳くらいから出現、愛情、自尊心、誇り、希望、傲慢、恥、困惑、罪悪感、嫉妬など)がある。 感情・・主観的に生じている意識体験 情動・・内面に生じた生理的な反応が、言動や表情などの表出系に出てきたもの 気分・・比較的弱く、持続的な快、不快で、刺激対象が不明瞭 情操・・真理へのあこがれ、不正に対する憤りなど知的感情 2歳頃に自己が明確になり、自己を客観化できるようになると、困惑するために生じる感情を二次感情といい、共感は、他者と自己の立場の差異に気づき生まれるものである。この感情には、認知能力、自己を評価する基準を獲得する必要がある。いわゆる個人化が進むのである。

恥と罪
人が自分の行動を評価する。自分にとって重要であるかどうかで、成功か失敗かを判断する。その結果を自己に帰属させるかどうかを決める。 帰属させない場合は、理由をつけて、何かのせいにして説明をする。自己のせいだと考え、原因を自己全体に帰属させると、自分の存在が原因だという恥の感情、自分の特定の行動に帰属させると、特殊的帰属の罪の感情が生じる。逆に考えると、恥の感情は自分を全面的に否定し、非常に辛く、罪の感情は、その特定の原因を除くことで始末ができる。 また成功の場合は、自己全体に帰属させると、思い上がり、傲慢ともなり、特定する場合には、誇りを持ち謙虚さも持ち合わせることができる。

自己認識
自分への気づき、自分自身の性格、長所、短所、願望、嫌なことを自分自身が認識できるライフスキルのこと。どんなことでも、人は自分で選択しているということを知る。 自分の長所を認識することができ、自信が持てるようになる。自分の短所を認識して、否定して終わりではなく、自分の能力に対して現実的な期待をすることができる。これによって、空想や妄想ではなく、自分の短所を具体的に知って、どうすれば改善できるのかと具体的に対策を検討、実行できるようになるので、現実的な自己イメージに基づいて、自分の能力の範囲のことはやったらできるとの意識のもとに意志決定をすることができるようになる。 自分はまわりの人が存在するからこそ認識でき、まわりの人の存在を感じることができるのは、 自分とまわりの人の間に区別する境界があるから。自立した人間関係がしっかりとあると自己認識はしやすいもの。
自己認識スキルは、依存しない人間関係をつくる力と深い関係がある。自分が理解できるのは、まわりの人の力が必要で、お互い様という発想が自然に芽生える。自分を知るほどまわりの人がわかる。まわりの人を知るほど自分がわかる。自己認識の基本は自分の感情を知ることができて、対処できること。 自己認識ができず、感情に書き込まれると、その不快感に適切な対応をするか、気分転換するか、あえるいは放置したままになる(大きく捉えて逃避)。適切な対応をするには、自分の感情を知っていないとできない。 自立した人間として生きるには、境界を求め、また境界があるから自己認識できると言える。境界がない、自他の区別がない状態では、お互いのプライバシーを浸食していても気づかない、他人の言うなりになる、他人を自分の思い通りするなど。 自分が境界を自分で決めるように、まわりの人も自分の境界は自分で決められる。それを認め合うことが大切。あなたが「ここまでならOK」と感じるところがあなたの境界。同じように、まわりの人にも境界があり、その境界線は人によって違う。相手の「ノー」を受け入れない関係は、境界を踏みにじっている。愛情のある関係とは言えない。
心の境界とは、考え方や気持ちの境界。
目には見えないので、未熟なこどもには、心の境界の存在が確認できず、ひっくり返したおもちゃ箱のように、周囲と自分とが一体となっている。思春期は、自分と相手とは別の人間だということがはっきりわかるようになる時期であり、自分と相手とは別の人間だと認識しようとしている。孤独を感じるようになる。孤独感こそ自他認識スキルになるが、スキルではなく、感情として認識してしまう。この時期は、誰にでもある。仲が良いことと相手と一体化するは、全く違うこと。お互いが自分のままでいいのであって、それは「私は私」。あなたにはあなたの考え方があっていい。気をつけたいのは、無視してもかまわないのではない。自分を尊重するように、相手も尊重するという意味が含まれる。相手に合わせて無理している間は、相手のことを考えずに、自分が相手に嫌われないかと自分のことばかり見ている。自分を自分のまま表現することができるようになると、お互いの弱さを受け入れることができ、より親密な関係が築け、自分の長所を認識することができ、自信が持てるようになる。 大切なのは、毎日ささやかなことから重要なことまで、いつでも選択は他の誰かがしているわけではなく、自分がしているんだといういう事実をはっきり意識すること。その上で 自分で決める。自分の決めたことは、結果がうまくいかなくても他人のせいにしない、自己責任、これも心の境界である。

自己認識を健全に育む方法として、親(または周囲の大人)が子供の感情に共感することはとても有効だが、多くの親は子供の感情より行動に注目してしまうため、子供の感情に鈍感になることが少なくない。 思春期は、さなぎの時期であり、身体的な大きな変化や心的なエネルギーに自身が戸惑う。不安や衝動を自己コントロールができず、また自己表現が未熟で感情的にもなりやすく、行動化も目立つ。内省化が始まり、過去を振り返ることが多くなり、自我が意識され、親からの自立が課題となる。性に対する葛藤も活性化される。

青年期の発達課題の1つ、アイデンティティの確立。自分の自立性を高める働き(個性化)と、社会に適応する働き(社会化)とを調和させることであると考えることができる。また、自分に関して矛盾のない物語をつくり、居心地のいい居場所を探すための作業。アイデンティティは、自己と社会との相互作用のなかで確立されていく。 アイデンティティは、自己や他者の経験から学んだりするなかで、確立されていくものである。具体的には、これまで体験してこなかった立場、役割、活動を体験する(役割実験)などを通じて、自分を理解する方法などがある。アイデンティティを確立する過程でつまずくことを、アイデンティティの拡散と呼ぶが、それには、自意識の過剰、選択の回避と麻痺、対人距離の失調、時間的展望の拡散、勤勉さの拡散、否定的アイデンティティの選択などがある。
モラトリアム いくつかの選択肢について迷っているところで、その不確かさを克服しようと一生懸命努力している。人生に関するいくつもの可能性を前にして、アイデンティティの決定を延期しているのであり、その決定のために奮闘努力している。
フォアクロージャー 自分の目標と親の目標に不協和がない。危機を経験していないにもかかわらず、特定の生き方、職業、価値観などに積極的に関与している。親や年長者などの価値観を、吟味することなく無批判に自分のものとして受け入れており、主体的に選びとったものではない。一見、アイデンティティ達成のように見えるが、自分の価値観を揺さぶられるような状況では、いたずらに防衛的になったり、混乱したりする。硬さ(融通のきかなさ、権威主義)が特徴。
アイデンティティ拡散 危機の有無に関わらず、積極的な関与ができない。自分の人生について責任をもった主体的な選択ができずに途方にくれている状態であり、自己嫌悪と無気力が特徴。「自分がない感覚」「自分が何者かわからなくなっている状態」

大人の発達障害を考える
ADHD(注意欠陥多動性障害)落ち着きが無い(多動性)集中出来ない(注意欠陥)自分の欲求・感情・思考をうまくコントロールできない(衝動性)
LD(学習障害)聴覚・視覚・知的には障害は無いが、聞く、話す、読む、書く、計算する、推論する等の特定の能力のうち、習得、使用等が著しく困難である
AS(アスペルガー症候群)周囲の変化に対応する事が苦手、曖昧なものが嫌い、人間関係を理解するのが苦手、人と観点がずれてる、物を集めたり並べたり分解したり組み立てるのが好き、不自然な話し方をする、感覚過敏、社会性の欠如
広汎性発達障害(自閉症スペクトラム)社会性に関連する領域にみられる発達障害の総称。相手の気持ちがつかめない、場にあった行動がとれないなど、対人的相互反応における障害。独特な言葉使い、会話をつなげないなどコミュニケーションの障害。行動、興味、活動が限定していて反復・常同的。

「自分が納得するように生きる」という基本的な発達障害のスタンスを守りつつ、多数派の観察から得られた状況分析の合理的な結果から、本人が社会の中で希望することと、そのために必要な妥協のバランス、およびその妥協の結果として起こるストレスまで総合的に考えて、合理的に自分自身でどこまで社会(多数派)に適応するかの自分なりのスタイルを確立する。多数派対少数派という違いだけがあり、それを客観的に理解することが何よりも重要である。少数派であるというだけで多数派に合わせる必要はない。基本的に自分が納得するように生き、必要最低限、自分が社会の中で得たい立場に合わせてそれを得るために妥協する。最低限の適応はあっても、「治す」必要はない。

スキーマ schema
さまざまな物事に対して「その人が無意識のうちにしてしまう、ある決まったものの見方、考え方」を指す。偏見も含む、幅広い概念である。物事・事物に対するまとまった知識、思考の引き出しとも言える。私たちは何かを理解したり、行ったりするときに、それまでの自分の経験から得たいろいろな知識を使っている。このようなあることについてのまとまった知識すべて。個性による違いがあり、経験や情報から得られる知識が人それぞれに異なり、スキーマが形成される際には、「感情」も一緒に刷り込まれるため。見まちがい・聞きちがいは、人間が、自分のすでに持っているイメージやそれまでの話の流れ(文脈)に基づいて、入手した情報を判断しているために起こる。 無意識 自分の意識が、これなんだ、という感覚はなかなか難しく掴めない。無意識に動いているのではない、という感覚は掴める。自分の視線で自分が丁寧に動いているんだと意識を強めて行動する。恐らく、多くの方は5分ともたない。非常に疲れてしまいます。だから、人には無意識の領域がある。自分の心を防御してくれる機能を発揮している。自尊心が傷つかないように、また欲求不満が爆発しないように、不快や不安で押しつぶされないように、しっかり働いてくれている。

岡本理香講演会より抜粋
テーマ「大人になりたくなかった私、大人になることを選んだ私」 大人になりたくない。岡本はずーっと、こう考えていました。ただ、行動は別でした。 自分の心と体が別々で、長い間、意思疎通ができていませんでしたね。フォアクロージャーという言葉がぴったりの状態でした。自分の目標は、親の目標をそのまま鵜呑みにして、親の価値観を、吟味することなく自分のものとして受け入れていました。自分が選択したものではなかったのですね。一見、自分が確定しているように思えますが、自分の価値観を揺さぶられるような時に、混乱して逃げました。無理をしていたことすら分からなかったのですね。融通のきかない性格でもありました。頑固というよりも、何かに固執して、視野がかなり狭かったのだと思います。お気づきでしょうが、岡本は、母親が絶対なんだと思っていたのですね。反抗するということを知りませんでした。いいえ、反抗という言葉すら知らなかったかもしれません。病気になったことや主治医の元へ通うことは、いけないことだと思っていたのでしょう。母親に告知できなかったのは、そのことが大きかったと、今は思います。 主治医が「おかあちゃんにも来てもらおう」と言った時のことを鮮明に覚えています。岡本の口から出る言葉は、「自分を抹消する」ことばかりでしたし、綱渡りの毎日は、周囲の大人の目には、危険だと映っていたのでしょう。岡本は、とんでもないことになる、恐ろしいという感覚が溢れ、非常なくらいの抵抗を示しました。主治医は岡本の気持ちを受け入れてくれました。それ以後は、一切そのことには触れなくなりました。また、20歳代後半に勤務していた病院の婦長が、フラフラしながら勤めている岡本を心配して、直接主治医に電話をして下さったと婦長から聴いたのは、随分後のことでした。ちょうど、その頃、反抗期を迎えていた岡本は、主治医の診察をわざとサボることもあったんですね。本当は行きたかったのでしょうが、今思えばかわいい反抗期ですよ。主治医は「診察に来るのを信じて待っています」と言い、そのことは岡本にも言いませんでした。そして、数年後に母から聴いた話ですが、勤務先の婦長が心配して、母と直接逢って、いろいろ話をしてくださったようでした。子供のまんまの岡本は何も知らなかったのですよ。すべて、後で聴いたことばかりでした。周囲の方々は、心配し、いろいろな形で、見守ってくれていたのですね。父親のようなぶれない主治医とひたすら娘を信じて見守ってくれていた母親。岡本は、周囲の大人に見守られながら、愛情をたっぷり全身に浴びながら、大人への階段をゆっくりと上がっていたのです。その時は、まったく気づかなかったのです。 正義感と言うのか、真っ直ぐな性格だったのか、正しく子供だったのでしょう。大人の世界の裏表が理解できずに、戸惑う日々、混乱していました。混乱という言葉よりも、正確には、大人になるための葛藤ですね。ようやく自分とは何だ?と自分に問い始めたのです。自我を意識し始めたのです。誰もが葛藤し乗り越える時期の思春期・青年期を迎えたのですね。岡本の中に、何人もの自分が分裂し、それぞれがバラバラになっていました。それに気づき、社会生活で、仮面を被り続けていた自分が崩れ始めたのです。グレーの感覚は、未知の世界のもので、「裏切られた」「誤魔化された」に結び付けていました。真夜中に自転車で何時間も走り続けたり、電車に乗って知らない町に行ったり、夜の繁華街を彷徨ったり、薬を飲み過ぎて警察で保護されたり。エスカレーターに乗って上がっていた自分が、急に階段の踊り場に降り立ち、何だ?何だ?と騒いでいる感覚と表現しましょうか。自分の内部から湧き出るエネルギーが抑えられずに、感情も行動も落ち着かない状態でしたね。岡本は、母には諸々の相談をしたことがありませんでしたが、母は、それらすべてを察知してくれていたのでしょう。何も言わずに、忍耐強く、見守り続けてくれていました。どんな状態であれ、娘であることには間違いがないのですもの。そして、主治医の存在は、「安心できるもの、確かなもの、頼りになるもの」になっていました。 大人になる葛藤は続きました。ある日、1本の線の上に立っている自分を知りました。右に寄れば、妄想の世界に逃げ込むことができる。左に寄れば、自分として歩き始める。1本の線の上で、体は、じーっとして、心は、葛藤して、自分と自分が闘っているのが分かってきました。岡本は、自分の意思で、左に足を踏み出しました。辛く苦しいと知っていながらも、左を選択したのでした。なぜ、左を選んだのか?右を選ぶべきでないことを知っていたからだと思います。右を手放したと表現しましょう。著書に記載しましたが、主治医との関係で、岡本は安全なアタッチメント(愛着)を掴むことができたのですね。 今、考えると、岡本は、非常に環境に恵まれていたのですね。まず最初に、専門の病棟に勤務をしていたので、摂食障害への理解度が高かったことがあげられます。岡本は「わかってほしい」「摂食障害は本当はこうなんだ」「贅沢病、我慢すればいいとか、そういう問題でないんだ」と叫んだことはありません。初期の段階での周囲への説明に時間は要らなかったのですね。そして、専門のドクターの受診が、すぐ叶ったことや既に存じ上げていたドクターが主治医になったこともかなり大きかったと感じます。主治医の診察日を、目標にして、日々を過ごしていたこと。主治医とは、23歳の時に出逢い、30歳過ぎまでお世話になりましたね。看護師の仕事は、どういう状態であれ、継続していたこと。それに伴い、経済は自立が叶っていたこと。同時に、社会に繋がっていたこと。元々不規則な勤務でしたが、何日か家を空けても、生活の基本は、母と同居であったこと。別居している父の家を逃げ場所として使えたこと。そして、たった一人だけ、摂食障害や心の葛藤をそのまま話せる友人がいたこと。何よりも、一番大きかったのは、主治医も母も、1本の線の左を選択した岡本の背中を、それぞれの時期に、タイミング良く押してくれたことだと思います。確かに、突き放された感覚を持ちました。寂しくも感じました。いつまでも甘えていてはいけないという気持ちを抱き、人との距離感を知ったのが、この時でした。岡本を大人に育ててくれたのは、人、そして、その人との関わりだったことがよくわかります。スキンシップの大切さを教えてくれたのは、母ではなく、主治医だったのかもしれません。他者に戸惑い、他者との関わりに悩むのが、自己ですが、他者の存在があるからこそ、自己に気づき、自己を知り、自己を成長させるのです。 自分自身が選びました。大人の道は、思っていた以上に苦しく辛いものでした。あの1本の線の上に戻ると楽になることを知っていました。しかし、苦悩の日々は、充実していました。自分が自分であると確信を得るものばかりでした。葛藤の後半は、主治医の元から飛び出し、母親から離れて、コントロールできないエネルギーが外へ外へと爆発しましたが、それも成長の歩みの過程です。いろいろな物を壊しましたが、その頃の自分も自分なのですから。著書にも書きましたが、心の中にいつも主治医の存在がありました。いつも見守ってくれる、お守りみたいに。そして、母の存在は、自分に負けないという気持ちを維持させてくれました。お気づきかもしれませんが、岡本にとっては、主治医は、母なるものであり、母は、父性の強さを教えてくれたのでした。 今、辛く苦しい日々の方も、大人への階段を葛藤しながら、上がっていくこと、その経過が、答えを導いてくれます。誰もが、このアイデンティティの確立の時期に、大きく揺れて、悩み苦しむのです。青年期はモラトリアムの時期とも言われます。モラトリアムというのは「猶予」「待ってくれている」「失敗が許される」という意味ですね。岡本は、山のように失敗を重ねました。頭を下げて、足元を見てばかりの毎日でした。アイデンティティが確立したというはっきりしたラインは目には見えません。「自分は他者とは違う自身であり、一人しかいない」「過去、今、未来ずっと自分である」という感覚は、ふわっとしたものです。でも、確かに何かが違います。時間をかけて、ゆっくりですが、岡本は、堂々と自分を信じることができるようになったのは確かでした。日々感情が溢れ、責任という重さに苦悩し、心は揺れるのですが、根底にぶれない物が出来上がる感覚は掴みました。自分を知るという作業は、今も続いています。ここまでラインはありません。これは自分である生涯を最期まで問い続けていくものだと感じています。そして、今も、失敗を重ねています。毎日、小山ができています。足元のおシャレを意識しています。 主治医が岡本に言ってくれた「死んだら、アカン」。母が岡本に言ってくれた「あんたは私より長く生きるんやから、これから長く一緒に生きる人を選びなさい」。答えは、自分が持っているんだよという尊い教えだと、今も心に刻んでいます。 諦めなくてよかったと、今、素直に思います。自分が自分を諦めなくてよかったと。摂食障害に限らず、大人へ成長する過程で、誰もが、悩み涙し、葛藤します。自分自身を再構築する時期は、まさしく「危機」なのです。人により、歩み方も速さも異なります。元々の気質も環境も大きく違います。ちょうどサナギが蝶になる時のような大きな変化に伴う心的なエネルギーが大爆発し、自分が壊れてしまうのではないかと思うのです。それは自分が自分として生きようとする証であり、人が人として背負う責任や直視しなければならない現実を抱えるための準備体操のようだと思います。何度も何度もお伝えしていますが、キーワードは「素直」。 最後に、これをお伝えして、「大人になりたくなかった私、大人になることを選んだ私」の話を終わらせていただきます。岡本だけでなく、ざわざわで回復過程を歩まれた方々が、自分色の美しい蝶のような羽を広げて、共通して発する言葉があります。これは、自分とは何だ?に対する、区切りである答えかもしれませんね。 「あの時、一体、何だったんだろう」。

岡本理香著書より抜粋
「あんたは私より長く生きるんやから、これから長く一緒に生きる人を選びなさい」この母の言葉に背中を押され、摂食障害を克服して、あれから十年以上、随分の月日が流れた。一緒に長く生きるのが「自分自身」だと知った私は、同時に掴んだものがあった。今、私は、岡本理香という一人の人間としてのどっしりとした感覚を持っている。揺れることはあっても、ぶれない土台がある感覚だ。
今という瞬間の優先順位。執着は、その瞬間だけに。だから、捨てる技術も手伝って、悩むという言葉がなくなった、今の私。執着するから、悩む生き物。生きることに執着するから、現実から逃げる。だからこそ、生き物。 「母とは何年も逢っていない、連絡もしない」それぞれの立場の捉え方がある。仲が悪いわけでなく、絶縁関係ではなく。用事がない。それだけの私たち母娘。用事。そう、これがミソ。「あの男に、ゆうといて」は、私の用事ではなく、母と父との間の用事。だからお断り。何かあれば連絡がくる。母と娘だからと言っても、それぞれの生活が優先であり、世間話をする時間は、窮屈、私には不必要。目に見えないもので繋がっているのだから、確認は要らない。ただそれだけ。 経験の数は、人に自信を贈る。経験の真剣さは、人に余裕を捧げる。あるべきよう。あるがままも、ちゃんと持っていますよ、私は。浸れますよ、私は。感情を知る、浸る、抱える、行動を知る、今を知る。この流れのスピードが速いのは確か。それは。経験の数は、人に自信を贈る。経験の真剣さは、人に余裕を捧げる。モヤモヤしている自分を知る。モヤモヤしていることを誤魔化さず知る。モヤモヤに浸る。あるべきようは放置ができるから。あるがままは抱えることができるから。土台は「知る」から。こういうもんやけどな。今の私。
一番避けたい部分を、あえて抱えることができる、今の自分自身がいることを、自分自身が確信をしているが、あくまでも、抱えることができるのは自分自身だけなんだと知っている。かなりガッチリと向き合っている。重いが、手応えのある重さだ。この重さを抱えることができる力が付いたんだと自慢したくなるほどだ。摂食障害を抱えて、それを克服して、今の立場にいる自分だからこそ、自慢ができる力が付いた。回復過程の経験を重ねる機会がなければ、母の死と向き合うことや自分の死を思考することなど出来なかっただろう。 いろんな人がいる。酸いも甘いも苦いも、自分で知るのが大人への道。体で知るから、納得へ繋がる。その後は、自分で考える。これを選択とも言う。地面に這いつくばって、知りながら上がってきたんだもん、今の娘。きちんと自分で選択しますよ。だから、ママ、安心してよ。 「宝物は、手放すことで、その存在を確たるものにしていく」自分が宝物だからこそ、自分を手放すことができる。


◇心ざわざわ Top

since 2003/5/1 Copyright (C) kokorozawazawa 2014 All Rights Reserved